2005年8月28日 聖日礼拝 平石太朗牧師
「再び建て上げるために」
(エレミヤ9章 朗読箇所はエレミヤ9:1-9、23-26)
ハレルヤ! みなさん、みなさんは今、いろいろな願いがあるでしょう。
いろいろなことを主に期待してここに来ていらっしゃるでしょう。
いやしや解放、問題の解決など、いろいろなことを主に期待していらっしゃるでしょう。
聖書を読むと、「主に叫び求めると、主は私たちをすべての苦しみから救い出してくださる」
ということがたくさん書かれています。
例えば詩篇30:2には、「私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、
いやされました。」とあります。
詩篇34:17にも「彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての
苦しみから救い出される。」とあります。
ですからみなさん、私たちは今、大きな声で「主よ!」と3回、主に向かって叫びましょう。
主はあなたの願いに答えてくださいます。
それでは、今、一緒に、大きな声で「主よ!」と3回叫びましょう!
それでは、聖書を開きましょう。今日は先週の週報に書かれているディボーションの箇所で
あるエレミヤ書9章からメッセージをします。
9章は全部読むと長いので、9章の1節から9節、そして23節から26節を、みなさんと
交互に読みましょう、交読しましょう。
9:1
ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、
私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。
9:2
ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を見捨てて、彼らから離れる
ことができようものを。彼らはみな姦通者、裏切り者の集会だから。
9:3
彼らは舌を弓のように曲げ、真実でなく、偽りをもって、地にはびこる。
まことに彼らは、悪から悪へ進み、わたしを知らない。――主の御告げ。――
9:4
おのおの互いに警戒せよ。どの兄弟も信用するな。どの兄弟も人を押しのけ、
どの友も中傷して歩き回るからだ。
9:5
彼らはおのおの、だまし合って、真実を語らない。偽りを語ることを舌に教え、
悪事を働き、依然として悔い改めない。
9:6
彼らはしいたげに、しいたげを重ね、欺きに欺きを重ねて、わたしを知ろうと
もしなかった。――主の御告げ。――
9:7
それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らを溶かしてためす。
いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか。
9:8
彼らの舌はとがった矢で、欺きを語る。口先では友人に平和を語るが、
腹の中では待ち伏せを計る。
9:9
これらのために、わたしは彼らを罰しないだろうか。――主の御告げ。――
このような国に対して、わたしが復讐しないだろうか。」
9:23
主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の
強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。
9:24
誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。
わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらの
ことを喜ぶからだ。――主の御告げ。――
9:25
見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、すべて包皮に
割礼を受けている者を罰する。
9:26
エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ、および荒野の住人でこめかみを刈り
上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家
も心に割礼を受けていないからだ。」
T:回復するための破壊
今日のこの箇所の背景をまず簡単にお話します。
神の民の国であるイスラエルは、紀元前930年頃に2つに分裂して、北イスラエル王国と
南ユダ王国となりました。
地図でいうとイスラエルの上のほう、サマリヤやナザレがある北のほうが北イスラエル
王国です。
そして下のほうのエルサレムやベツレヘムがある南のほうが南ユダ王国です。
やがて北イスラエル王国は紀元前722(又は723)年にアッシリヤによって滅ぼされて
しまいます。
