殷(いん)の紂(ちゅう)王が考案した刑。生きたまま腹を割き、そこから心臓などを取り出す刑。刑具は小刀、刀、斧等。
紂王の係累(けいるい:おじ)であり、臣下でもある比干(ひかん)は、紂王のあまりの無道ぶりを目にし、臣下は君主の誤りをただして補佐せねばならぬと諫言をすることにした。
が、それが紂王の怒りにふれた。紂王は、「聞くところによると、聖人の心臓には7つの穴があるというが、そちのはどうだ?」と言うと、兵士に命じて比干を捉え、腹を切り開いて心臓をえぐり出し、7つの穴があるかどうかを確かめた。『尚書』にいう「賢人の心を剖く」
、『荘子』にいう「比干、心を剖かる」、等の記述はこのことである。紂王はこれ以外にも、妊婦の腹を割いてその中の胎児を取り出して男女の別をあらためる、ということもしている。
酷刑と言えばこの人、というぐらいの常連である紂王。この人のことを糾弾する後世の人は多いが、紂王を倣った人が多いのもまた事実である。
南北朝時代、宋の後廃帝劉c(りゅういく)もその一人である。 殺人は彼の日課とでもいうもので、たまに人を殺さない日があると一日中元気がなく、ぐったりとしているぐらいである。外に出るときは常に金ばさみ、ノミ、錐、鋸、等の刑具を持ち歩き、周りには大小様々な大きさの白木の棍棒を持たせた兵士をはべらせていた。そして、手当たり次第に棒打ちを行ったり、心臓えぐり出し等を行い、毎日数十人が大怪我、あるいは死に至らしめられていた。ある日、劉cは遊撃将軍の孫超(そんちょう)がニンニクくさいと聞き、兵士に孫超の腹を割かせ、ニンニクを食べたかどうかを調べさせた。孫超が本当にニンニクくさいのか、ニンニクを食べたからなのか、は別として、調べられた結果おとずれたのは当然「死」であった。
また、劉cはたまたま通りすがった妊婦の腹を割いて、胎児の性別を調べようともした。そのときは医師の徐文伯(じょぶんはく)が機転をきかせ、針でツボをうつ方法で胎児を出産させてしまうことにより母子の命は守られた、という。が、胎児が生まれるにたらぬ時期であったならば、当然死んでいたのであり、恐ろしいことである。
歴史の上では、腹割き刑というのは仇敵に恨みをすすぐときに行う方法であった。その心臓をえぐり取り、被災者の祭壇に祀ったのである。
例えば、五代の後晋の将軍張彦沢(ちょうげんたく)は民衆を甚だしく迫害しており、張武(ちょうぶ)という者の心臓をえぐり出したうえに手足を切断して殺したことがあった。民衆が憤激したため、朝廷は張彦沢を逮捕し、審問官の高勲(こうくん)を派遣して処刑した。そのとき、高勲は張彦沢の腹を割き、その心臓を取り出して張武の霊前に供えたという。また、清代に、山東西部で農民と宗教信仰者が結びついた大規模な蜂起があったが、捕らえられた蜂起軍の部将が心臓を取り出され、過去に討ち取ったものの墓前に供えられた。そのときは、腹を割く方法ではなく、鋸で肋骨を切り、胸を開いて心臓を取り出す、という方法で行われた。
小説においても、この方法は多く出てくる。『水滸伝(すいこでん)』には、武松(ぶしょう)が潘金蓮(はんきんれん)の腹を割き、心臓を取り出して武大郎(ぶたいろう)の祭壇に奉げるという場面がある。他にも、花栄(かえい)が劉高(りゅうこう)の心臓を宋江(そうこう)に献じる場面もある。ここに、第32回で、捕らえれた宋江が燕順(えんじゅん)、王矮虎(おうわいこ)らに心臓スープにされそうになる場面を紹介しよう。
「一人の手下が、水を満たした銅のたらいを宋江の目のまえに置いた。そしてもうひとりのぎらぎら光る鋭利な心臓えぐりの小刀をにぎった手下が腕まくりすると、たらいを運んできた手下が、なかの水を両手ですくい、宋江のみぞおちめがけてぶっかけた。人間の心臓は熱い血液につつまれているため、こうして冷水をかけて熱を散らさないと、とりだした心臓がまずくなるのである。」
この記述は、当時当たり前のように行われていた心臓えぐりの様子をあらわしている。小説の記述というのは現実の出来事があってこその部分が多い。故に、心臓をえぐるだけでなく、その心臓で酒ざましのスープをつくって飲むという行為は、うなぎの肝吸いのような感覚で何の負い目もなく行われてきたことであると言えるのだ。
宋代では、軍隊において、捕虜の腹を割いて心臓を取り出すことは慣例と言ってよかった。だから、建炎(けんえん)2年(1128)、高宗趙拘(ちょうこう)は詔を下して軍隊内での眼えぐり、腹割きなどの刑罰を禁止した。 しかし、それによって完全にこれらの刑が廃止されることはなく、清代までその存在は残り続けたのである。
