Act 2 (分析)


 5.

  しかし幸か不幸か彼女は倒れずに家に辿り着き、いつもと変わらない一人きりの夜を迎えたのだった。洵が遅いと分かれば、億劫な一人前の食事など作らない。
 次の朝にしても良かったが、彼女は起きて洵を待つことにした。
 どのみち、暑くて眠れやしないのだ。
 ブイネックのシャツに短いパンツを履き、裸足でいてやっと汗が出ない程度である。出来れば髪を束ねたた首筋に、風が吹いて欲しい所であった。
 しばらくの間、彼女は勉強をした。自分の身の上を思ったら、呑気に夏休みの宿題をこなすことが不思議であり、おかしくもあった。惰性のようなものだ。一区切り付けて時計を見たら、12時になろうとしていた。机から離れ、アイスコーヒーでも入れようかとノブに手をかけた。
 美海は、止まった。
 気配を感じた。
 多分、洵である。
 忍び込むように物音を立てない彼に美海は扉を開け、勤めて明るく階段下に呼びかけた。
「お兄ちゃん」
「何だ。まだ起きてたのか」
「お帰り。遅かったねえ、お風呂入れようか?」
 その明るさに、洵は首を傾げた。
「美海」
「はい?」
「熱でもあるのか?」
「あのね」
 美海は口元を引きつらせた。それとも本当に気が付いていなかったのだろうか。洵は起きていなかったのだろうか。異形の姿であった時に。
「お兄ちゃんには、いろいろ聞かなきゃいけないからね。尋問の前にサービスしておかないと」
「尋問とはまた怖い表現だね」
「今日の妹は、ちょっと怖いよ」
「馬鹿」
 ふと笑って、洵が美海の頭をポンと叩いた。ねぎらいの意味が込められている気がして、美海は顔を上げた。洵は既に、2階に上がり始めていた。美海は洵が理解している事を悟った。
「上で聞こう。俺の部屋で話すか?」
「うん。……ううん、あたしの部屋で。見せたい物があるの」
 言ってから美海は、トレイに手早くアイスコーヒーを用意し、洵を追って2階に上がった。
 洵が自室にバッグを置いている間に、美海は部屋の中央のテーブルにトレイを置いた。
 そして、棚に飾ってあった小さな陶器の鉢を持って、
「入るぞ」
 やって来た洵に、差し出すようにして見せた。
「何だ? それ」
「あのね。テディ・ベアの残骸」
 洵は眉をひそめた。
「誕生日にくれた」
「ああ」
 手をポンと叩いて彼はやっと反応し、それにポプリが入っているのだと言うことに気付いた。
「壊しちまったったのか?」
「うん。この力で」
 美海は同時に、手を離した。一瞬洵がびくりと肩を震わせたが、後の瞬間に来るはずの、割れる音はなかった。
 器はそのまま美海の胸の前で、ゆらゆらと宙に留まっていた。中のポプリが、ちらほらと中空に踊る。
 器を見る洵の顔は、数秒で驚きの色を消していた。美海は力を抜いた。落下するそれを受け止め、卓上に置いて、ペタンと座る。
「どうぞ」
 洵にも座布団を勧めて、トレイからグラスを卓上に移すと、美海はそれをテーブルの下に置き、コーヒーの1つを洵の前に少しずらした。
「サンキュ」
 洵はそれに口をつけた。
「うまい」
 美海に微笑む洵の仕草には、この日を予期していたかのような余裕があった。いや、きっと分かっていただろう。彼女を、臨海学校に行かせた時点で。
「1週間振りに、こういうものを飲んだ」
 それは全ての肯定であり、同時に、何もかも話すよと暗に語ってくれている姿勢だった。
「何から、話す?」
 すっかり心を開いて、洵は言った。
 美海は、息をついた。
 きっと自分は今、諦めた様な顔をしている。洵が笑顔だからだ。
「まず、謝らなきゃな」
 口火を切ったのは、洵だった。
「分かってて、お前を臨海学校に行かせた」
 美海は怒りも笑いも出来ずに、兄の穏やかな表情を見つめた。申し訳なさそうな表情にも見えるが、罪を感じていないようにも感じられる。だからと言って怒りを感じないのは、謝られたかった訳ではないからだろう。
「美海は、コーヒーをうまいと思うか?」
「え?」
 唐突の妙な問いに首を傾げた彼女に、洵は苦笑した。困った風に、あやふやに笑う“苦笑”ではない。笑っているのに、苦いものがこらえられない顔だった。
「俺はうまい味なんだと自分に言い聞かせて、飲んでいるんだ。本当の胃がこれを欲しがっている訳じゃないことは、分かっている」
 本当の胃。この表現に、美海は洵の言わんとする所が分かった気がして、無意識に自分の胃を触った。
「最初は、お前も人間の食べ物を受け付けなくなったかと思ったよ。でも、単なるショックで食欲がないだけだった」
「それを知るために、あたしを……海に、行かせたの?」
 美海は、洵の痩せた体に目を落とした。人間の食べ物を受け付けない、体。
「そうなったら、面倒を看れるのは爺さんだけだからな」
 だから洵は美海を海に行かせた、彼女の体が正常に機能するかどうかを見極める為に。
