青回帰(あおかいき)

  Act 1 (波の揺り籠)


 1.


 小さな頃の記憶。
 普通、人は、3歳か4歳位から記憶の断片を持っているものだ。いずれ忘れるにしても、10代の人間ならまだ憶えている方が一般的だろう。……よほど、心に傷を負うなどしなければ。
 彼女には――6年前からしか、思い出がない。
 それがなぜなのかも、記憶には、ない。
「その年、俺たちの両親が亡くなったんだ。そのショックからだろう。……もう気にするなよ。美海(みうみ)
 と、兄が言った。

      ◇

 実際、先週までは忘れていたことだったのだ。
 それを、今さら悩むこともなかったはずだった。
「ああ、嫌だ。悩んじゃった」
「へ?」
 厚子(あつこ)がきょとんとして顔を上げた。美海は、頭をうなだれて、こめかみに手を当てていた。
 視線に気付いて、美海は彼女を見た。揺れた栗色のポニーテールが、窓から差し込む日差しに透けた。その毛先は、腰の辺りでたゆたっていた。
「これ。先週のホームルームで配られた、」
「ああ。2年生恒例の」
 臨海学校の通知であった。
 美海はこくと頷いた。厚子も、こくと頷いた。
「あんた、泳げないんだっけ」
 もう一度2人、こくこくと頷き合う。だが、ここで美海は、
「でもね、」
 と付け加えた。
「何となく、ね。海、行ったことある気がするの」
「泳いだことあるの?」
「分からない。その時溺れたから、カナヅチになったのかも」
 臨海学校への参加・不参加の印を、美海はまだ自分の用紙に記していない。提出は今日である。美海は、これを家族の誰にも相談していなかった。
 美海は、生まれてから一度も――憶えている限りでは――海で泳いだことがない。彼女の祖父大杉六郎が、これを許さないからである。彼女ほど完全なるカナヅチでは、海なぞもっての他と考えるのも仕方がない。中学の時の授業で溺れかけて以来、本人も「プールは嫌だ」と思ったのである。息継ぎがどうしても、出来ないのだ。
 しかし。
 なぜ、海には行ってみたいと思うのだろう?
 美海はそんなことを思いながら、ぼんやりと通知書を眺めた。
「え?」
 美海は、顔を上げた。
 厚子がくいと自分の後ろを指さすと、スピーカーが授業開始のチャイムを流していた。皆がガタガタと準備を始め、遅刻の男子生徒が飛び込んで来ていた。
「まぁ、良いじゃないの。近所の海に皆で行った所で面白くもないんだし」
 慰めの意味でポンと美海の肩を叩いて、厚子も自分の席に戻った。それを見ながら、美海は溜め息をついた。
 毎度のことよ、彼女は自分に言い聞かせる。
 死にたいのか、と言う祖父の言葉が脳裏に蘇る。
 海だけは、いかん。頼むからこれだけは聞いてくれ、命に関わるのだ。
 祖父は、小さいながらも一通り設備を揃えた研究所を持つ大学教授である。科学者と言った方が適切かも知れない。海洋生物研究。それゆえの大げさな心配だと思っていた。自分も泳げないし、六郎も悲しむ、だから海に行かず、海の話をしないだけだった。今までは。
 心には、引っかかっていた。
 海が。
 なぜか、耳に波の響きがまとわりつく。
 さながら、子守歌のように。
 なぜか、愛しい。
 海が。
「起立」
 いつの間にか来ていた教師と立ち上がる生徒を見渡して、慌てて美海も立ち上がった。
「礼。……着席」
 ガタ。ガタ。
「さて、持って来たか? 臨海学校の出欠用紙、忘れた奴は取りに帰ってもらうぞ」
 教師の言葉に、美海はまだ印を入れていない用紙に向かって、ボールペンを握った。
 保護者欄、印鑑は小細工をして来た。参加・不参加の欄に丸を振ることだけが、ためらわれていた。
 友達と行くんじゃない、先生も同行するのだ、滅多なことでは溺れやしない。
 要は六郎を悲しませなければ――ばれなければ、良いのである。
「じゃ、後ろから回して来いよ」
 ガサガサと鳴る用紙の音を聞きながら、美海はペンを参加の方へと走らせた。




  

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