断手  (だんしゅ)・・・・・・手切り

字のごとく、手を断ち切る刑である。この刑は、正式な官刑であった場合もあれば、付加刑として適当にやった場合もある。バリエーションとして、指切り、指すり下ろしなどがある。

この刑の元をたどれば、戦国時代末期に行き着くらしい。燕の太子丹(たん)は、後に始皇帝となる強国秦の王、政(せい)を暗殺する為に、武芸の達人である荊軻(けいか)を引き込もうと、さまざまな手を使った。金でも、女でも、千里の名馬の肝でも、何でも与えた。そんな事をしていたある日、華陽台(かようだい)で行われた宴席で、一人の美女が琴を弾いていた。その音色のすばらしいことといったらなく、荊軻は非常な感銘を覚えた。そこで、思わず、「何たる妙手よ!」ともらしたところ、太子の丹はすぐに立ち上がって、この美女を荊軻に贈ろうと言い出した。すると、荊軻は、「私は別にその女の色香に迷ったわけではない。その二本の手がすばらしいのだ。」と答えた。それを聞いた太子は何を思ったのか、その名妓の手を切り落とし、玉の盆に盛ると、荊軻に差し出した。荊軻は名馬の時は肝が食べたかったが、今回は別に手だけが本当に欲しかったのではなく、ただ、その妙手を褒めただけであったのだ。にもかかわらず、荊軻をどうしても手に入れたい太子は、荊軻の機嫌を損ねまいと、こんな事までやってしまったのである。これは別に刑ではないが、断手の発祥はこのあたりらしい。

漢のはじめ、高祖劉邦(りゅうほう)の妻、呂后(りょこう)が、高祖亡き後に政治を専断し、好き勝手をやっていた時期があった。この折り、呂后は劉邦の寵愛があつかった戚(せき)夫人の両手両足を切り落とし、厠に放り込み、“人ブタ”と名づけていた。唐の則天武后(そくてんぶこう)は、夫である高(こう)宗に、王(おう)皇后と蕭淑(しょうしゅく)妃を庶民に落とさせ、別院に閉じ込める事を強要した。高宗が2人の事が忘れられなくて折りに触れて彼女たちに会いに行っていたことを知った則天武后は腹心に命じ、すぐさま2人を杖打ち(むちうち)100回に処し、更には両手を切断した上に大きな酒の甕(かめ)に押し込め、「このおばさん方は、さぞかし骨の髄まで酔ったことでしょう」と言ったという。洒落はきいているが、やっている事は凄まじい。

北宋では、太(たい)宗、趙匡義(ちょうきょうぎ)が、収賄罪の官吏には死刑を科し、斬首の前に腕を切り落とすよう発令した。雍煕(ようき)元年(984)10月、糧秣管理の小役人が軍の食料を横流ししたところ、その者は、手腕を断たれ、縛られて3日間晒された後、斬首に処された。モンゴル族が南下してきた時も宋朝の法令に倣い、断手が刑罰として取り入れられていたが、南宋を滅ぼし、元となった後は廃止された。それは、断手は回族(かいぞく・ウイグルのこと)の法令であり、中国を制覇した今、やる事ではない、という世祖フビライの判断からであった。回族は歴史上、窃盗をはたらいた者に対して断手や指切りの刑を科していた。一部のイスラム教国では今日でも同様の法文を有しているところがある。
この他にも、中国の少数民族の間では窃盗犯に断手を科していたが、その中でもチベット族は“牛皮包手”(ぎゅうひほうしゅ)という特殊な方法を用いる。罪人の掌に小刀で幾すじもの傷をつけ、そこに塩を乗せ、指を握らせた後、生の牛皮で手をくるみ、しっかりと縫いあわせる。一定の日時が過ぎて牛皮を切り開くと、手の肉は全て腐り、ただ白骨だけが露出しているという。この苦痛はただ手を切り落とされる事の比ではない。1959年のチベット解放前夜まで、特権地主たちの中に、この牛皮包手で農奴を苦しめる者がいた。農奴制の崩壊に伴い、ようやくこのおぞましい刑は姿を消した。この牛皮包手に似たものを、日本人もやった事がある。戦時中、寒い地方(普通の服で外にいれば凍えるほど)で、人の腕を前に出させ、、素手のまま固定し、極寒の外で何時間もそのままにする。一定時間が経過し、腕が凍ったところで、その腕にお湯をかけてとかし、それから、凍っていた部分を体に近い方から持って、一気に指先の方に向かって、しごく。すると、手の肉が全てびちゃびちゃと飛び散り、骨だけになる。このような恐ろしいことをすることができるとは、人間とは、なんとおそろしい生き物か。

この他にも、盗みを働いたものは大抵断手の刑を受けている。これは、肉刑が犯罪を犯した“道具”を奪うという名目で行われているからである。盗みを働く為の“道具”は手であるとし、それを奪うのである。(明代では将棋や双六をした者もこの刑に処された。)逃げた者は足切り、強姦者は宮刑という具合だ。盗みを働いた者は妥当としても、死刑にされる者がその付加刑として科される事が多いのもまた事実であり、それは適当に追加されていただけである。死なない刑ほど苦痛が大きいのだ。