今日のこのエレミヤ書のエレミヤという人物は、南ユダ王国の預言者です。(紀元前627
-583頃まで預言活動をした)
エレミヤが活動した時代には、すでに北イスラエル王国は滅んでいました。
しかし、主はエレミヤに南ユダ王国もやがて滅亡することを語ります。
どういうことかといいますと…主はご自分の民であるイスラエル南ユダ王国も神に背き、
悔い改める思いがまったくないことをご覧になりました。
それで主は、異邦人の国バビロニア帝国を用いて南ユダ王国を攻めて破壊し、
ユダヤ人を捕らえて外国バビロンに連れて行くことを決めます。
しかし、それは彼らを見捨てたのではなく、彼らを再び建て上げるためでした。
すなわち、「回復させるためには、まず破壊する」ということです。
このエレミヤ書のテーマは「回復のためには、まず破壊する」ということです。
実際に南ユダ王国は紀元前586年にエルサレムが破壊されて滅びます。
ですから、エレミヤという預言者は嘆きに嘆き、涙の預言者と言われています。
まことの神が破壊すると宣言される時、人は人間的な希望がまったくなくなる状態にまで
追い込まれます。
ああ、もう私はまことの神に頼るほか何もできない、悔い改めて主にすがりつくしかない、
もうお手上げ私は主なる神に頼るしか他に何もできない、というところまで追い込まれます。
そして、そこまで行った時に本物の希望、神が与える素晴らしい希望が見えてきます。
でも、みなさんできれば、私たちはそんなところを通りたくありません。
しかし、神は私たちの状態を見て、私たちがあまりにも間違った方向に進んでいるならば、
私たちを正すためにそうせざるを得なくなることがあります。
またこの世の価値観に心を奪われて、神の国とその義とを第一に求めていないならば、
神は嘆きつつ、私たちに荒治療をしなければならなくなる時があります。
神がご自分の民をさばき、罰するのは、民をいじめて痛めつけて喜ぶためではありません。
神がご自分の民を罰するのは、彼らを燃える炉の中で精錬して聖め、そして再び建て
上げるためです。
燃える炉の中に金や銀を入れると不純物が表面に浮き出てきます。
そしてそれを取り除くことによって、曇りのまったくない美しい純粋な金や銀になります。
これは私たち個人についても、教会についてもあてはまることです。
パウロは1コリント11:32に「しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられる
のであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。」
と書いています。
また、ヘブル12:6-11には『「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。
主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべて
の子に、むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。
父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、
ほんとうの子ではないのです。
さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは
彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きる
べきではないでしょうか。
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのです
が、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、
懲らしめるのです。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものです
が、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』
とあります。
さて、エレミヤは、南ユダ王国についての神のみこころ「回復させるためには、まず
破壊する」ということを、南ユダ王国の人々と王様に伝えました。
南ユダの人々は勿論、自分たちが異邦人の国バビロニア帝国に攻撃されバビロンに
連れて行かれてバビロンに仕えるなどということは聞きたくありません。
そこで偽預言者があらわれて、耳障りの良いことばばかりを人々に語り始めます。
エレミヤ書の6章には「本当の平安とにせの平安」について記されています。
みなさん、クリスチャン生活における本物の平安とは、どこからくるでしょうか?
本物の平安、やすらぎは聖霊様が与えてくださいます。
