River of forgetfulness
黒い絵の具を撒き散らしたような暗黒の世界が広がっている。
時折耳をかすめるのは打ち寄せる水の音。そして思い出したようにすりあう草の波。
――――気がついてみれば、私は闇の中で一人佇んでいた。
足元に目を向けても何も見えなかったが、裸足で踏みつけているそれらの感触から察するに、そこにあるのは大小さまざまな石のようだ。
冷えたそれらの感触を確かめてから、ゆっくりと視線を持ち上げる。
一面の闇だ。何があるわけでもない。
なぜ自分がここにいるのか。それを思い、私はふと小首を傾げた。
――なぜか、記憶がひどく曖昧だ。
確か私は自分の部屋であたためたミルクにラムを落としたものを飲んでいて……部屋の中には日頃から好きで聞いている音楽が流れていたはずだ。
そこまで考えた後に、ああ、これはきっと夢の世界なのだと思いつき、手を打つ。
私は今、夢の世界に身を置いているのだろうと。
夢の中なのだと思えば少しも恐ろしいことではない。むしろ、現実ではない世界をゆっくりと堪能するのも悪くないことだろう。
何しろここは実際にはありえない、空想の世界なのだから。
もしものことがあっても朝を迎えてしまいさえすれば、これっぽっちも問題ないのだから。
徐々に暗闇に慣れてきた目を細めて前方を見やる。
――それほど離れていない場所に数人の人影が見える。
暗闇の中にぼんやりと浮かびあがるように動く彼らの姿は、どこか幻想的なほどに淡く白い光を放っていた。
「こんばんは」
ゆっくりと足を進めて彼らに近付き、相手の出方を伺うように声をかけてみる。
三人の男女がそこにいて、その内の一人――私よりも年下だろうと思われる少女ばかりがこちらを見ていた。
少女は椅子の上に膝を抱えた状態で座っていて、シンプルな白いキャミソールをまとっている。
音もなく吹きぬけていく風が揺らす長い髪は白というよりは銀色に近い色をしていて、その下でおしげもなくさらされている肌は、いっそ厭味なほどに白くなまめかしい。
「――こんばんは」
私の言葉に一拍おいて返事を寄越すと、少女は花のように可憐な笑みを浮かべて首を傾げた。
彼女の手前――つまり私側にいる男性も白いシャツを着ていて、肩より少しばかり長く伸ばされた銀髪だ。
彼もまた椅子に座って、大きなキャンパスに向かい絵筆を動かしている。
私は彼が何を描いているのか興味を惹かれ、傍まで寄っていって男性の背中から覗きこむようにしてキャンパスに目を向けた。
そこに描かれてあったのは椅子に座っている少女。椅子に腰掛けたままで虚ろな視線を横の方に投げかけている画だ。
画の中の少女は何かを膝から下に抱えているが、それが何であるのか――なぜかそこに漂う闇が濃くて判然としない。
「お上手なんですね。画の勉強とかしてるんですか?」
男性に向けて言葉をかけると、彼はそれまで動かしていた筆を止めてゆっくりと振り向いた。
――暗闇の中に浮かびあがる白い肌。それはむしろ病的なものであるかのように思えて、私はその瞬間だけ背筋が凍るのを感じた。
彼は私の顔を見上げて柔らかな笑みを浮かべて応える。
「いいえ、専門的なことは何一つ。……趣味の域をこえないものですので、お恥ずかしいかぎりです」
一定した穏やかな口調。
私の顔を見上げる彼の瞳の色は、頭髪の色と同じ色をしている。
「いえ、そんなことはありません。凄くお上手なのですね」
彼の応えに対してそう返すと、彼は椅子に腰掛けた体を私の側に向けなおして足を組んだ。
全身を覆う白色が、灯り一つない闇の中をぼんやりと照らしているかのように仄かに光る。
「貴方は絵画の勉強を?」
「いえ、全然。だからちゃんとした感想を言えなくて……」
応えて笑う私を見上げ、男性もまた小さく笑う。
さらに奥へと目をやれば、椅子の上の少女の向こうにすらりとした長身の男性の姿が見える。
今目の前で再び絵筆を動かしている男よりは少し年下になるのだろうか。
やはり全身を白色で覆っている。銀色の髪はきちんと撫でつけられていて、神経質そうな切れ長の目でどこか遠くを眺めている。
ふとその手元に目を向けた。彼は手の中に小さなハーモニカを握り締めている。
