Act 1 (波の揺り籠)
2.
実際、罪悪感はあった。
厚子と別れ、住宅街を家に向かって歩きつつ、美海はずっと、眉間に皺を寄せていた。
臨海学校をごまかす上手い言い訳が思い付かない。仮に無難な答えがあっても、今度は自分自身がそれをさり気なく言う自信がない。
友達の家に遊びに。
友達とキャンプに。
友達と旅行に。
何てボキャブラリーがないんだろう。
美海は顔に手を当てて、肩を落とした。自分の知能の程度に嫌気が差すが、出て来ない物は仕方がない。いっそ部活動でもしていれば合宿と言えただろうが、彼女の場合、彼女が夕食の仕度をせねば、大杉家にまともな食生活は訪れないのである。いや、かろうじて程度だが。
玄関をくぐるのは、美海が最初だ。
次に兄が。そして祖父が。
大杉家の家族は、以上である。
祖父はその仕事の不規則さゆえ、帰宅時間が読めない。やもすれば研究所に泊まり込みである。いつも泊まり込みで構わないのに、と心中悪態をつく美海だった。
遅いと、電話の留守番電話に伝言を入れてくれることになっている。
美海は祖父の伝言を期待しながら、玄関の扉を開けた。果たして電話は――伝言あり。
ピー。
「わしだ。今日は遅くなる、晩御飯はいらない」
ピー。
美海は声を出さずに、玄関口で万歳をした。
「何やってんだ、お前?」
「わぁ! びっくりした」
振り返ると、兄だった。
「びっくりしたのはこっちだ」
扉を閉めた洵は靴を脱ぎ、妹の頭に手を置いて、よいしょ、と玄関を上がった。
「あのねぇ! 重いでしょうが!」
「お前が今帰って来てるってことは、飯もまだだよな」
「人の頭に手を突いた事謝らなきゃ、御飯作らないよ」
「俺が悪かった」
あっさりお辞儀する洵に一瞬気を遠くしたが、すぐ気を取り直す。ははと笑いながら、彼女も玄関を上がった。こう言うテンポなのだ。
美海は、この兄を好きである。
伊達か酔狂か髪を背まで伸ばして後ろで束ね、肩幅はそれなりにあるものの、やせぎす。よく1週間ばかりの軽い失踪を起こし、通常でも何を考えているのか、飄々としていて今ひとつ掴めない。
しかし普通にしていれば容姿とて、眼鏡も作用してか物静かな優男風なのである。友人に見せても恥ずかしくない程度には顔も頭も悪くないし、何より、一緒にいると安心した。
兄だから当たり前だけど、と美海は思う。
彼女は、顔を上げた。
「何か言った?」
洵が背を向けて階段を上っていたため、声が聞き取れなかったのだ。
「今年、臨海学校だろ?」
さらりと言う洵の思いがけない問いに、美海は立ち止まった。言葉が、出なかった。
問題は、祖父だと思っていた。
考えてみれば兄も同じ高校だったのだ、知らない訳がない。戦う相手がまず兄だったとは。美海は、真剣に自分の知能の低さを呪った。
洵は足を止めて、美海を見下ろした。
「行くのか?」
ないのか?と聞くのではなく、既にあることは肯定している。彼女の表情から、全て読み取ったらしかった。
鋭い兄も時々嫌だ。と美海は思いつつ、口を尖らせた。
「先生もついてるもん。溺れないわ」
「海だけはやめろ、と爺さん言ってたろ? 悲しませるのか?」
なだめる様な兄の言い方に彼女の罪悪感は、次第に苛立ちに変わった。美海は目を吊り上げて、洵を見た。
「皆、大袈裟よ! 溺れるのが怖いなら、プールだって禁止すれば良かったじゃない。プールに溺れた時はそんなにでもなかったじゃない、おかしいよ! 何で海だと、そんなにうるさく言う訳? 私は……」
洵は、妹がまくし立てる言葉を、じっと聞いていた。聞くと言うよりは、自分の中で何かを思案している様子だった。その様子を怪訝に思い、美海は喋るのを止めたのだった。
「どうしても行きたいのか?」
ここまで来たら、後には引けない。美海は、こっくりと頷いた。
「俺が連れてってやると言っても、臨海学校が良いか?」
妙な問いである。一瞬奇妙な感じを憶えた美海だったが、頭に血が登っていたため、あまり考えずに、臨海学校に行きたいのだと強調してしまった。
「お兄ちゃんだってカナヅチじゃない」
それを言われると辛い、と洵は苦笑いをした。その笑みは、どこか吹っ切れたような印象があった。美海は次の兄の台詞を何となく予感し、それは的中した。
「爺さんは、俺がごまかしとく。気を付けて行っといで」
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