腰斬  (ようざん)・・・・・・腰切り

古代からある、罪人を腰から切断する刑。初期の刑具は【金夫】質(ふしつ)と呼ばれた。【金夫】は大斧のことで、質は【金質】とも書き、金敷のことである。質は他に椹質(ちんしつ)、鍖質(ちんしつ)とも呼ばれ、椹は当て木のことである。つまり、大斧で罪人の体を断ち切る際に体の下に敷く木製の台の事である。漢の時代には【金夫】・質が軸でつなげられ、この2つで一組だった刑具は1つとなった。【金夫】は【金則】刀(さっとう・押し切りのこと)となり、質は【金則】床(さっしょう・押し切り台のこと)となった。

この刑が執行される際、罪人は木製の台にうつぶせにされ、上着を脱ぐきまりになっていた。それは、漢の高祖劉邦の天下取りに大きな力となった功臣である韓信(かんしん)や、他に、張蒼(ちょうそう)、王【言斤】(おうきん)の例を見れば理解できる。
韓信が楚の項羽をはなれて漢の劉邦につこうとしていた頃、軍法を犯してこの刑に処せられそうになったことがあった。「信すなわち仰視し、たまたま騰(とう)公を見る。いわく、“上、天子に就くを欲せざるか、なんぞ壮士を斬らんとす”と」という台詞が史記にある。「天子の位に就くことを望んでいないのですか。なぜ私のような天下取りに役立つ有能な者を斬ろうとするのです。」という意味だが、この“仰視”という部分で韓信が木製の台の上にうつぶせになっていたことが分かる。
張蒼はもとは秦の御吏(ぎょし・官吏監督官のこと)だったが、この刑を受け、“衣を解き質に伏せていた”ときに傍らにいた劉邦の属臣王陵(おうりょう)が、張蒼の立派な体と“白くやわらかな肌を目にして”、まれに見る美男子であると思い、劉邦に取り入って刑を中止させたという話がある。王陵がホモだったかどうかは別にして、ここからは罪人が着ていたものを脱いでいたことが分かる。
最後の王【言斤】は、陽県の県令のときにこの刑に処されることになり、“【言斤】すでに衣を解き質に伏した”とき、王【言斤】は最後の主張を“仰言”した。その言辞の立派さに感じ入った御吏は王【言斤】を放免した、という話からは、この刑を受ける際にうつぶせにされたことと、着ているものを脱いで切断される腰の部分をさらしたことが分かる。

腰斬の刑は春秋時代から常用され始め、秦の商鞅(しょうおう)の政治改革(変法)においても民衆の徒党連座、一家による犯罪、隣家の罪を告発しなかった者などはこの刑に処すことを明文化している。このとき、渭水(いすい)の川縁で腰斬により処刑された人の数は、渭水が流れた血で染まったといわれるほど多かったらしい。

いずれの時代にせよ、この刑に処されるのは重罪を犯した者であり、この刑の酷さが分かる。日本の切腹を考えれば分かると思うが、なまじ生きている時間が長いだけに首を一瞬で刎ねられるよりもその痛みははるかに長続きし、尋常ではない。まして、自分の切り離された胴体から大量の血と腸などの内臓が飛び出しているという恐ろしい光景を自分の目で確かめることが出来るとすれば、その気分はどうであろう。とても想像することなど出来ない。が故に、人心の乱れを治めるために、予防薬としても使われたという。

この他に、木槌で腰のあたりをたたくという応用があり、これは涌き出る血や飛び出る内臓などの酷さがない分、傍目には何てことはないが、体の中では背骨が折れており、それにつながった血管や内蔵にも障害を及ぼし、斬られるよりもはるかに生きている時間が伸ばされるため、その苦痛はこちらのほうが上である。

どちらにせよ、この刑が酷刑であるという事実は変わらない。

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割鼻  (かつび)・・・・・・鼻切り

鼻を削ぎ落とす刑で、“五虐”のひとつ。死刑より軽いとはいえ、生きているが故に肉体的にも精神的にも非常に苦痛を伴う。また、この刑を受けた者はたいてい関所の衛守になるしかなかった。鼻を失い、醜くなった顔は社会生活には適さず、本人も人と接することを嫌っていたので、辺境の地で余生を送ることを余儀なくされたからである。漢民族以外の地においてもみられ、唐代の吐蕃(とばん・チベットのこと)や異民族王朝の金、元をうちたてたモンゴル族でも行われてきた。