しかしそのためには祈らなければなりません、イエス様のくびきを負わなければなり
ません。
十字架の道、自己否定の道です。自分に死んだら真の平安、いこいが来ます。
イエス様のくびきは負いやすく、心地よく軽い、とマタイ11:30にあります。
しかしそれを外してしまうと、心地良くなくなってしまいます。
そしてにせの平安であるお金や地位、名誉、そして人間に頼っていると、その結果は
悲惨です。
やがてこの世のくびきを負わされて重くて大変なことになってしまいます。
押しつぶされてしまいます。
さて、エレミヤが活動していた時代、にせの預言者たちがあらわれました。
そして偽預言者たちは人々を間違った方向に導きにせの平安を人々に与えたのです。
それで主は怒ってエレミヤに偽預言者たちの過ちを指摘しました。
エレミヤ書6:14に「彼ら(預言者や祭司)は、わたしの民の傷を手軽にいやし、
平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」とあります。
さらにエレミヤ書8:11にも「彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、
平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」とあります。
みなさん、今日の教会においてもよくこの過ちが語られています。
ある問題を解決に導くためには、また根本的な解放やいやしが与えられるためには、
全部がそうだというわけではありませんが…
その人が罪を心から悔い改めて、心が砕かれることが必要なケースがあります。
そして自分に死ぬことによって、真の意味で生きることができます。
本物の平安が与えられて、神のいのちに満ちあふれて生きることができます。
けれどもそれなのに、「あなたは、まだ大丈夫だよ。こういうことを行なえば、
まだ希望があるよ」と言って、その人を間違った方向に導き、間違った希望、
にせの平安を与えてしまうことがよくあります。
ひどいのになると、悔い改めについては何も言わず、とにかくたくさん献金すれば大丈夫だ
とか、もっとひどいのになるととにかく何でもいいから預言をたくさんすればいやされるとか、
そういうことが実際に起きています。
ある教会の女性が、風邪を引いた時にとにかく30回預言すれば癒されると言われて困惑し
て、私に相談してきたことがありますが…
まあそこまで極端なのは少ないですが、しかしそれに近いことはよく耳にします。
エレミヤが活動していた時代ですが、にせの平安を語る偽預言者があらわれて人々を
間違った方向に導いていきました。
そして、人々は、神のさばきと南ユダ王国の滅亡を語る本物の預言者エレミヤを
偽預言者として責め、迫害しました。
南ユダ王国は、すでに霊的におかしくなっていたのに、神の民がそれを認めず、
悔い改めの機会を失ったのです。
最近問題になっている偽預言に惑わされている人々と、極端な可能性思考に陥った人々
には共通点があります。
それは、失敗を失敗と認めることができなくなり非常に高慢になったり、
また間違いを間違いと認めることができなくなり、その結果悔い改めができなくなる、
ということです。
みなさん、悔い改めるべき時にいつまでも悔い改めないでいると、悔い改めようと思った
時に、心から悔い改めることができなくなってしまうということが起きてきます。
それはとても恐ろしい状態です。
みなさん、今、悔い改めなければならないと感じていることがあるならば、それを導いて
おられるのは聖霊様です。ですから、すぐに悔い改めましょう。
罪を告白し悔い改めるならばイエス様の十字架のみわざによる罪の赦しと
悪からのきよめと、聖霊様の助けがあるのですから悔い改めましょう。
御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめます。
もし、今みなさんの中に、まだクリスチャンでない方がいましたら、いつかそのうちに
キリストを信じるから今はまだいいよ、と言っていると、将来、信じたいと思ったときに
信じることができなくなってしまう、 そういうことが実際に起きることがあります。
ですからどうか今は、まだいい、などといわないでイエス様を信じてください。
「今は恵みの時、今は救いの日です。」(2コリ6:2)
そして南ユダ王国ですが彼らは悔い改めなかったので、エレミヤの預言の通りに
やがて滅びます。
エレミヤ書の中には実は、「彼らが悔い改めるならば、彼らのために下そうとしていた
災いを思いなおそう。」(エレ26:3、エレ7:3、7:5-7)と主が語っておられるところも
あるのですが、彼らは悔い改めなかったので滅びました。
主は南ユダ王国と北イスラエル王国をさばき、こうしてイスラエル全体を罰しました。