春秋時代から行われていた、人間の体内から腸を引きずり出す刑。刑具は、小刀・鉄鉤(てつかぎ)等できっかけをつくり、その後は様々。
宋の酷吏であった韓シン(かんしん)はなによりもロバの腸が好物で、客をもてなす宴席では必ずロバの腸料理を用意した。腸の調理には高度の調理技術が必要である。鍋で煮る時間が短すぎると、よく煮えずに硬くなり、かむことができない。反対に煮過ぎると、ぐずぐずになって、うまみが損なわれるので、ちょうど良い火加減は難しい。更に、調理するロバの腸は新鮮でなければならず、一晩でも放置すれば、すぐに変質してしまう。そこで、調理人はうまい方法を考えついた。最高に新鮮な腸を手に入れるためには、調理の直前に腸を手に入れれば良いのである。まえもって厨房の傍らにロバをつないでおき、客がテーブルについて酒盃がまわりはじめたころを見計らって、つないであったロバの腹を割いて腸をつかみ出す。さっと洗って細切れにしたあと鍋に放り込み、さっと炒めて客の前に持っていく。来客の多いときは当然ロバは一頭では足りず、何頭ものロバが厨房の傍らにつながれることになる。
あるとき、宴席に招かれていた来客の一人が、宴の途中で厠に行こうとした。厨房の傍を通りかかったとき、悲鳴が聞こえてくるのに気づいた客は、その悲鳴のする方に目をやった。すると、柱につながれたロバが鮮血を飛び散らせながらもがき苦しんでいた。この客は関中の人物で、もともとロバの肉や腸料理が好きだったのだが、この一件以来、一口も食べなくなったという。
このような腸の引きずり出しを、人間に行うのが抽腸という刑である。
この刑の歴史は春秋時代からであるが、典型的な例は明の時代にある。明のはじめ、太祖朱元璋(しゅげんしょう)は死刑囚に対し、この刑を施した。一本の横木の両端にそれぞれ縄を結びつけたあと、それを高い柱のてっぺんにくくりつける。横木の両端から垂れ下がった縄の一端には鉄でできた鉤を、もう一端には重い石塊をくくりつける。全体が大きな秤のようなものである。鉄鉤のついた方の縄を引き下げ、先端の鉄鉤を罪人の肛門に押し込み、大腸の先に引っ掛ける。縄を掴んでいた手を離すと、秤の反対側に取り付けられた石塊の重みで鉄鉤のついた側が上に引っ張りあげられる。すると、罪人の腸は体の外に引きずり出され、一本の長い紐となってぶら下がる。これにより、罪人は絶叫したかと思うと、失神したまま絶命に至る。
張士誠(ちょうしせい)が蘇州(そしゅう)を占拠して呉王を称した際、弟の張士信(ちょうししん)は丞相として、黄敬夫(こうけいふ)・蔡彦文(さいげんぶん)・葉徳新(ようとくしん)の3人を参軍(さんぐん:幕僚のこと)に抜擢した。ところが、この3人は凡庸な書生に過ぎず、政治・軍事共に才能はゼロに等しかった。これを受け、この状態を風刺した詩を作ったものがいた。
丞相 事業をなすに
もっぱら黄・蔡・葉をもちう
一夜 西風おこれば
たちまち枯れつくす
というものだが、まもなく、朱元璋配下の大将軍、徐達領(じょたつれい)によって敗戦し、黄・蔡・葉の3人は腸を引きずり出されて処刑された。高所にさらされた腸は、まさに風刺のごとく干からびた、という。
明代末の農民蜂起の領袖、張献忠(ちょうけんちゅう)は、ここでもやってくれる。ひっ捕らえてきた官吏に対し、小刀を使って肛門から大腸の先端をつかみ出し、それを馬の足に縛り付ける。馬上の執行官が馬に鞭をいれると、当然のごとく馬は走り出し、あっという間に腸がすべて引きずり出されたのち、限界まで伸びきった腸がブチンッと切断されたところで罪人は死に至るのである。
日本でも、自分の身の潔白を示す際に切腹などをし、豪胆な者はそこから自分の腸を引きずり出してきれいに並べてから絶命するというが、それほどの苦痛が伴うのがこの刑である。しかし、前述したように、ロバなどの腸料理を、(その現場さえ見なければ、また、見ても平気な者もいるが、)何食わぬ顔で平らげてしまう人間というものは、どのような生き物なのであろうか。対象が食べ物という認識にあるかどうかで、ここまで印象が違ってくるものか。酷刑を考え出すと同時に、ちょっとした思いの違いで残酷さをものともしない人間の空想力、思い込みの力というものは、とてつもなく恐ろしいものだ。