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げっ足 (げっそく)・・・・・・足切り

足切りの刑。周代5刑(墨(ぼく・刺青)、【鼻リ】(ぎ・鼻削ぎ)、宮(きゅう・性器切除)、【月リ】(げつ・足切り)、殺(さつ・死刑、斬首)、の5つ。)のひとつ。5虐のひとつでもある。単に足首から切断するものが一般的だが、このほかに、足の指だけを切断する方法や、膝頭の骨をえぐりだす方法、大腿骨をたたき折る方法がある。いずれにせよ、人の歩行能力を奪う刑である事は確かである。かの有名な軍略家、孫ぴん兵法の孫ピン(そんぴん)も、その才能に嫉妬した同学のホウ涓(ほうけん)の計により陥れられ、両足を切断されたうえ、刺青を受けたという。

後に玉璽(ぎょくじ・帝位の証)となり歴代の王が奪い合った宝玉、“和氏の璧(かしのへき)”を発見し、時の王に献上しようとした卞和(べんか)は両足を切断されている。春秋時代、楚でのこと。卞和が山中で玉の原石を手に入れ、氏iれい)王に献上すると、脂、は宝玉師に鑑定させた。すると、鑑定結果が、ただの石ころに過ぎない、ということで、怒った脂、に左足を切断された。脂、が崩御し、武(ぶ)王が即位すると、卞和は再び原石を献上した。武王が鑑定させたところ、またも、ただの石ころに過ぎない、という結果だった。これにより、卞和は右足を切断された。
そののち、武王が崩御し、文(ぶん)王が即位したが、卞和は今度は献上するのをやめた。両足を切断されて、もう嫌だったからだ。原石をただ懐に抱き、楚山のふもとで号泣した。3日3晩泣きつづけ、目からは涙の代わりに血が流れ落ちた。このことを聞いた文王は、人をやり、げっ足の刑を受けたものは世にたくさんいるにもかかわらず、なぜ、それほどまでに泣くのか、その理由を問いた。すると、卞和は、「私は足切りの刑を受けた身を悲しんでいるのではありません。真の宝玉が石の塊とみなされ、高潔の志士が狂徒と思われている事がただ悲しいのです。」と答えた。これを聞いた文王は宝玉師を派遣し、原石を磨かせてみた。すると、それは世にも稀な宝玉であり、“和氏の璧”と名づけられた。
これは、真理が世に認められがたいたとえとして“韓非子(かんぴし)”に載っている話である。

周から春秋時代になると、この刑は頻繁に行われ、国君の専用馬車を私用に用いた者は足切りの刑に処す、などの条例も目立つようになった。
斉の景公の時代は特に厳しく、この刑を受けたものは数知れない。ゆえに、足を切断された後につける義足(踊)の値が暴騰し、靴の方が安くなるという事態も発生した。“履賤く、踊貴し(くつやすく、ようたかし)”といわれた時代である。
春秋時代ではこれら足切りの刑を受けた者は、大きな門の門番の職に就かされ、その社会的地位は低かった。

この頃は、げっ足の刑を行う時、その罪の重さにより、片足だけ切るか、両足とも切るか、が決められていた。一般的に軽犯罪はどちらか片側、重犯罪は両方だった。また、片側だけの時はその罪の内容により左右どちらかが決められた。罪を犯したものがその場所に最初にどちらの足で入ったかで決められたこともあり、その場合は、左足から入れば左足を切られ、右足から入れば右足を切られた。

漢の文帝は10年(前167)に肉刑を廃止し、それまで左足指の切断を受けるべきであった罪人には鞭打ち500回に改められ、右足切断の刑を受けるべき者は棄市(きし・斬首刑)となった。同時に、左足指に【金大】(たい・鉄枷)を用いる罪科は足指切断の刑に変更された。【金大】は鉄製の刑具で、重さ6斤(約1.5キロ)であった。左の足指にはめると自在に取り外しはできないが、もし、取り外せば、もちろん別の罪が加えられる。当時、密かに鉄器を鋳造したり、海水を煮て塩を作ったりした者は“左趾に【金大】す”という法令でこの刑に処された。後漢末の曹操(そうそう)の頃には、戦乱に次ぐ戦乱で鉄が非常に不足していたので、【金大】が木械(ぼくかい・木でできた枷)に変わった。

漢代以降は、南北朝時代に復活し、この時は“脚筋を断つ”ということで、アキレス腱を切られた。唐代には再び廃され、追放3000里、服役2年に改められたが、酷刑濫用時代の明でまたも復活した。太祖朱元璋(しゅげんしょう)は、洪武22年(1389)3月に“球蹴りをした者はげっ足の刑に処す”という法令を発布し、指揮官と兵士が右足を切断され、一家が追放されたという。

