Act 1 (波の揺り籠)
6.
「……はい。水を飲んでしまったので。……よろけて、鏡にぶつかって」
バスタオルにくるまった美海はうつむき、途切れがちに呟いた。口の端のバンドエイドが痛々しいが、むしろその程度の傷で済んでいる理由が、教師らには分かりかねるようだった。水着がざっくりと裂け、鏡も粉々になっているのに、背中には怪我一つないのだ。溺れておきながら自力で上陸していることも、不可思議に思われた。
そんな不可思議な目を向けられる中で、肩を支えてくれる厚子の気遣いが、美海には嬉しかった。
「ごめんよ、美海、そんなになってるなんて。あたしがもっと気を付けていれば」
「武田さんのせいじゃないわ」
保健教師が、苦い顔をして言った。すぐ助けられなかった事に責任を感じてくれていたのが分かった。それはしかし、今の美海には救いだった。間に合っていれば、とんでもない物を見せる羽目になっていただろう。砂浜にいた時はまだ人間だったらしいことが、皆の反応から伺える。美海は、厚子に微笑みかけた。
とんでもない物のもう一つを目の当たりにした隆顕は、終始黙りこくっていた。ふと美海は彼を見上げたが、隆顕は彼女を見ていなかった。
多分考えあぐねているのだろう、と美海は思った。
美海のそれが、超能力と言うものなのかどうか。
見方によっては、あるいは思い込めば、見間違いだったと言えなくもない。かも知れない。
教師の呼びかけに、美海は顔を上げた。
「どうする?」
帰宅を許す言葉に、美海は躊躇せずここにいたいと訴えた。
「水は怖くて入れないですけど、でも、皆と一緒にいたいです。運動やったり、お手伝いしますから」
「そんな事はしなくて良いから」
懇願する美海の態度に教師は屈し、可愛い一生徒の思い出作りに貢献してやるべく、これを許したのだった。
皆と一緒に、と言った時、少し良心が痛んだ。
中途半端に帰宅しては祖父に怪しまれると思ったためもあった。しかし本当の理由は、一番近く海にいられるこの時を、出来るだけ味わっていたかったのだ。
頭では、無利益な行動と分かっていた。
が。
――夕食直後の自由時間に日が落ちる、それを美海は必ず岩場に座って眺めた。
入り日が好きだった。
晴れた日の夕暮れは特に、水面が鏡のように空を映し、水平線がなくなって、自分が宙に浮いたような気になる。目を細めると、朱色の空の中にいるような錯覚に陥るのだ。
美海の気持ちを察して、厚子はその時は別の友人といる。1人ボンヤリと1日の終演を見守っていると、祖父の言葉が思い出された。
美海は、結局眺めるしかしてはいけなかったのだと言うことを、痛感していた。
輪郭が明らかになっていなかった物が、心の真ん中に、はっきりと浮かんでしまった。
美海は、泣きたい気持ちでそれを必死に押さえつけなければならなかった。それを開放することが何を意味するかも美海には全て理解出来ていた。理解させられてしまった。
空と海が混ざり、景色を赤く染め上げた。
夕日は誘う様に、美海を包み込んだ。
美海は立ち上がり、厚子や皆――現実が待っている宿に戻った。
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