行(ま〜も)
≪ま≫
【マスコミ】(ますこみ)
昔のマスコミは、自分の主張とかイデオロギーなど、そういう動機で出版社を興したりしていたが、今はもうけ主義に走ってしまっているため、部数を伸ばすためにはどうしたらいいかということばかりが先走っていて、そのためには不安材料を書き立てて脅せばいいという悪循環に陥っているとのこと。「理知的でまっすぐであるべき背骨が、ぐじゃぐじゃにゆがんでしまっている。じつに品性下劣。この世の中で、いちばん根性を叩きなおさなきゃいけないのはマスコミなんです。」(著書「人生ノート」より抜粋)


【丸山明宏】(まるやまあきひろ)
現在の”美輪明宏”の改名前の名前。幼名は丸山臣吾だったが、56年に姓名判断or占い師の助言などによって丸山明宏に改名。その後71年に”お告げ”によって美輪明宏に改名したらしい。(「美輪明宏という生き方」より抜粋)但し、本当の理由は美輪様のみぞ知るところであるのはいうまでもない。

【松岡正剛】(まつおかせいごう)
編集工学研究所所長、帝塚山学院大学教授。20代で創刊した雑誌「遊」によってアート、思想、メディアに大きな影響を与える。その後、独自の世界観にひそむ方法を「編集工学」として確立し、科学から芸術におよぶ領域の再編集に取り組む一方、日本文化研究に新たな視点を導入し続けている。主な著書に「情報と文化」、「情報の歴史」、「花鳥風月の科学」、「フラジャイル」、「背中のない日本」、「日本流」、「日本数奇」、「知の編集工学」、「外は良寛」など多数。美輪様とはTVなどで対談する仲でもある。

≪み≫
【三島由紀夫】(みしまゆきお)
(1925〜1970)東京生まれ。本名、平岡公威(きみたけ)。1947年東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編「仮面の告白」を刊行、作家としての地位を確立。主な著書に、1954年「潮騒」(新潮社文学賞)、1956年「金閣寺」(読売文学賞)、1965年「サド侯爵夫人」(芸術祭賞)等。1970年11月25日、「豊饒の海」第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国語に翻訳され、全世界で愛読される。生前の美輪様との親交が厚かったことも有名で、52年にゲイバーのはしりである銀座のブランスヰックという店で出会い、三島の7度目の指名に美輪様がしぶしぶ応じて、「可愛くないな」と言われると、「奇麗ですから可愛くなくていいんです」とやり返したエピソードも。以来70年までお互いに刺激を与えながら交際は続き、江戸川乱歩の原作を三島由紀夫が戯曲化した「黒蜥蜴」に美輪様が主演したり、美輪様の自叙伝「紫の履歴書」の初回の大光社版に三島由紀夫が序文をよせたりした間柄であった。また三島の作品の中でも、「金色」では当時美輪様が働いていた店がモデルとなっていたり、「孔雀」では美輪様自身がモデルになっている。

【美輪明宏という生き方】(みわあきひろといういきかた)
2000年6月30日に青弓社より出版。合計17人からなる各著名人による共著で、あらゆる角度から美輪様について語られている本。

≪む≫
【紫の履歴書】(むらさきのりれきしょ)
1968年9月に大光社より初版出版。美輪様が生まれてから「黒蜥蜴」の成功までの33歳までの半生を綴った自叙伝。現在まで出版社を変えて4回刊行されている。最初の大光社から昭和43年から4年にかけて出版され、次々と再販を重ねて当時のベストセラーとなった。2回目の出版が面白半分社からで、最初のものとは少し模様替えをして、最初の本にあった三島由紀夫の序文をなくし、写真も大幅に入れ替え、内容も大分抜いて、その代わり後半分に新しくエッセイを集めて載せた。3回目が昭和58年に角川書店から出版され、内容は1回目と全く同じものに戻して、その代わりに2回目の時のエッセイ集を削り、写真も新しく別の物に差し替えとなった。そして現在は水書房から出版され、書店ではいつも平積みの大ロングセラーとなっている。

≪め≫
【メケメケ】(めけめけ)
1957年に大ヒットした曲。フランスのシャンソンを美輪様自身が日本語に訳して歌った。フジ色の絹のスラックスに、白絹レースのシャツ、黒カシミヤの背広上衣に化粧を施したユニセックスなスタイルのお手本となったのは、大人になりきらない中性的な魅惑者としての「フィガロの結婚」の小姓ケルビーノに、元禄時代の男装の麗人である名妓勝山、西鶴の「男色大鑑」に描かれた小姓たちの振袖姿という服装哲学であった。男の本来の彫刻的な美しさ、立体的な美しさをもちながら、色彩的な女の美しさをプラスしたのが美童・お小姓であるのではないかと考え、そうした中性的な美しさを現代に翻案し、当時のビジュアル系の元祖となった。当時22歳。