しかし、主はご自分の民を滅ぼし尽くすことはせずに輝かしい回復のメッセージも与えています。
それは30章から33章に記されています。
特に31:3−4で主はこう語っておられます。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。
それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。
わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。」
と言っておられます。
みなさん、当時のイスラエルにはもう自分で自分を建て直す力はありませんでした。
しかし、主は主ご自身の力、神の力によってイスラエルを建て直し、回復してくださるのです。
これは、二重預言で、ひとつはすでに成就しました。
バビロンに連れて行かれたユダヤ人は、やがてイスラエルに帰ることが許され、
紀元前536年にはエルサレムの神殿の再建が始まりやがて完成(516)します。
紀元前440年頃にはエルサレムの城壁も完成します。
そしてイスラエルが再び回復します。
ところがその後、残念なことに、イスラエルは
また堕落していきます。
そして、それから約400年経つと、今から約2000年前のことですが、まことの神である
救い主イエスさまが人となってこの地上に、あのイスラエルに来られました。
ところが、ほとんどのユダヤ人は救い主イエス様を受け入れず拒絶し迫害します。
そしてエルサレムでイエス様は十字架につけられました。
それから約40年経って紀元70年になると、今度はローマ帝国の軍隊がついに
エルサレムを攻撃します。
そしてエルサレムは破壊され、イスラエルは滅亡し、ユダヤ人はまた自分たちの国を
失うことになり、今度は世界中に散っていきます。
それで二重預言のもうひとつの意味ですが、それは世界中に散ったイスラエル人が…
すなわち南ユダ王国の末裔だけでなく、北イスラエル王国の末裔も、将来、再びあの
カナンの地に戻ってきてイスラエルが復興し、栄えるようになるということです。
これは、今から100年前には、まったく考えられないことでした。
しかし、今から約60年前の1948年に、イスラエルという国家がなんと約1900年ぶりに
復活したのです。
イスラエル国家が物質的にあのカナンの地に目に見える形で復活したことは、
聖書を総合的に読むと、明らかにこの世の終わりが近づいてきたことを意味します。
そしてやがて将来イスラエルは必ず霊的にも回復されます。
今はまだほとんどのユダヤ人がイエス様を信じていませんが、聖書の預言を総合的に
見ていくと…
やがて将来、ユダヤ人の大多数が、ユダヤ人のほとんどがイエス様をメシヤ救い主
として信じる時が来ます。
イエス様を信じたら救われて、聖霊が入ってくださいますが、イスラエルに聖霊が入る、
それがイスラエルの霊的な回復です。
イスラエルの物質的な回復とそしてさらにイスラエルが霊的にも回復する、
それこそが真の意味でのイスラエルの回復です。
つまり、イスラエルが真の意味で生きた者になるということです。
イスラエル人の大多数がイエス様を信じると、すなわちイスラエルの国家的救いが
起こると、イエス様が地上に再臨されます。
そして千年王国が始まります。
またエレミヤ書には、イスラエルを痛めつけたバビロンはさばかれて、永遠に廃墟となる
と預言されています。
こういった壮大な流れ、イスラエルの栄光と繁栄の時代から、衰退、破滅、そして回復、
さらに真の回復、キリストがエルサレムから世界を治めるという千年王国が来る、
という流れの中に今日のエレミヤ書9章があります。
U:異邦人の国のようになった南ユダ王国〜神の民の状態とエレミヤの嘆き
そういうわけで、先ほどみなさんと読んだエレミヤ9章ですが、エレミヤは、南ユダの人々
が敵の侵略によって殺されたり捕らえられて他の国に連れて行かれてしまうことを思って
涙を流します。
9:1の「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、」
とは、どれほど泣いても泣き足りないというエレミヤの思いを表現しています。
そしてエレミヤは、神の民がまったく悔い改めず神に背き悪事を働いている姿を見て、
荒野に逃げたいという衝動に駆られます。
みなさん、私たちはつい、こういうところを読むと、エレミヤがかわいそうだ、南ユダの
人々は神の民なのになんてひどい連中だ。という読み方をします。
すぐにエレミヤになりきって、エレミヤの側に立った読みかたをします。
しかし、ちょっと視点を変えてみましょう。
みなさん、私たちも神の民です。神の民である私たちは、クリスチャンは、教会はどうでしょうか?
私たちは神の民である南ユダ王国の人々と同じようなことをしてませんか?大丈夫でしょうか?
