Act 1 (波の揺り籠)


 5.


 ――水上の喧噪に比べ、ここは何て静かなのだろう。
 たゆたう美海を抱く世界は、初めての、しかし、懐かしい景色だった。日光が海の底まで届き、奇態な岩や生物たちをあらわにしていた。
 水族館などの架空でない、生の世界が。
 愛しかった光景が、彼女の手の届く所にあるのだ。そう思うと、嬉しさに、遊んでいる魚らまで抱きしめたくなるほど、両手をいっぱいに広げるのだった。
 美海は、ふと気付いた。
 魚らが泳いでいる。
 どこか楽しげに、どこか苦しげに。
 ああ。そうか。と美海は思った。
 海が汚れているんだね。
 本当はもっともっと、海って澄んでいるはずだものね。人間が、汚したんだね。
 美海は、水面ぎりぎりの所をさぱさぱと進んでいる人間らの群れを見た。
 人間が、あんたたちの住み家を壊しちゃったね。
 そう思った直後、息が苦しくなった。
 しまった、と感じた。長い間潜っていたらしいことを、ようやく思い出したのだ。
 美海は海底をトンと蹴って、水面に顔を出した。旗を探すと、人の群れが遠かった。ずいぶん沖に出てしまったことに、ようやく気付いた。
「   」
 呟くつもりで息を吸って、ぎょっとした。喉が熱く、声が出ない。
 喉だけではない。直後、内蔵が煮えるような激しい痛みに気付いた美海は、慌てて岸に向かって泳ぎだした。本能的に潜ってしまい潜水で皆をかわすと、海の底まで沈んで行きたい衝動が身体を駆け抜けた。理性でそれを抑え、無理矢理砂地に這い上がり立ち上がった。
 海だけはやめろ、と言う祖父の声を思い出す。あれはこう言うことだったのか? と思う美海の思考は中断された。身体が岸に上げられ、波が引いた途端に熱かった内蔵からこみ上げて来る感覚が起こったのである。美海は口を押さえた。
「そこのあなた! 大丈夫?!」
 ゴールの旗に待機する教師が、声を上げた。その声に数人の生徒が顔を上げた。ゴール岸に辿り着き、岩場を這い登る生徒の中に、隆顕もいた。彼はそれが美海である事を認めると、岩場の上を走り、よろよろと簡易シャワーに向かう彼女の後を追った。
 美海は一瞬振り返り厚子の姿を探したが、見付けられなかった。駆け寄って来る人間さえ分別出来ず、2・3度目をしばたたかせたほどだった。美海は諦めて、重い腕を上げて扉を開いた。
 荒い音で閉じたシャワールームの扉を、追いついた隆顕がバンと叩いた。が、鍵がかけられたらしく、開かない。
「大杉、大丈夫か?! 大杉! おい! 美海!」
 ドンドンと音が籠もるシャワールームの中で、美海は帽子を取りコックをひねって、真水に当たりながら髪をほどいた。
 さらり、と流れる彼女の髪。
 栗色の筈の長髪が、何故か白に近い金髪に見える。
「?」
 え、と言おうとしたがまだ声が出ず、内蔵も熱かった。喉を使おうとしたためか、再度激しい嘔吐感に襲われ、美海は慌てて流し台に走って手を突いた。
 流し台に設置してあるテレビ画面ほどの鏡の中に、ばっと顔が映った。本当にそれはテレビではないのかと美海は、一瞬呑気な考えに囚われた。それは見知ったような、見慣れない顔だった。
 何、これ。
 と思う気持ちと、それを気味悪く思っていない自分が、半分ずつ、そこにいた。
 色素が抜けて青白く映った顔。その中に、赤い目がギラリと光っていた。金髪がそれを覆う。肌に妙なぬめりがあり、しかも肌の外側の皮膚が硬くなりかかっていて、淡く虹色に照っていた。
「――ゲホン!」
 喉が詰まり、咳が出た。
 海水が吐き出された。かなりの量を飲んでいたらしい。口の端を拭うと、手の甲に血が滲んだ。甲の皮膚が硬くなっており、それが唇の端を切ったらしい。血は赤かった。
「ゴホッ。ゲホン! ゲホン!」
 しかし咳はまだ止まず、なおも彼女は海水を吐いた。それは産声を上げて羊水を吐き出す赤ん坊にも似て、彼女は半ば必死で吐き続け、それを水道水で押し流した。
 海水と一緒に昼に食べたものも全て吐き出し、胃液だけになりながらも、彼女は咳を止められなかった。呼吸困難の様でもあった。
「美海! みうみ! 開けろよ、返事しろよ! 力ずくで開けるぜ!」
 苦しさでとうとうへたり込んだ頃、やっと咳が治まった。水は、出しっぱなしになっている。口の端の胃液を拭おうとして、それが血である事に気付いた。赤い血は、血気のないもののちゃんと肌色に戻った親指に、付着した。美海は立ち上がり、口を洗って水を止めた。
 ずいぶん長い間だった気がしたのに、外の声はまだ隆顕しか聞こえない。まだぬめり気はあったが、数分もせず身体は戻ったらしいかった。頬にかかる髪の色も、暗い色に戻っていた。
 ようやくシャワーの水の方が出しっぱなしになっていた事に気付いた美海は反転し、コックをひねりに歩き出す。一歩進んだ所で、ふと立ち止まった。
 さらりと流れた髪からの雫が、背中から腰に直に伝わったのだ。水着の線が腰より上にあるのに、水が流れるのを感じるのは、おかしいことだった。美海は、嫌な物を確認するために、自分の背中が映る鏡を睨んだ。
 水着の背中側は、縦に真っ二つに腰まで裂けていた。
 美海には、それが何なのか分かる気がした。確信に近い。多分、背骨がせり出て来たのだ。背びれのように。
 くっ、と美海は笑った。
 苦し気な、絶望の色を含んだ笑いだった。
「おいってば! 開けるからな!」
 はっと顔を上げて美海が口を開くのとドアが押し開けられるのは、ほぼ同時だった。
「みうみ、」
「来ないで!!」
 バシン!! と、音がした。
 破裂の音だ。
 隆顕が、目を丸くしていた。美海を見て、彼は、彼女の横に視線を移した。
 パリ。
 パリン。
 チリン。
 美海も、隆顕の視線を追って、自分の横を見た。
 声は、出ない。
 シャワーの音だけが流れる中、教師らの声も近くなる中で、二人は、割れた鏡の破片を眺めた。

  



  

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