Act 2 (分析)



 4.


 膝がもたない、と美海は虚ろに思った。
 ガクン、とその場にへたりこむ。
 余韻だろうか、膝がまだ笑っていた。その震えが肩にも伝わり、美海は震えを止めようと、両手で自分の体を抱いた。
「大丈夫、美海?」
 千鶴も美海の横に座った。美海の頭を自分の肩に寄せ、そっと撫でた。美海は、それにあらがわなかった。
 水槽の中で異形と化した洵の姿は、美海のそれとよく似ていた。違うのは、銀の髪を持って、美海より更に肌が青白いこと位だった。まぶたを閉じているので、瞳の色までは分からない。指と指の間に膜が張っていた。自分もこうなっていたのだろうか、と美海はボンヤリと考えた。
「洵君は、定期的に人工海水で体を開放しないといけないの。もともと地上生活向きに作られてないから、空気があわないのね」
 千鶴は、半ば機械的に言葉をつづったが、次に、
「美海」
 と呼んだ時には、生の声に戻っていた。
「あなた、これまで海で泳いだことがないでしょう。信じられないでしょうけど、人間のまま生活するために、今後も海に入ってはいけないの。そして、教授の元を離れなきゃ」
「お祖父ちゃんの、元を?」
 千鶴は頷いた。
「今は教授、何もしていないかも知れないけど、いつかあなたを研究の一端に加えるわ。洵君のように。でも美海は、あなたは人間なのよ。教授の好きにされちゃ、いけない……」
 千鶴の声は次第に感情を荒げつつあったが、そこで止まった。美海が、全くの無表情だからである。
 千鶴は確認するように、美海の肩を持つ手に力を込めて美海を見た。視線に気付いて、美海も千鶴を見た。
「……でも……。千鶴さんが言った事、全部、本当だとして……。あたしたちは……“新種”なんでしょ? “可能性”、なんじゃ、ないの?」
 千鶴は顔を歪めた。そんな顔を見られないようにするためか、感情の高ぶりからか、千鶴は美海の華奢な体に弱くしがみついた。美海の鼻に、彼女の香水の香りが漂った。
「もう、疲れたの。もう、嫌なの。これ以上続けて、教授は何をする気なのか。もう、信じられないの。狂ってる。狂気の犠牲になった生き物が、それでも生きているのを、もう見ていられないの」
 最初の「嫌」とは全く違う意味で、もう「嫌」なのだと言う彼女の心には、きっと偽りはない。夢に狂った六郎の研究の矛先が、最悪の道に向いたのだ。つまり、海中生活の可能な人類を誕生させると言う道に。そう解釈して、多分間違いはないだろう。
 美海は、自分を抱きしめる千鶴の体を逆にそっと抱いてやり、その肩に頭を置いて、考えた。
 千鶴は、美海が海に潜って変化した事を、知らないらしい。
 もし本当に単なる普通の、先月までの自分なら、こんな突拍子もない話をすぐに飲み込めるはずがない。千鶴が洵だと言う異形のものを目の当たりにしたことでも、「嘘よ!」などと発狂してもおかしくないのだ。
 だとすれば、ここで何もかも理解出来るのは、返って非常に冷静に自分が人間でないと言う事実を受け止めていると言うことになる。
 ねえ。そうじゃない? お兄ちゃん。
 美海は心の中で、洵に呼びかけた。彼に聞こえたかどうかは、自信がない。だが少なくとも美海には、彼の意識が戻っていることが分かっていた
「千鶴さん」
 かすれてはいたが、意外としっかりした声が出た。千鶴は顔を上げた。
「……悪いけど。あたし、今。……何も考えられない」
「え? ……あ。美、海……」
 やっと美海は、千鶴の肩から頭を離した。千鶴の肩にはねた雫が何なのか一瞬分からず、瞬きをして、美海は自分が泣いていることに気付いた。
 この夏の間、自分は何度泣いたことだろう。
 涙が出ると言う行為自体から見るなら、自分は確かに人間である。そう、信じたかった。