もしかしたら、教会のリーダー達はエレミヤのように嘆いているかもしれません。
いやそれどころか、もしかしたら私たちの罪の身代わりとなって十字架についてくださった
イエス様が、私たちの状態を見て、エレミヤのように嘆いているかもしれません。
2節以降をご覧下さい。神の民の状態が具体的にたくさん記されています。
神の民であるはずの彼らが舌を弓のように曲げ、真実でなく、偽りばかり語っています。
どの兄弟も人を押しのけ、どの友も中傷して歩き回っています。
彼らはおのおの、だまし合って、真実を語りません。
偽りを語ることを舌に教え、悪事を働き、以前として悔い改めません。
欺きに欺きを重ねています。
彼らの口はとがった矢で、欺きを語り、口先では友人に平和を語りますが、
腹の中では待ち伏せをはかります。
さらに、主であるわたしを知ろうともしない。とあります。
6節の「わたしを知ろうともしなかった」のこの「知る」という言葉はヘブル語で
「イァダァ」と言いますが、これは単に頭の知識で知っているという意味ではありません。
それはより深い人格的な交わりを意味することばです。
わかりやすく申し上げますと、先週プロゴルファーのタイガーウッズが優勝して今期5勝目
となりましたが…、
例えば、私たちはタイガーウッズを知っているけれども、ここでいう「知る」とは、
タイガーウッズと一緒に生活して、寝食を共にして、プライベートでタイガーウッズと
ゴルフコースを回ってゴルフをして、ゴルフを教えてもらって、いろいろ語り合い、
友達になることです。
みなさん、イエス様はご自分の弟子たちのことを友と呼びました。(ヨハネ15:15)
ですから、「わたしを知ろうともしない」ということは、今日にあてはめるならば、
クリスチャンであるはずなのに聖霊様と親しくしないということであり、
聖霊様を拒絶するということであり、祈らないということであり、
あるいは一見たくさん祈っているように見えても、
実際は自分の自己中心的な意見ばかりを神にぶつけてばかりで、
神のみ声を聴こうとしないということです。
キリストの弟子になろうとしないということです。
神との人格的な交わりを拒絶しているということです。
みなさん、旧約聖書の出来事は、単に過去の物語ではありません。
エレミヤはかわいそうだ、神の民は堕落してしまってとんでもない連中だ、
だから滅ぼされたのだ、ざまあみろ、すっきりした、などという読み方をしたらいけません。
そんなことを語っているわけではありません。
新約聖書のコリント人への手紙(1コリ10:11-12)には、旧約聖書に、神の民が犯した
過ちが赤裸々に書かれているのは、「世の終わりに望んでいる私たちへの教訓とする
ためです。ですから立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」とあります。
私たちは過去の神の民の失敗から学び、教訓としなければなりません。
私は青年会で月に一度教会史の学びをやってきて、教会の歴史を少しづつみなさんと
共に学んできましたが、過去の教会の良い部分はいいのですが、悪い部分を直視する
ことは結構つらいことでした。
私たちは今日の箇所に出てくる神の民と同じようなことをしてませんか。
大丈夫でしょうか。
2節以降に書かれていることは、これが異邦人(未信者)だったら、まあ仕方がない
といえますが、なんと神の民がやっているわけです。
みなさん、神社仏閣は悪霊の巣窟だと言う人がいますが、しかし、サタンや悪霊に
とっては神の民クリスチャンこそ食い尽くすべき物です。
神社仏閣に行く未信者は、悪魔の支配下にあるわけですから、悪魔にとっては
あまり問題がない人です。
しかし、主に真剣に従おうとしているクリスチャンは、悪魔にとっては大問題です。
ですから、神の民の中に、教会の中に大物の悪霊が姿を隠して巧妙に入ってきて、
クリスチャンを惑わし、教会を滅茶苦茶にしてしまうという事はあります。
実際に第二コリント11:14-15には、サタンは光りの御使いに変装し、悪霊は義のしもべ
に変装することが記されています。
それに気付かずにいると、正しい動機で前進していたクリスチャンが、間違った方向に
突き進み始め、間違ったことのために力を注ぎ、動機も悪意に満ちたものとなっていき、
教会が混乱しておかしくなっていきます。
そしてその結果「教会よりも一般社会の方がまし」、「教会のほうがずっと悪い」などと
言われるような状態になってしまうわけです。
ひどいのになると、自分で教会を悪い状態にしたのに、自分の罪は棚に上げて
教会をけなすという状態になります。
みなさん、私たちは大丈夫でしょうか。
イエス様はかつてエルサレムをご覧になって、
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを
石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび
集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」(マタイ23:37-38)
と言われたことがあります。
イエス様は私たちや教会をご覧になって同じように嘆いているかもしれません。
ですからこそ私たちは時々、自分を吟味するということは大切です。
私たちはみな罪を犯してしまう弱さが残っています。
ですから罪が示されているならばそれを認めて、悔い改めるべきことは悔い改めて、
罪の赦しをいただいて、主に従おうではありませんか。
私はそんなひどいことはまったくしていないといって逃げるのではなく、しっかり自分と向かい
合い、自分の状態を吟味する、そのためには祈らなければなりません。
そして聖霊様に自分の心をさぐっていただき、悔い改めることがあったら悔い改めましょう。
いつまでも悔い改めないでいたら、あるいは口先で悔い改めるだけで悔い改めの実が
結ばれていかなければ、神の荒治療を受けなければならなくなるかもしれません。
エレミヤ9:9に、「このような国に対して、わたしが復讐しないだろうか」、とあります。
ここで使われている「国」という言葉は、ヘブル語原文を読むと、異邦人の国を指す