戦国時代も末の頃、楚の懐(かい)王には鄭袖(ていしゅう)という溺愛する妃があった。彼女は淫蕩で、しかも、非常に嫉妬ぶかかった。あるとき、魏王がひとりの美人(妃妾)を送ってよこし、懐王はすぐさま彼女のとりこになってしまった。相手にされなくなってしまった鄭袖は彼女に対して非常な恨みを抱き、陥れようとしたのである。鄭袖は彼女に「君王様はことのほかあなたを可愛がっておいででございますが、そのお鼻がいささか気に入らないご様子。お会いになるときは手でお鼻をお隠しになられた方が末永く続きますことよ。」と言った。これを聞き、鄭袖が善意で言ってくれていると思った彼女はそのとうりにした。当然のことながら不審に思った懐王が、鄭袖に彼女が鼻を隠している理由を問うと、「大王様の口臭がたまらないと・・・」と言われたもので、懐王は怒り、美人の鼻を削ぎ落とすように命じた。鄭袖の策により、まんまとはめられてしまったわけだ。やはり、女の嫉妬は怖い・・・。特に宮廷内では一掃拍車がかかる。それにしても弁解の余地はなかったのだろうか。

この刑は夏・殷王朝の頃には既に一般に行われていた。一説には夏でこの刑を受けた者は1,000人を超えるという。また、殷の盤庚(ばんこう)は遷都した際に不仁不義の者、機会に乗じて破壊活動をする者などは軽ければ鼻そぎ、重い場合は死刑のうえ、子孫を断つとの詔を下している。周のときこの刑は正式に五刑のひとつになった。君命にそむく者、規則を破る者、姦淫・窃盗をはたらく者、治安を乱す者、喧嘩・傷害をはたらく者などはことごとくこの刑を受けた。鼻を失い、醜くなった顔は社会生活には適さず、辺境の地で門番をするしかなかった。当時、都から500里外に3つの関所があり、12の関門を擁していたが、それらはいずれもこの刑を受け、鼻を失った者達が守っていたのである。

春秋・戦国から漢に至る時代まではこの刑が一層広まった時期で、非常にたくさんの人が鼻を削がれた。戦国時代、燕が斉に攻め込んできたとき、斉の武将田単(でんたん)は全軍を叱咤して懸命に守ったが、国力の差はどうしようもなく、危機に瀕したことがあった。そのとき、田単は「俺が何よりも恐れるのは、捕虜となれば鼻を削ぎ落とされることだ。」というデマを流させた。燕軍の武将がそれを聞き、斉軍の捕虜の鼻を削ぎ落とした。すると、斉軍の兵士は捕虜となった仲間がすべて鼻を失ったことを遠望し、恐れたが、同時に怒りに震え、一丸となって闘ったために非常に劣勢の状態から見事勝利をおさめることができた。これとは逆だが三国時代の一英雄、曹操が後漢末期に袁紹と行った“官渡決戦”では曹操軍の精鋭部隊が袁紹軍の糧食に火を放ち、敵将淳于瓊(じゅんうけい)を捕らえてその鼻を削ぎ落とし、更に、1,000人以上の捕虜を皆殺しにして鼻を削ぎ落とし、袁紹に送りつけた。牛や馬は唇と舌を切り取ったという話しもある。数えられないほど大量の鼻を見せ付けられた袁紹軍の将士らは肝をつぶし、震えあがった。ここでは相手方の軍の士気を削ぐために行われたので、田単のときとは反対になる。

秦の始皇帝の時代には、この刑は日常茶飯事だった。太傅(たいふ・太子の教育係)の趙高(ちょうこう)は2世皇帝の胡亥(こがい)に刑罰のことを教育するにあたり、手当たりしだいに人間を捕まえてきては鼻を削ぎ、首を刎ねて実習を行った。秦が6国(斉・燕・趙・魏・韓・楚)を滅ぼした後、捕虜となった6国の兵士や農民らは、そのほとんどが鼻を削がれ、ついに市中には鼻のある者より鼻のない者の方が多くなり、鼻のある方がかえって醜いと錯覚されるほどになったという。

明代においては、燕王朱棣(しゅたい)が“靖難の役(せいなんのえき)”を発動して南京を占領したとき、かつて山東で自分の南下に抵抗した鉄鉉(てつげん)を捕らえ、鼻と耳を削ぎ落とし、火であぶった後に鉄鉉の口に押し込み、食べさせた。「味はどうだ?」と聞く朱棣に鉄鉉は、豪胆に「忠臣の肉がうまくないはずはなかろう。」と答えたという。