「でもお前は、生活出来る。俺のように、生命維持装置なんていらないんだ」
 洵は、良かったな、とでも言いたげに微笑んだ。本当に安堵している笑みだったので、兄は兄なりに精一杯美海を気遣って、最良の手段を取ったつもりなのだろう、と美海は思った。同時に洵が、自分のことを、存在を否定していることが感じられて、むしろそのことの方が心が痛かった。美海は、その否定を責めなかった。
「あたしだって、人間じゃないよ。海に帰らなくても、変な力があるんだよ。どんどん想いも強くなる、分かるの、自分の体が海水欲しがってる。こんなのが、人間な訳ないでしょう?」
 涙声になりかかった自分の喉を叱咤するように、美海は咳をした。卓上のポプリを凝視して話す美海の頭に、洵が手を置いた。ポン、ポン、と撫でるようにして軽く叩く。
「俺はな、美海。自分のことを憐れんではいないぜ。こんな風に生まれたことを呪ったし、爺さんを憎んだが、それでも生きている自分が可哀想だとは思わなかった」
 美海は、彼の言葉で気付いたことが2つあった。昼間の千鶴の言葉がふと重なったのが、1つ目だ。
 千鶴はあの生き物たちを、1個の生命として尊んで見ていないのだ。だから「それでも生きている」と言う表現をした。
 もう1つは、洵が祖父を憎んでいること。洵は、美海が海に行ったと祖父に知られたくなかったらしいことが伺い知れた。
「変な言い方になるが、人間は、人間だから人間の生き方をするだろ。俺たちは、そうしたいと思ったら、何も人間の生活をしなくて良いんだぜ」
「言いたいことは、分かるよ」
「それを自分が良しと思えば、だ。でなきゃ逃げだし、死ぬようなもんだからな」
 洵はそこで息をつき、コーヒーを飲んだ。美海も手を伸ばす。
 彼の舌に、その液体がどう感じられているのか知りたいと美海は思った。グラスの中で揺れるコーヒーを、美海はおいしいと思う。コーヒーの味を知っているのでなく、今飲んだこれが良いと思えるのだ。
 美海は、黒い液体を覗き込んだ。そこに自分の顔が、ゆらゆらと映っている。
 正直、美海自身はあの時映った姿を2度と見たくないと思っている。認めたくないからだろう。誰かに知られることが、怖かった。知られ、恐れられるだろうことが。
 超能力と言うものを目の当たりにしたはずの、同級の前川隆顕。連絡はない。顔を合わせざるを得ない新学期が、苦痛だった。
「お兄ちゃんは、」
「?」
「お兄ちゃんには、こんな力があるの?」
「あるよ」
 あっさりと答えられた。何とも思っていないようだった。
 愛おしげに妹を眺めていた洵は、自分の立場を本当に何とも思っていない自分に苦笑した。それは美海のおかげだったが、洵はそれを口に出さない。
「俺は俺だし、お前もお前だから。俺はこうしてここに在るけど、だから美海にもいてくれとか、海に帰れとか、それは言える立場じゃない。方向が定まらず不安なら、1度思い切り人を拒絶するのも手段だ。あるいは本気で誰かを好きになってみりゃ良い。本当の自分が見えてくる。俺は、そう思ってるけどな」
「……極論だね」
「取り得る1つの手段にすぎない。そうしろ、とは言わんよ」
「ずるいなぁ」
 口を尖らせて、美海はコーヒーを飲み干した。洵も同時に、残っていたそれを胃に流し込み、立ち上がった。
「福山さんも恋人の伊藤さんも、信頼して良いと思うぜ。特に福山さんは、お前のことを本気で引き取りたがっている」
「どうして今、それを言うの?」
「あの人たちが理解者だからさ」
 洵はそう言って微笑んだが、美海には、その笑みの意味が今言ったこととは何か違う意味のように思えてならなかった。
 立ち上がった美海は、ドアを開けた洵に、
「お兄ちゃん、」
 まだ話は終わってないよ。
 そう、言いたかった。
 過去の両親のこと、自分の記憶のこと、自分がどうやって作られたのか――。
 しかし、聞いても仕方ないと言う気はしていた。これから自分がどうしたいのかだけが、問題なのだ、と洵が言いたいのだろうことは、既に理解している。
 だから振り向いた兄に向かって、美海は声を絞り出し、
「おやすみなさい」
 とだけ、言った。
 洵は日溜まりの中にいるような笑みを浮かべ、おやすみと返事して、扉を閉めた。
 美海はホッとした。
 それまでの会話がどうであれ、彼女は最後の言葉だけには満足出来た。
 下に置いていたトレイをテーブルの上に移し、空のグラスをそこに乗せると、美海はポプリを手に取った。棚の上に戻し、眺める。白磁器の鉢の中で、まるで最初からそういうものであったかのように、ポプリはそこに在った。
「これも1つの在り方、か」
 眉をひそめ、溜め息を1つつくと、彼女はパジャマに着替え、ベッドに体を投げ出した。





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