ゴイという単語が使われています。
ですから、「神の民が異邦人の国のようになってしまった」ということです。
そして少し前の7節に『それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らを溶かし
てためす。いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか。」』とあります。
金や銀を燃える炉の中に入れてかすや不純物を取り除くように、主は神の民を回復する
ために「悩みの炉」の中に入れて、試練を与えてふるいにかけます。
ペテロは新約聖書1ペテロ4:17にこう書いています。
「…さばきが神の家(教会)から始まる時が来ている…。」
そしてパウロは1コリント11:32で「しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられる
のであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。」
と書いています。
さらにパウロは、過去のイスラエルと今の私たちのことをオリーブの木に関連付けて警告
しています。
ローマ人への手紙11:19-24ですが
「枝が(つまり台木の枝、つまりイスラエル)折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、
とあなたは言うでしょう。
そのとおりです。彼ら(イスラエル)は不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立って
います。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
もし神が台木の枝(イスラエル)を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。
あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中に
とどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
彼ら(イスラエル)であっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。
神は、彼ら(イスラエル)を再びつぎ合わすことができるのです。
もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、
栽培されたオリーブの木(イスラエル)につがれたのであれば、これらの栽培種の
もの(イスラエル)は、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。」
みなさん、ですから私たちは悔い改めて、主に従いましょう。
そして互いに愛し合いましょう。イエス様は何度も何度も互いに愛し合いなさいと
命じられました。
極めつけは、ヨハネ13:35、「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、
あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
つまり、クリスチャンの兄弟姉妹が愛し合っていたら、すべての人が、この世の人達も
私たちがキリストの弟子だと認めるようになるということです。
私たちは、キリストの弟子であると自称するのではなく、他の人に「ああ、あの人は確かに
キリストの弟子だ」と言わせなければなりません。
V:誇る者は主を誇れ
次に9:23-24ですが、ご覧下さい『主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を
誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。」』
とあります。
私たちに与えられている知恵、力、あるいは富、それ自体は神からの祝福で良いもの
ですが、それを誇ったり、それに信頼することは愚かです。
そのような心がそのまま偶像礼拝となります。
みなさん、主が私たちにせっかく与えてくださった祝福を、悪魔は呪いにかえてしまおうと
狙っていますから、気をつけなければなりません。
私たちが自分の知恵、自分の力、自分の富、そういったものを誇りそれを信頼して
生きているならば、そしてそれが自分に平安を与えていると思ったら間違いです。
それはにせの平安に惑わされているということです。
そしてそういう心の根底にあるのは高ぶりです。
「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」と箴言16:18にあります。
主は、「知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕えられる。
見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろう。」と言われます(エレミヤ8:9)。
神は知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくします(1コリ1:19)。
また、金を追い求めていると、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通す
ことになります。(1テモ6:10)
みなさん今でも日本は世界の中で、やはりとても豊かな国のうちのひとつです。
私たちにとって身の回りにあってあたりまえの物が、多くの国々では当たり前ではありま
せん。
1テモ6:17には「…高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。
むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」
とあります。
私たちが信頼すべきお方は、祝福を与えてくださる主ご自身です。
主に信頼しましょう!