日頃当たり前に使っている歩行機能という重要な部分を断つこの刑も、肉体、精神ともにダメージを与える酷刑であろう。

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あつ眼 (あつがん)・・・・・・目えぐり

抉眼(けつがん)、抉目(けつもく)とも呼ばれる、目を抉り(えぐり)出す刑。眼は非常に精密で、複雑で鋭い神経が大脳につながっている。だから、生きている時に眼をえぐられる時の激痛は大変なものであり、その残酷さは先にあげた、鼻削ぎ、舌切り、手切り、足切り、に勝るとも劣らない。更に、眼はなまじ見えるだけに、抉り出されるまでの恐怖といったらない。目薬をさす時ですら、最初のうちは、えらく恐ろしいものだ。それが、鋭利な刃物や先の尖ったものが迫ってくる時の気分といったら・・・・・・。

南北朝の宋のとき、前廃帝劉子業(りゅうしぎょう)は道理に外れたならず者であった。江夏(こうか)王の劉義恭(りゅうぎきょう)と尚書令(しょうしょれい)の柳元景(りゅうげんけい)は、密かに劉子業を廃して新帝を立てようとしていたが、そのことが漏れ、永光(えいこう)元年(465)、8月に、劉義恭と4人の子供が殺された。その時、劉義恭の屍体は解体して内臓が飛び散るまで打ち砕かれ、更に眼は抉り取られて蜜に漬けられた。これは、“鬼目粽”(おにめちまき)と呼ばれたという。

上の例では目を抉り出すのは死んだ後であったが、先に述べたように、生きたまま目を抉ることも当然あり、その例は少なくない。後漢末の董卓(とうたく)の乱の際、捕虜になった兵や民には様々な酷刑が施されたが、この刑もそのひとつに含まれる。鑿眼(さくがん)と言い、鑿(のみ)で眼を抉り出すものだ。三国時代、呉の最後の皇帝孫皓(そんこう)も、この鑿眼を用いている。五胡十六国時代では、眼光が鋭い者がいると、その眼を直ちにつぶした赫連(かくれん)というものが大夏(だいか)にいた。隋でも、煬帝(ようだい)のときに車騎将軍(しゃきしょうぐん)までのぼった、酷薄で知られる魚賛(ぎょさん)というものが、部下に肉を焼かせ、焼き方が自分の気に入るものでないと、その部下の眼を、肉を刺す竹串で突き刺した、という話がある。

明代では、大盗で1度捕らえられて脱獄したが、再び捕まえられたような特別な罪人にだけこの刑を施したという。二度と逃げられないようにするためだ。この、逃げられないように、という考え方は、裏社会においても適用された。乞食の集団による秘密組織では、少女達を誘拐しては眼を抉り、逃げられないようにした挙げ句、物乞いをさせたという。眼がなくなり、顔付きが変わってしまった少女達は家族が見つけだすことは難しく、しかも、眼の悪い少女が物乞いとなると、憐れみを買いやすく、実入りも多くなるからだ。組織の頭は昼間に少女達に物乞いをさせ、その実入りを一人占めし、さらに、夜にはその身体をなぶりものにした。

清代でも重罪人を捕まえてくるたびに、真っ先にその眼を抉り出した督撫(とくぶ・取締官)がいた。彼は、重罪人達が二度と悪事を働けないように、と、再犯防止策としてこの刑を用いていたというが、その方法はいささか、きちがいじみている。眼を抉り出すときに何の器具も使わず、自分の手の指を使ってこそぎ出すのである。罪人はもちろん泣き叫ぶが、そんなことには一切動じない。そして、抉り出しが終わると、指に付いた血を自分の襟でふきとる。時が経ち、その襟はたくさんの罪人達の血で臙脂(えんじ)色に染まったが、それを洗いもしなかったという。彼は、血に染まった自分の襟を見るたび、笑みを浮かべていたのだろう。

ここでも、自分の変わらぬ愛を証明するため、女性が自分の目を刺し貫いたという例があるので、紹介しておこう。元の時代、都に樊事真(はんじしん)という名妓がいた。参議官の周仲宏(しゅうちゅうこう)と相思相愛の仲になったが、彼は都を離れて江南(こうなん)に帰任しなければならなくなった。都の門の外まで見送りにきた樊事真に、周仲宏が言った。「別れた後もどうか操を守って他人から笑われるようなことはしないでくれ。」と。樊事真はこれに答え、「もしもそのようなことがありましたら、この片目を抜き取ってお詫びいたします。」と返した。だが、それから間もなく、ある権勢家の御曹司が彼女を気に入り、樊事真の母親もその話にのるようにと、せまった。時が経ち、周仲宏が都に戻ってきた。樊事真は、「あなたが去られた後、私は操を守ろうと願っておりましたが、やむにやまれぬ事情でこのようになってしまいました。あの日の誓いを空しいものにしたくはございません・・・。」と言うと、金のかんざしで、さっと左目を刺し貫いたのだった。周仲宏は驚いたが、樊事真の心意気に感じ入り、二人は元のさやにおさまったという。

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