これは刑ではないが、女性が自分の貞節を守るために自ら鼻削ぎを行ったという例がいくつかある。封建社会の礼節を固守する婦人の中には、夫の死後も他家には嫁がないという決心を示すために自分から刀で鼻を削ぎ落とす者がいたのである。漢の大梁の寡婦は、才色兼備だったが、年若くして夫を失った。金持ちの息子が何人も求婚したが、彼女はいずれも受け入れなかった。このうわさを聞いた梁王が強引に妃にしようとすると、寡婦は鏡を取り出して自ら鼻を削ぎ落とし、梁王の使者に向かって、「本来ならば死をもって私の志を明らかにすべきでございますが、幼な子を孤児にするわけにはまいりません。いま、私はこのような半端者に成り下がってしまいました。どうぞ、ご放念くださいますよう。」と言った。使者の報告を聞いた梁王は寡婦の気概に感じ入り、その節操を表彰した。人々は彼女を“梁高行(りょうこうこう・立派な梁の夫人)”と呼んだという。もう一例、沛(はい)の国の孫去病(そんきょへい)の妻で、もと戴元世(たいげんせい)の娘は、夫が死んだ後、母親が他家に嫁ぐように勧めたが、これに応じず、刀で自分の鼻を削ぎ落とそうとするが、切れ味が悪くて切れなかった。すると、すぐさま砥石で刃を砥ぎ、それから鼻を削ぎ落とした。このように、封建時代の、嫁ぐ前は父に、嫁いでからは夫に、夫の死後は子供に従うこと、そして、婦人の徳・言・容・功をさす、“三従四徳”の教えを守り、その節義を貫くために己の体を傷つけることを恐れない立派な女性もいたのである。

このように、鼻を削ぎ落とすというのは、計略に使うにしろ、罰を与えるにしろ、己の信念を貫くためにしろ、肉体よりもむしろ精神的な意味あいが強いのである。精神を攻撃するため、下手な肉刑よりもよほど酷な刑といえる。

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截舌  (せつぜつ)・・・・・・舌切り

政治闘争の場においてだけでなく、私的な確執によっても行われた刑。メインの刑ではなく、他の刑の補助的な付加刑の意味合いが強く、恨みのために適当に追加したことが多い。やることは単純、ただ舌を切り落とすだけであるが、神経が集中している場所だけあって、生身の舌を切断する痛さは何よりも耐え難いという。ものを食べているときにあやまって舌をかんでしまったことがある人ならよく分かると思うが、別に切れているわけでもないのに一瞬動きが止まるほどの激痛だ。それを考えると、間者(スパイ)が見つかってどうしようもない時に、もしくは、女性が暴行されそうになった時に、自分で舌をかみ切って自害するというのは、よほどの覚悟がなければできないことであると思わずにはいられない。

漢のはじめ、この刑は死刑の予備的手段であり、謀反や叛逆の大罪を犯し、三族(父、子、孫)を誅滅させられるほどの重罪人は、死刑にされる時に舌切りを付加されていたこともあったし、いわれなき誹謗、中傷、罵倒などの罪を犯したものは、黥面(げいめん:刺青)、割鼻(かつび:鼻切り)、足指切断に処される前に、まずこの刑が行われた。後世、明、清に至っても凌遅(りょうち:切り刻み)の刑を執行する前に、罪人の舌を切ったのは、刑を執行している最中に叫んだり、罵ったりさせないためである。時には舌だけでなく、歯も抜き取られた。

場合によっては別の刑で殺した後に舌を切ることもあり、これは、その相手への恨みからくる一種の憂さ晴らしである。漢の郭解(かくかい)は、侠気のあるあつい男だったが、ある儒生は彼をひどく嫌っていた。ある時、役所の宴会の場で一人の客人が郭解の人柄を褒め称えた。これを聞いた儒生は我慢できずに、「郭解はよこしまな無頼さ。いつも法律を破っているくせに、なにが人格者なものか。」と罵った。客人は郭解に心酔していたので儒生の口汚ない罵りに恨みを抱いた。それからほどなく儒生は暗殺され、舌を切り取られていた。

五胡十六国時代では、後趙の石季龍(せききりゅう)の太子、石宣(せきせん)が弟の石韜(せきとう)を殺害した時、石季龍は石韜を可愛がっていたので、石宣を捕らえ、鉄の環を下顎にはめ、鎖をつけて幽閉した。その後、柴草の山の頂上に滑車をとりつけた高い竿を立て、石韜の腹心に髪の毛と舌を引きちぎらせた後、あごに縄をかけ、滑車で吊り上げた。そこで更に目をえぐり、腹を裂き、手足を切断し、柴の山に火を放って業火で燃やしつくした。

この他にも、捕虜となったものが依然罵りをやめないためや、諫言に腹を立てた君主、上官によってなど、言葉に関することで相手の怒りを買った者は大抵、舌を切られるか抜かれている。正妻や妾たちの争いにおいても、主人にうまく取り入ることができたのは口がうまいからだ、と考えられ、対象となる者が舌を切られた例は多い。口は災いの元ということか。

余談だが、後漢末に都を占拠した董卓は、投降してきた北方の反逆者数百人の舌を切り、手足を断ち、目をえぐり、大きな釜で煮殺した。宴席の傍らで行われたこの処刑中、もがき、苦しみ、絶叫する声が響き渡り、その場にいた者は誰一人として食事などできる状態ではなかったが、唯ひとり、董卓だけが悠然と食べ、飲み、談笑し続けたという。

この刑は、ただ舌を切るだけといった派手さはないものであるが、その威力は激痛を与える肉体的な面でも、また反対に、優越感を得たり、憂さを晴らすといった精神的な面でも非常に有効、かつ、過酷な刑であるといえる。

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