主に信頼するとは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ6:33)ということ
です。そうすれば、必要なものはすべて与えられます。
主はまた「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」
(エペ3:20)です。
みなさん。主に信頼しましょう!
そして、誇るならば主を誇りましょう。
24節をご覧下さい「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」
と記されています。
主を誇るためには、主を知っていなければ主を誇ることは出来ません。
主をよく知るためには、祈らなければなりません、聖書のみことばを読まなければ
なりません、主との関係を何よりも大切にしなければなりません。
そして主に従わなければなりません。
ホセア書6章に「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。…
私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、
確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」
(ホセア6:1、3)とあります。
私たちは、主を知れば知るほど、主は素晴らしいお方だとわかるようになるので、
主を誇らずにはいられなくなります。
結び:御霊による心の割礼こそ本物の割礼〜御霊によって歩もう!
次に25節、26節ですが、エジプト、ユダ、エドム、アモン、モアブ、という名前が出て
きます。
そして荒野の住人でこめかみを刈り上げている者、というのはこれはバッカスという
偶像を拝んでいたアラブ人のことだと言われていますが、
これらすべての国々は無割礼であり、神の民イスラエルは包皮に割礼を受けている
けれども心に割礼を受けていないので、神はこれらすべての者を罰するということです。
申命記の10:16に「あなたがたは心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者
であってはならない」と記されています。
それは、「あなたは心が打ち砕かれて、へりくだりなさい」という意味です。
さらに新約聖書ローマ2:28-29を開きましょう。
パウロは「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が
割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、
文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」と言っています。
これは、私たちにもそのまま当てはまります。
「外見上のクリスチャンがクリスチャンなのではなく、外見上のからだの洗礼が
洗礼なのではありません。かえって人目に隠れたクリスチャンがクリスチャンであり、
御霊による、心の洗礼こそ洗礼です」
洗礼のことをバプテスマといいますが、バプテスマには浸すという意味があり、
ですから私たちは聖霊に満たされ、聖霊に浸され、頭のてっぺんから足のつま先まで
聖霊に浸されることが大切です。
聖霊の満たしをいつも求めて、聖霊に満たされ続けることが大切です。
そうしないと、へりくだることは難しいです。肉が働き始めてすぐに高ぶってきてしまいます。
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させる
ようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)
「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、
からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8:13)
と聖書にあります。
ですから、私たちはもっともっと聖霊様がはたらきかけてくださるように祈り、
聖霊の満たしを求めましょう。
聖霊様の満たしと助けがなければ聖書のみことばに従うことはできません。
ですから聖霊を常に求めて熱心に祈り、御霊によって歩もうではありませんか!
そして、私たちは神様から与えられている使命に忠実に生きなければなりません。
みなさん、イスラエルの民には、契約、モーセの律法、神からの啓示などが与えられていました。
そして、主の栄光をあらわし、世界の国々が主をあがめるようにするという使命があります。
しかし、イスラエルはその使命を忘れてしまったところから堕落が始まり、
間違った方向に進み、神のさばきを受けなければならなくなりました。
みなさん、今の時代、クリスチャンには、イエス様の十字架と復活による福音が
ゆだねられています。
そして、今、ユダヤ人のクリスチャンが少しづつ増えてきていますが、
それはイスラエルが本来の使命に少しづつ立ち返り始めているということでもあります。
私たちクリスチャンは、主の栄光をあらわし、世界の国々が主をあがめるようにする
という使命があります。
私たちクリスチャンには人々を救いに導くという使命があります。
イエス様は私たちに「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
(マルコ16:15)と命じられました。
私たちは、この使命に生きようではありませんか!