「――ああ、彼は俺の弟なんですよ。最近あれに凝り出したようで。ええと、ブルースハープっていうんですか」
私の視線に気付いたのか、手前の男性が絵筆を揺らしながら肩越しにこちらを見やって笑った。
「へぇ……なんだか素敵ですね」
「それと、名乗らないのもなんですね。ラグといいます。あっちの彼はヴィス」
ハーモニカの男を筆で示しながらそう説明しはじめたラグに、ヴィスと呼ばれた男が一瞬だけ視線を向けてきた。
「私はセツ。……こんな場所で自己紹介っていうのも、なんだか妙な感じね」
キャミソールの少女がそう言って首をすくめた。
「私は」
名前を告げようとしたその時、奥で言葉なく立っていたヴィスが重たげに口を開けた。
「兄さん、来たよ」
彼が指で示した方角に顔を向ける。と、横手に広がっていた大きな河の存在に気がついた。
「河があったんですね」
見たこともないほどの大きな河。向こう岸が見えないのは、おそらく闇のせいばかりではないだろう。
寄せて返す水の音に耳を傾けて、そこから吹いてくる風の冷たさに目を細める。
独り言のように呟いた私の言葉に、ヴィスという名前らしい男がようやく口を開いた。
「――――お前はこの河に用があってここに来たのではないのか?」
「ヴィス」
ヴィスの言葉を制するように片手を述べて、ラグが筆を置いた。
「……用事? ……この河に?」
ヴィスの言葉をそのまま言い返してから眉根を寄せて黙りこんでしまった私に、セツが微笑みを浮かべつつ言葉をかける。
「――気にすることはないわ。ヴィス兄様は初対面の人には少しだけ意地悪なの」
セツの言葉に頷いた私を確かめて、ラグの顔がヴィスのほうを向いた。
「――――もう間もなくここへ着くだろうか。……あまり時間がないね」
そう言って椅子から立ちあがったラグが私を見やり、穏やかな笑みは変えることなく銀色の双眸を三日月のように細くさせた。
「さてと……悪いが君にはそろそろ目を覚ましてもらうより他にない。……時間もないのでね」
目を覚ます――――? ああ、もう朝が来るのね。
軽い気持ちで頷いた私の額にラグの指が触れた。
背筋を抜けていくヒヤリとした感触に、私の頭のどこかが疑問符を投げかけた。
――――これは本当に夢なのだろうか…………?
気がつくと、私は自分の部屋の中に横たわっていた。
どうやら知らない間に卒倒でもしていたらしい。そこはベッドのある部屋ではなく、食事をとるためのテーブルなどが置かれてある部屋だった。
わずかにフラつく頭を抱えて立ちあがり、壁がけの時計に視線を向ける。
朝の五時を少しだけ回ったところだ。
足を数歩進めたところで何かにつまずいて体がよろめいたが、気にせずに冷蔵庫へと向かってミネラルウォーターを取り出す。
冷えた感触が喉を通りすぎていく。
ぼんやりしている全身が水で満たされて、一気に目覚めていくような、そんな心地を味わいながら。ふと視線を下におろせば。
声にならない叫びというものを初めて体験した。
手の中から滑り落ちていったミネラルウォーターのボトルが床ではねてから転がった。
水の滴がコマ送りされているように宙を舞っている。
見慣れているはずの部屋の中には、もう返事一つすることもないであろう女の体が転がっていた。
それはまるでマネキンがそこにあるかのようで、ひどく非現実的な光景のように見える。
しかし女の口から流れ出している赤い泡が――それがなぜか、現実なのだという認識を私に与える。
力の入らなくなった足がみるみる内に床に滑り落ち、気付くと私は女の顔に目を奪われたままで
その場に座りこんでいた。
「お、母さん」
絞り出した声は自分でも驚くほどにかすれていた。
転がっている彼女をそう呼ぶと、私の意識は少しづつしっかりとしてくる。
何度かよろめきながら立ちあがり、彼女の傍に近寄って言葉なくただ見下ろした。
――――ああ、そうだ 私は
「思い出したか?」
冷ややかな声を背後に聞いた。私と母親以外誰かがいるはずのない部屋なのに。
しかし私はその声に驚くこともなく、ただ小さく首を縦に動かしてみせた。
振り向くとそこに立っていたのは夢で見たハーモニカを持っていた男。
全身を包む白がその目つきの悪さを際立たせている。