「ごめんなさい。少し……考えさせて。何が、何なのか……」
 割と頭は冷静なのに、声はかすれて、言葉も口に出る前に頭から消えてしまう。自分に歯がゆさを感じ、腹が立った。美海は、自分ではもっときちんと、自分の言いたいことを整理して言えるつもりで顔を上げたのだ。しかし実際には、自分が思うより混乱していたことに気付いただけだった。
 千鶴が美海の受けているショックの重さにようやく気付いて、立ち上がった。彼女はうつむく美海の肩を抱いて、立ち上がらせた。彼女の肩の細さに、再び千鶴の胸が痛んだ。
「そうよね。突然、あなたが普通の人と少し違うなんて言っても、信じられる訳ないものね。私が悪かったわ」
 美海の頬にへばりついた髪を、千鶴が指の背で払った。左手は、ずっと美海の肩を持ったままである。
 千鶴は、本気で美海の事を考えてくれている。そのこと自体は、美海の心にも伝わって来ることだった。姉のように慕っているし、博也も好きだ。彼らと過ごす時間は、いつもとても楽しい。
 だからと言って、それが即結論にはならない。
「出ましょう。洵君は、まだ半日はかかるわ」
 千鶴が美海をうながす。美海は、洵に目を落とした。自分も、ここに入らなければならない時期が来るのかも知れない。そう思うと、千鶴が美海にショックを与えないために形容した“普通の人と少し違う”という言い方が、皮肉に聞こえた。洵のこの姿に対して千鶴が“少し違う”だけだと本当に思っているのなら、とにかく。
 部屋を出た正面の階段に、熱気を帯びた光が射し込んでいる。それを柔らかな春の日差しと感じられる程、2人の体は冷えていた。
「今日のこのこと、ずっと悩んでいたのよ。見せるべきかどうか。まだマスコミも学会も、いえ、研究所の人間だって一部しか知らない計画だったから、私たちは逆にこのことを隠すのに今まで必死だった」
「千鶴さん? 今まで?」
「洵君をサブリーダーに、教授はまだ新種を開発する気なのよ。この前、そのプランの打ち合わせをしたわ。学会に提出出来る資料作りも、もう始めているの。分かる? 学会に、あなたたちのことを、発表すると言う意味なのよ」
 だから、そうなる前に美海だけでも大杉の名から外して、学会やマスコミの手の届かない所に連れて行きたいのだ、と千鶴は言った。だから、行動は少しでも早い方が良いのだ、と。
「今日明日中に、とは言わないわ。でも、半年や1年も待てることじゃない。美海自身、今後、教授や洵君と話し辛くなっちゃうでしょうし。なるだけ早いうちに、決心して欲しいの」
 千鶴が六郎の“作品”を快く思っていないことは明らかなのに、その同族であるはずの美海になぜこんなに親身になれるのか、その方が美海には分からなかった。
 美海は階段を上りかけて、立ち止まり、顔を上げた。
「ねぇ、千鶴さん。千鶴さんは、あたしを引き取るって言うけれど、嫌じゃないの?」
 千鶴が振り向く。
 先に階段を上がっていた彼女の背に窓があって、逆光になり、彼女の表情を分かりにくくした。
 微笑みなのか悲しみなのかさえも、分からない。
「私と美海って、似てると思わない?」
「え?」
「妹のように思っているのよ」
 千鶴はきびすを返して、階段を上がりだした。美海もその後を追った。
 なぜか嬉しさと言うものが込み上がらず、美海は結局夕食の誘いを辞退して、帰宅することにした。
 まだ蒸し暑い夕方の空の下を歩く美海は、いっそこのまま日射病で倒れてしまいたい、と思った。
 そのまま次に目が覚めた時には、全てが夢になっている気がしたからだ。



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