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最初からぼやきになるが、洋画を日本公開する際の邦題について。
原題をそのままカタカナ書きするだけで、あまりにも芸がなさすぎると思いませんか、という話題である。
例えば「プライベート・ライアン」というのがある(1998年アメリカ)。原題は「Saving Private Ryan」。
スティーブン・スピルバーグの作品で、第2次世界大戦中、アメリカ人ライアン一家の4人兄弟の3人までが戦死し、4人目も行方不明となった状態で、母親の嘆きを慮った軍上層部は4人目のライアンを捜索・救出するという作戦を実行する。
任務に従事する兵士たちは、1人を救うために数人の命を危険にさらす作戦に矛盾を感じながらもライアンを探して戦場をめぐる。
ノルマンジー上陸の戦闘描写の迫真性が話題を呼んだが、一見ヒューマニズムに基づくライアン捜索が、実は戦意高揚という非人道に出るもので、戦争というものの持つどうしようもない残酷さを静かに語っている映画である。
トム・ハンクス演ずる指揮官が淡々と任務を遂行している姿が何事かを無言で語る。
辞書を引くと「プライベート」には、兵卒という意味がある。一兵卒たるライアン。つまり原題を直訳すると「ライアン一等兵の救出」。この題名にテーマが込められていることがわかる。
ところで、日本人にとっては、「ライアン」が人名であることはすぐにわかるが、「プライベート」という単語は専ら「私的な」という意味で理解されており、兵卒という意味があることを理解している人は少なかろう。
「私的なライアン」では、意味あるタイトルとして成立しない。
配給会社は、観客がどのように理解すると考えてこの題名をつけたのだろうか。
スピルバーグとトム・ハンクスの名で観客は呼べる。予告編でさわりの部分を見せれば宣伝としては十分だ。題名は深く考える必要もない。
もしそのように考えたのだとしたら、公開する作品に対して愛情がなさ過ぎる。
そう、問題は公開する作品に対する配給会社の、愛情の有無である。
やはり原題をそのままカタカナにしただけの例として、「ラスト・マン・スタンディング」というのがある。直訳すれば「最後に立っている男」。少しばかりの意訳をすると、「最後に生き残っている男」。
黒澤明監督の名作のひとつである「用心棒」をアメリカのギャング時代を舞台にリメイクしたもので、ある町で対立抗争する2つのギャング団を主人公が相争わせ、双方を自滅させるというストーリーで、原題が「用心棒」という原作のタイトルを離れつつもテーマを表現していることがわかる。
それが、原題をそのままカタカナ表記して使用され、何と無味乾燥のものになってしまうことか。
確かに戦後50年を超え、日常生活に英語が浸透している。しかし、一部の日本語化した英単語を除いて、英語をそのまま感性が消化するまでに身についているとは思えない。
「ラスト・マン・スタンディング」という英語と「最後に生き残っている男」という日本語を、同じ程度に頭脳や感性が受け入れているだろうか。
これまた配給会社には、ブルース・ウィリス主演のアクション映画という触れ込みで宣伝としては十分だったのだろうか。
「用心棒」のリメイクと言えば、かつてイタリア製西部劇としてリメイクされた(リメイクと言うより盗作と言った方が正確なのだが)ことがある。このときは「荒野の用心棒」という邦題で日本公開された。
主人公が賞金稼ぎに置き換えられ、原題は直訳すると「ひとにぎりのドルのために」というものだった。
原題を全く離れた邦題ではあるが、「用心棒」を西部劇に置き換えたものであることは邦題ですぐにわかるようになっている。
同一作品の2つのリメイク例をみたとき、単なる原題のカタカナ表記という方法は、作品そのものに対してはもちろんのこと、原作である黒澤作品に対する敬意も感じられない。
映画ファンというのは、様々なこだわりや愛着を持っていることが多い。
原題の単なるカタカナ表記という安直な邦題決定(例を挙げればきりがないのでやめる)は、作品を粗雑に扱われているようで、悲しいものである。
なお、同じように感じている人は多いらしく、「勝手邦題」というweb site では「私ならこういう邦題をつける」というのを募集し、公表している。
応募作品のほとんどはウケ狙いの「おふざけ」だが、中には「うーん」とうならされるもの、「くすっ」として納得させられるものもあって楽しい。