――否。おそらくその瞳の中には感情の一片さえもないのだろう。
私が頷くのを確かめたのか、彼はわずかに眉根を寄せて嘆息をついた。
「選択は二つだ。よく考えて決めろ」
そう言うと彼はゆっくりと片手を持ち上げて、指を二本立てて小さく微笑んだ。
私と母親は共に毒を飲んだ。
結婚を予定していた私は恋人に裏切られ、そして母は治る見こみのない病に蝕まれた。
私達は共に絶望にさいなまれ、どちらからともなく死を選ぶことにしたのだ。
生に執着しながらも不自由になっていく自身を憐れんだ母親と、失った幸福の大きさを過度に信じ込むことで未来に暗闇を見出してしまった私。
よく考えてみれば、それは自分達を憐れんだ愚行なのかもしれないけれど。
転がっている母親の向こうに見えるのは、まぎれもなく私の体。
壁にもたれかかり、両手はだらしなく床に投げ出されている。
――――私は目を閉じて喉の奥で絡みついている絶叫を静かに飲み下し、無理矢理に気持ちを落ちつかせてから再び目を開けて目の前に立っている青年――ヴィスを見やった。
「お前の母親はお前を捨てた男を呪い、あらゆる不幸を手招いてやることを選択した。
もちろんそうすることであの女はエデンにもゲヘナにも行くことの出来ない、惨めな魂となっていくのだが」
ヴィスはそう言い放ち、ゆっくりと目を細めてから言葉を続けた。
「――お前がどうするかはお前の自由だ。大人しく河を渡るか、それとも母親のようになるか。選べ」
なんの憐れみも躊躇も感じられない、吐き捨てるような口調。
私は転がっているお母さんの顔に刻まれている形相を確かめてから、フワリと笑んでみせた。
セツの画が完成した。
三人の影は岸辺に立ってカラのまま戻っていく小船の姿を見送っていた。
「ラグ兄さま。……彼女と彼女の母親がとり憑いているあの男、命を落とした後には向こう側へ渡れるの?」
ラグの顔を見やることもせずにそう呟くと、セツは長い銀色の髪を手櫛で撫でつけながら小首を傾げた。
「…………さあな。俺達の知ったことではないだろう。――俺達と”契約”して、とり殺される前に命を放り出すというのであればまだしも」
ラグはそう応えて口の端をかすかに歪め、片手で頭を掻きつつ踵を返した。
河を背にして歩いていくラグを見据えて嘆息をつくと、セツはラグの背中を追いかけるように小走りに足を進める。
去っていく二人の影を見つめながら、ヴィスはハーモニカを奏でていた。
水の音と風の音にまじりあったハーモニカの音色は、闇の彼方へと消えていった小船が残していった小さな波を見送るように空気の中へと溶けこんでいった。
――――どこからか、ハーモニカに似た音が聞こえてくるような気がする。
それは私がいつか聞いていた気に入りの音楽を模しているかのようだ。
私はふと顔を持ち上げて部屋の窓から覗く空を見やり、小さな欠伸を一つついてみせた。
薄い紫に縁取られはじめた空は、瞬く間に忙しない朝の色彩を色濃くしていく。
私はお母さんを揺すり起こしてから淹れたてのコーヒーにたっぷりのミルクを注ぎ入れ、起きあがってきた彼女に満面の笑みを浮かべる。
これから時間は永劫にあるのだ。
さあ、何から始めよう。
■ □ ■
22222を踏んでくださった鈴子さまからリクエストをいただきました。
お題は「夜明け」「希望」。
ラグとヴィスの会話場面なんかもリクされていらっしゃいましたが、今回は「夜明け」を重視して書いてみました。
あんまりリク通りにいってないというお声の高い? このシリーズ。
……いかがでしたでしょうか?(大汗
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おっけでーすっ!(笑) 高遠一馬さんから頂きました、短編v
ソースごと頂いて、加工させて頂きました。背景や字間行間はすべて高遠さんちと同じです。 この「死神」シリーズ好きなんです(いや他のも素敵ですが) リクエストに応えつつも物語の雰囲気を壊さない高遠さんの手腕もお見事♪ どうも有難うございましたvv(鈴子拝)
2004.10未明
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