Act 2 (分析)


 3.

 見たくはなかったが、見慣れた景色だった。
 来たくはなかったが、よく来た場所だった。
 ここは、こんなにも海が近いのに、遠い所だ。
 そう思いながら、美海は祖父の研究所を見上げた。海岸沿いに建てられた、コンクリート造りの、嫌な薬品の臭いがする、冷ややかな所。この臭いを嗅ぐと、泣きたい気持ちになってしまうのだ。
 だが千鶴にしてみれば、ここが職場である。
 彼女は慣れた手つきで、正面の扉を開けた。ふわりと薬品の臭いが強まるのと同時に、数人の声が聞こえて来た。
 研究所と言っても片田舎の診療所さながらで、そんなにも大きい訳ではない。真ん中に通路が1本通っていて、その両側に2つずつ部屋があるだけの、シンプルな作りである。廊下の奥の左側に階段があり、2階と地下、両方に続くようになっている。2階に広めのミーティング室とベランダがあることは美海も知っていたが、地下が何なのかは知らなかった。物置だと聞いたことはあるが、行ったことはない。
 美海は直感的に、千鶴の行き先が分かった気がした。が、その勘を裏切って千鶴は、正面から一番近い部屋の扉を開ける所だった。
「ここで、ちょっと待ってて」
 そう言って、千鶴は中に入って行った。
 しばらく話し声と笑い声が交わされていた。薬品の臭いに慣れよう、と美海は顔をしかめた。細めた視界の端に、白いものが映った。
 白衣である。千鶴だった。
 彼女は完全に扉を閉めてから、小さく、
「こっちよ」
 と言った。
 その言葉と、千鶴が歩き出す方向が、先程の直感と一致した。
 予感とも言えた。
 青白い姿が、思い出された。祖父の研究は海洋生物である。“あれ”を海洋生物と呼ぶなら、答えがここにあってもおかしくはない。
 千鶴は特に神妙な顔にもならず、むしろ悠々と突き当たりの階段を降りた。そこを躊躇したのは、美海の方だった。
 階段は一つ折り返して、1階の廊下の真下に当たる所で、その段を終えている。終点を守る扉は全く普通で、鍵ひとつであっさりと開いた。美海は一瞬身を震わせたが、部屋は半分物置と化している普通の小さな部屋だった。
 その物置部屋の向こうにある、扉。こちらには鍵穴がなく、扉も鉄製で、電卓の様なプレートが貼り付いているものだった。
「凝り性でしょ? 教授ったら」
 くすりと笑い、千鶴が電卓状プレートに数字を打ち込んでいった、その桁は14個。尋常でない長さに、美海は目を見張った。
 美海の驚きをよそに扉は小さく音を立て、千鶴に侵入許可を与えた。千鶴はノブを回して押し開いた。真っ暗な地下室から冷たい空気が流れ、2人の足元を撫でた。
「キーワードが、ちょっとした語呂合わせでね」
 千鶴が、美海の方に振り返った。部屋の内側にスイッチがあるらしく、千鶴が伸ばした手の先でパチッと音がするのと同時に、蛍光灯が室内を照らした。美海は光に目を閉じたが、すぐに慣れて――ぎょっとした。
「いざ、ここ最果てより、船出せん。……ロマンチックだとは、思わなかったわ」
 千鶴の背後で、等身大もありそうなガラス管がいくつも、明かりの下に立っていた。
 千鶴は身をひるがえして、中に入った。美海もそれに続き、そんな彼女の背後に回り込んだ千鶴が、扉をガチャンと閉めた。一瞬、美海は肩を震わせた。
 改めて美海は、その50坪ほどの部屋に並べられたガラス管を見た。
 何も入っていないものも、ある。しかし入っているものには、見たこともない生き物が、あった。その形は、何とも形容がし難い。
 魚に近いものも、いた。
 鳥に近いものもいた。
 獣に近いものも。
 人に近いもの。
 液体はホルマリン等でないらしく、皆、水の中に生きてきた。
「最初にここに来た時、正直、吐いたわ。教授のことが信じられない、と思った。一体何を作ってるんだろう、ってね。ここを任されてから、何度辞めようかと思ったわ」
 話しながら、千鶴は部屋の奥へと歩き始めた。この地下を支えるコンクリートの柱やガラス管に邪魔をされ、見失いかけながら、美海は千鶴の声を追った。なるだけ、ガラス管の中身を見ないようにして――見ると、足が竦んだ。
「でも、ここには可能性が息づいていた。新しい種を産み出そうとする可能性が。そして、夢と理想に捨てられた可哀想な生き物たちが、それでも生きているのだ、と、ここに存在し続けてるのよ」
 コツコツと遠くなりかける足音を聞きながら、美海はガラス管の間を縫って通った。水音と、モーターの音と、そして、怪物と形容出来る悲しい生き物たちの息づかいが聞こえた。
「私には、彼らを見捨てる事が出来なかった」
 白衣のポケットに手を入れた千鶴が、そこにひっそりと立ち尽くしていた。
 部屋の一番奥の一番隅に置かれたその水槽だけが他と違い、長方形が横たわった状態のもので、蓋が付いていなかった。
 棺にも、見えた。
 中に眠るものが、あまりに青白く、静かだったからである。
 美海は悲痛な声を上げかけて、思わず両手で口を押さえた。
 既にそれが何なのか、千鶴に言われるより早く、美海は理解していた。
「――洵君よ」
 泣きそうな、歪んだ笑みをして、千鶴が美海に振り返った。



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