それぞれ導かれている場所に行って、福音を伝えましょう。
そのために聖霊さまが私たちに与えられています。
そのためにイエス様は、私たちがイエス様の御名によって悪霊を追い出すことができる、
という神の権威をゆだねてくださいました。
イエス様は「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に
打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」
(ルカ10:19)と言われました。
イエス様の御名によって病人をいやすことができるという、神の権威もゆだねてくださいました。
他にも多くの恵みがクリスチャンには注がれています。
ここにいるみなさんには、自分でも考えられないくらい多くの賜物を与えられています。
イエス様は、「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は、多く要求されます」
(ルカ12:48)と私たちに言っておられます。
前に、ろう教会の土屋伝道師に、スパイダーマンという映画を観るように勧められて観た
のですが、そのテーマは「大いなる力には、大きな責任が伴う」というものでした。
それで、スパイダーマンは、人を助け救い出すというその使命に生きることをやめると、
人生がおかしくなってきてヘナヘナになってしまうのです。
しかし、使命に立ち返ると、力が与えられて、ものすごいはたらきを成し遂げます。
まあ、スパイダーマンは架空の物語で漫画ですが、私たちは使命に生きることをやめたり、
祈らなくなると、どこかがおかしくなってきます。
人生がおかしくなって、空しくなってきます。
私たちはイエス様から与えられた使命に生きる時こそ、力が与えられ、輝き出し、
祝福も伴うようになります。
イエス様は私たちにこう言われました「あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って
実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、」(ヨハネ15:16)
とイエス様は私たちにお語りになりました。
イエス様が私たちを選び、任命してくださったのです。それは私たちがそれぞれ導かれている
場所に出ていって(この世に出て行って)実を結ぶためです。
ここでいう実とは御霊の実だけではなく、働きの実、すなわち人々の救いという実です。
人々が救われることは大切な実です。
ヨハネ15:8にとても重要なことが記されています。その箇所の脚注を読むと、ヨハネ15:8は
「あなたがたが多くの実を結び、そうしてわたし(キリスト)の弟子であることを証明する
ことによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」という意味になります。
御霊の実である、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、この実を結んで
いくことと、それと同時に働きの実、人々が救われるという実もどんどん結ぶこと…
御霊の実において成長しているならば、働きの実も必ずそれに伴います
つまり多くの人々が救われるという実が結ばれることによって父なる神が栄光をお受け
になるということです。
私たちは、天国に行った時に、イエス様から良くやった良い忠実な僕だといわれるように、
大きな祝福をいただけるように歩んでいきましょう。
そのためには、悔い改めることを悔い改め、聖霊様を歓迎し、御霊によって歩まなければ
なりません。
それではしばらく、お祈りしましょう。
しばらく御霊によって、御霊に導かれるままに、自由にお祈りしましょう。(どうぞご起立下さい)
(祈り)
(救いへの招き)
今日、まだクリスチャンでない方で、私もイエス様を信じて救われたいという方が
いましたらどうぞ手をあげてください。その方のためにお祈りします。
まだクリスチャンでない方で、私にもイエス様が必要だと言う方がおられましたら、
どうぞ手をあげてください、その方のために祈ります。
「イエス様、私はあなたを必要としています。私の罪のために身代わりとなって
十字架で死んでくださり、ありがとうございます。そして3日後に復活されたことを感謝します。
私は今、イエス様あなたを、私の救い主、人生の導き手として受け入れます。
イエス様、今、私の心にお入りください。
イエス様、あなたを信じます。
あなたが私のすべての罪を赦してくださり、永遠のいのちをあたえてくださり、
神様の子どもとしてくださり、救ってくださったことをありがとうございます。
イエス様、私の心の中心で私を導き、あなたの望むような者に、私を変えてくださることを
感謝します。 イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
それでは、みなさん、イエス様を信じておられますね。
それでは、いやしの祈り、解放のいのりをしましょう。
いやしと解放をイエス様の御名によって命じましょう!
(いやしと解放のミニストリー)
(祈りと讃美)
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