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■ 現在、司法制度改革審議会で、日本の司法制度を大幅に改革するための審議が行われている。
審議の詳細については司法制度改革審議会のホームページなどを見て頂くとして、最大の論点のひとつは、「陪審」制度の導入の可否である。
「陪審」とは、無作為に抽出された市民(多くの場合12人)が、訴訟手続に参加し、事実の認定をする制度。刑事事件では、有罪か無罪かを決する。裁判官は訴訟手続の進行を主宰する。
表題の2作は、陪審での評議をドラマにした日米を代表する作品である。
この種の作品は、陪審の評議室だけを舞台に、セリフと演技だけで観客を引き付けるもので、脚本家と俳優にとっては腕の見せ所。12人に12とおりの個性を持たせ、力の入った脚本と演技が深い印象を残す。
■ 「12人の怒れる男」(1957年アメリカ、シドニー・ルメット監督)は、アメリカの陪審を素材にした、あまりにも有名な作品。主演のヘンリー・フォンダにとっても代表作と言っていい。
「12人の優しい日本人」は、陪審制度の採用されていないわが国での架空の話だが、その題名からもわかるように、「怒れる男」のパロディである。しかし、さらにひとひねりもふたひねりも加えた脚本は秀逸で、単にパロディと言ってしまうのは憚られる秀作である。
したがって以下では、「怒れる男」を米国版、「優しい」を日本版と言うことにする。
いずれも、それぞれの陪審員は不熱心で、しかも相当に予断を持って事件に臨んでいたのが、討論を重ねるうち、自身の予断が暴露され、それを乗り越えて行く過程が描かれる。サスペンスとしての「謎解き」の点でも十分に楽しいが、それにとどまらないところが感動を残すのである。
米国版では被告人は若いチンピラ。予断に満ちた陪審員は簡単に有罪で一致する。ヘンリー・フォンダ演ずる主人公は、無罪の確信を持っているわけではないが、こんなに簡単に有罪にしていいのかという疑問からあえて無罪説をとり、他の11人の顰蹙(ひんしゅく)をかいながらも議論を提起する。
日本版ではこれをひとひねりし、被告人は若い女性で、それも相当の美人。やる気のない陪審員たちは簡単に無罪で一致するが、やはりひとりの陪審員が、こんなに簡単に結論を出していいものかと、あえて有罪を主張して議論が始まる。
日本版にはストーリー展開のうえでもうひとつ大きなひねりが加えられているのだが、まだ見ていない人のために、ここでは触れないでおく。
3つ目のひねり。米国版では問題提起者がヒーローなのだが、日本版では問題提起者自身に大きな偏見のあることがやがて明らかになる。
これらのひねりと全編を通じてのユーモアの点に、私としては、脚本の出来としては日本版に軍配をあげたい所以がある。
密度の高い討議を経て、それまで裁判については全くの素人だった陪審員たちは、それぞれの持つ偏見を乗り越え、事件の真相に肉薄し、最後は一仕事を終えた満足感とともに再び街に散っていく。
まさに陪審讃歌は人間讃歌であると実感させられる。
■ ところで、「12人の怒れる男」という題名で、何か感じないだろうか。
そう、ここに登場する陪審員は12名全員が男性で、女性は1人もいない(日本版では女性は3人)。そればかりか、全て白人で、黒人・アジア人は1人もいない。白人男性ばかりなのである。スラムの出身者が1人いる設定となっているが、それも成功者。貧乏人すらいない。
当時のアメリカの陪審制度がそうなっていたのかどうかは知らない。陪審員選定にあたって、検察側・弁護側それぞれが拒否権を行使して候補者を絞っていくから、たまたまそのような構成になることがあり得ないわけではない。しかし、ストーリー上はそのようになる必然性はない。
白人男性だけというこの映画での陪審員の構成は、少なくとも当時のアメリカの社会的・文化的状況を反映しているということだけは言えそうである。
話は跳ぶが、「アルマゲドン」や「ディープインパクト」同様、彗星が地球に衝突するという設定の映画で「地球最期の日」という古い作品がある。
最近の2作では、致命的な衝突は回避されるのであるが、古い作品ではこれが回避され得ず、少数の人類が地球を脱出することとなる。この脱出するメンバーが全て白人である。それどころか主要な登場人物も白人だけである。
「ディープインパクト」では危機に対処する米国大統領がモーガン・フリーマン演ずる黒人という設定となっているのと比べると、隔世の感がある。
欧米社会において、市民あるいは人がましいものといえばそれは白人男性だけであった時代というのは、そう遠い昔ではなかったのである。
■ さて、日本人には陪審は無理だという意見がある。日本人は自分の意見を言う習慣はなく、大勢に任せる傾向があるからだという。果たしてそうだろうか?
まず素朴なところで言うと、アメリカ人にはできるが日本人には無理だというようなことがあるのか、という疑問がある。例えば教育水準に関する限り、識字率ひとつとっても、日本は欧米に比べて勝るとも劣らないものを持っている。
最も重要なことは、陪審という制度は神の如き叡智をもったとまでは言わないまでも、相当に知的レベルの高い、司法手続やあるいは討論というものに習熟した人間を想定した制度ではない。
事実の認定については、法律についての専門的知識を有してはいても少数の者に委ねるより、法律には素人であっても社会経験のある一定の人間が集団的に討議する方が優れているという考え方が陪審制度の根幹にある。
つまり、陪審制度で予定されている人間像は、「ただの人間」にすぎない。
ちなみに、私は地元の中学校のPTAの会長を2年間つとめたことがある。言うまでもなく役員は圧倒的に女性であるが、みなさん実に自由かつ真摯に議論に参加されていた。飾り物にすぎない私はともかくとして、校長や教頭に気兼ねをして無言で押し通すというようなことはない(もちろん議論にあたって礼節に欠けるところはない)。
大半のお母さん方は、組織運営や会議の経験などはほとんどないことと思う。しかし、疑問は疑問、意見は意見として、力むことなく、物怖じすることなく参加し、行動する。
PTAでの経験を通じて私が知ったのは、結構日本には民主主義が定着していること、さらにはこのような活動が民主主義の学校にもなっていることである。
断言できる。日本国民は、陪審のつとめを果たすうえにおいて劣るところはない。
偏見を持ち、司法作用に対する知識や使命感がなくとも、ただの市民がその経験に照らし、意見を交換することで事実の発見に大きな力を発揮することができるということをこの2つの映画は語っている。