Act 1 (波の揺り籠)
4.
「じゃ、まずは軽くランニング代わりにあそこの旗まで、」
の教師の言葉が最後まで聞こえないほど、ブーイングが上がった。彼らが目を細めて眺める赤い旗までの距離は、どう憶測しても100mなどと言う生易しいものでない。弧を描く浜の端にいる彼らは、丁度その浜を横断して反対側に行く格好になっていた。誰かが1kmあるんじゃないか? と呟いていた。そこまでじゃないだろう、と誰かが返す。教師は、あえて距離を伏せた。
足の付く深さを選べば距離は長く、最短を泳げば、当然中間地点辺りは足が付かない。教師はボートでついて行くからと安全を保証したが、彼らとしては問題はそんな事ではなかった。想像以上に疲れること間違いなしの、その晩のことを思い溜め息が出る者が大半だった。
「美海」
厚子が、彼女の肩を叩く。美海は落ち着いた笑みで、厚子に頷き返した。ここに来て肝が座ったのか、美海は驚くほど自分が安堵したのを感じていた。“安堵”がまるで今の状況にそぐわない事に、本人が気付く訳もない。むしろ奇妙な高揚感さえ生まれ、今までにない感動に出会った時のような息づかいになっていた。
砂浜に線が引かれた。そこから海に走れと言う事だった。群の中には意欲を見せる男子生徒もちらほらと混じっており、先の前川隆顕もそんな顔をしていたのを、美海はちらりと盗み見た。隣りで厚子も似た様な顔になっている。何だかんだ言って負けず嫌いよね、と美海は心中で厚子に笑いかけるのだった。
ザワザワと騒ぐ生徒らがそれに並び、一瞬、静かになった。
その瞬間に、
「スタート!」
弾かれた様に皆が走り出した。砂に足を取られ、もつれながらも波が足首に触れるのを感じると、美海は身体にジンと痺れが走った気がした。
海水だ、と思った。
しぶきを跳ね上げ、腰に水面が触れるまで足を前に押し出すと、美海は、行ける、と感じた。皆がはしゃぐ雰囲気もあったろうが、彼女の奇妙な高揚感は頂点に達しようとしていた。
「美海ぃ」
「大丈夫、行けるわ!」
満面の笑みで厚子に振り向いてから、美海は水底を蹴った。その先には、真っ直ぐ赤い旗が立っている。厚子は思わず、カクンと顎を落とした。
「おいおい」
わざわざ溺れに行くか?! と仰天した厚子の呆れをよそに、美海はどんどんと離れて行く。慌てて後を追ったが、沢山の人間が一斉に作った波しぶきが彼女の姿を消した。美海は半ば厚子の事を忘れていた。 約2年前のわずかな経験の元にとにかく足を上下に動かし手の平で波を掻いたが、顔を上げていては思う様に進まないし、顔にもしぶきがかかって泳ぎにくかった。
美海は、そのうち身体が軽いことに気付いた。
もしかしたら、水の中の方が早くないだろうか。
彼女はそう思った。
近くで教師の声がした。
「皆、頑張れよう。今日しっかり泳げば飯はうまいし、良く寝られる」
「洒落になんないよう」
平泳ぎの女子生徒が、波の中でわめいた。
「わめくと体力がなくなるぞー」
他人事のような言葉に少し口の端を上げた後、美海は海にとぷんと頭をつけた。躊躇は、微塵もなかった。
教師が彼女の事を呼んだが、美海の耳には届かなかった。彼女はその場を離れるため、体の上下を反転させた。その美海の潜る様が綺麗なフォームを作っていたため、教師はほうと思いながら見守った。
しかし数秒後、感心の表情は放心に変わり、驚きの溜め息をつくしかなくなったのだった。
「……速いな、あいつ」
素潜りのまま美海が、教師の目の届かない所まで泳ぎ進んでしまうのに、大した時間はかからなかったのである。
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