Act 2 (分析)



 1.


 唇を切った跡は、しばらく残った。
 兄がごまかしてくれた話に沿って嘘を付き、美海は厚子にも事情を説明して、協力してもらったのだった。夏休み中会った時の会話での、矛盾を避けるためだった。
 祖父に臨海学校の件を知られないようにするためだった。気が動転していた。考えたくない、と言う方が適切だったろう。考えなければ、美海にとっての現実をこなしていれば、そのうちなかったことになるに違いない。そんな思いで、美海は鏡に映ったもう1人の自分を忘れようとした。
 だが。
 夏休みも後半に差しかかり、傷も薄れて来た頃、美海のそんな逃避思考も徐々に薄れた。
 疑問と、怒り。
 海はいけないと言った祖父。
 記憶は、薄れやしなかった。
 むしろこれが現実なのだと、責める様に美海の脳裏から青白い映像が離れない。
 1人で夕食などを用意する気も起きず、食欲もなかった。
 もともと小柄だった美海の体は、更に繊細さを増した。いや、繊細と言っても、彼女の体重はその表現をかろうじて使える、ぎりぎりのラインまで落ちていた。だがその日も美海は、やはり食べると言う行為が億劫で、自室から出る事なく1日を終わらせようとしていた。
「私は、何なの?」
 あの時、明らかに人間でなかった私。
 口に出してみた疑問に、答えてくれる者も今はいない。兄は研修だとか何とかで1週間、いない。祖父の方も、話そうと言う気になった時に限って出張に行ってしまったりなどして、美海はタイミングを逃していた。どう切り出せば良いのかを思案しているためもあった。
 美海は、両手で顔を覆った。覆った指の間から、ベッドの上に横たわっているテディ・ベアが見えた。
 そのテディ・ベアは、ポプリをレースにくるんで形にしたものである。リボンをしていて、つぶらな瞳。それを16歳の誕生日にプレゼントしてくれたのは、洵だった。
 洵は何かを知っているのだろうか? それとも何も知らないだろうか?
 美海を本当にただの人間の妹として扱ってくれて、プレゼントをくれたのかどうか。今の美海に信じられることはなかった。
 ごつごつと骨が見える背中を隠すために下ろした、髪。それが腰辺りで、一瞬、ゆらりと動いた。蛇のように。
 美海は顔から手を離し、上半身を動かしてテディ・ベアを見た。調子を合わせるように、テディ・ベアがゆらりと浮き上がった。
 能面のまま。――文字通り、今の彼女には感情がなかった。
 美海は、少し目を動かした。
 テディ・ベアが動いた。
 美海の膝に向かって、中空を歩いて寄って来る。
 いや、歩くには、このクマは手足を動かしていない。
「手足を……」
 美海は、慎重にテディ・ベアに力を込めた。
 歩いている雰囲気にするには、右足と左手が同時に出て、左足で地を蹴って体を乗り出さなければならない。
 だがテディ・ベアの作りは、そのような動きが可能ではなかった。レースの布地は収縮せず、かつ繊細である。
 瞬間。
 それは見えない手によって引き裂かれ、悲鳴を上げた。
「あ」
 甲高い音を立ててそれは、かつてクマの形をしていたらしい、と言う程度の残骸となって、床にポプリを撒き散らして落ちた。
「いけない」
 まだ1年こそたっていない、誕生日のプレゼント。
 美海は、慌ててテディ・ベアに戻そうと念を集中したが、元になど戻る訳がなかった。レースはレースのまま、ポプリはポプリのまま、宙を踊り狂うだけだった。
 枯れた色の花たちが、白い花びらのようなレースと奇妙に混ざり合いながら、浮き沈みする。何とか一つに収めようとしても、竜巻のようにくるくると輪を作り、中空を舞うだけなのだ。
 花吹雪だ、と美海は思った。
「は。……はは。はははは」
 美海は、いつの間にか笑いを洩らした自分の口が歪んでいることに気付いた。視界も歪んだ。眉間に皺を寄せた。
 一枚一枚見えていた花びらは像がぼけて、塊に見えた。その塊が一瞬元のテディ・ベアに戻った風に見えたのだが、瞬きした時には既に、レースの残骸と枯れた花びらは、床に這いつくばっていた。
 美海はなおも笑いながら、鼻をすすり、頬をぬぐったが、一向に涙が止まなかった。
 自分のこの力は、壊しはしても、直すことが出来ない。
 取り返しが付かないのだ。
 今のこの状況が、元の何も知らなかった頃に戻らないことと、同様に。
 いつの間にか、美海はまた両手の平に顔を埋めていた。



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