2005年5月29日 ジュニア・チャーチ(中高生教会) 聖日礼拝 平石太朗牧師
「バプテスマを受ける」
(マタイの福音書3:1〜6、13〜17)
それでは、マタイの福音書3章1節から6節と13節から17節をみなさんと
交互に読みましょう、交読しましょう。
3:1
そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
3:2
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3:3
この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。
3:4
このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、
その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5
さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々が
ヨハネのところへ出て行き、
3:6
自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
3:13
さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンに
お着きになり、ヨハネのところに来られた。
3:14
しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。
「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところに
おいでになるのですか。」
3:15
ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。
このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」
そこで、ヨハネは承知した。
3:16
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。
すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17
また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
T:バプテスマのヨハネ 1〜6節
それではまず、1節から6節を見てみましょう。
1節に「そのころ」とあります。
これはルカの福音書を読むと「皇帝テベリオの治世の第15年」(ルカ3:1)と書かれていて、
紀元27年か28年の出来事であるということがわかっています。
ですから、今年が紀元2005年ですから今から1978(7)年前の出来事です。
その頃のこの日本は何と呼ばれていたかというと「倭(わ)」と呼ばれていた時代です。
その頃、ユダヤの荒野にバプテスマのヨハネという預言者が現れました。
みなさん、このバプテスマのヨハネは、イエス様の12弟子の中のヨハネとは違います。
あのヨハネの福音書やヨハネの手紙、ヨハネの黙示録を書いたヨハネとは違う人物です。
名前は同じですが、同じ人物だと思わないように気をつけてください。
さて、実はこのバプテスマのヨハネが出現するということは、その時から時代をさかのぼって
約700年〜740年も昔に預言者イザヤによって預言されていました。
つまり紀元前700年頃に預言されていました。
ということは今から約2700年くらい前に預言されていたんです。
その頃の日本は、高校の歴史の教科書で言うと縄文時代の後期です。
イザヤ40:3にそのイザヤの預言が書かれています。『荒野に呼ばわる者の声がする。
「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」』
これはバプテスマのヨハネとその活動を預言していました。
そして今日の聖書箇所、このマタイ3章で、紀元27年から28年に、ついにそのイザヤの預言が
その通りに実現しました。
今から約2700年前の預言がそれから約700年経った1978年前にその通りに実現したということです。
そう言われても、何かあまりピンと来ないかもしれません。
約700年前の預言がついに実現したといっても、700年という時間はあまりピンと来ないでしょう。
あえて今のこの私たちの時代に例えて今の時代から考えてみるならば、
今から700年〜740年前の日本は何時代でしょう。
日本は鎌倉幕府の時代です。
今の平成から辿っていくと、昭和、大正、明治、そして江戸時代、安土桃山時代、その前が
室町時代、その前が鎌倉時代です。
鎌倉時代というのは、今、NHKの大河ドラマで「義経」をやっていますが、あの源義経役の滝沢寿明
タッキーはかっこいいですよね。
そして義経のお兄さんは源頼朝で中井喜一がやっていますが、あの頼朝が1192年に開いたのが
鎌倉幕府です。
「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」ということで覚えている人もいるでしょう。しかし昨日テレビでやって
いたのですが、実際は1185年だったかもしれないそうです。
そして鎌倉幕府は、元(モンゴル)に攻められたりしても結構長く140年くらい続きますから、
今から700〜740年前の1265〜1305年の日本はというと、その鎌倉時代の中期から
終わり頃です。
世界史で言うと、モンゴル帝国がユーラシア大陸のほとんどを支配し、ヨーロッパ人がモンゴルに
恐れおののいていた時代です。
今の時代から例えてみると、日本史で言えば鎌倉時代に、世界史で言えばモンゴル帝国の時代
に預言されたことが今のこの私たちの時代に実現したという感覚です。
考えてみるとものすごいことですね。
さあ、今から約2000年前の紀元27年頃のイスラエルに戻ります。
バプテスマのヨハネのメッセージは、「悔い改め」でした。悔い改めなければならない理由は、
「神の国が近づいたから」です。
そしてその神の国の王として来られるのが、主イエスさまです。
ヨハネのもとに大勢の人々が集まってきて、ヨハネはその人たちに悔い改めのバプテスマを
授けました。
バプテスマとは洗礼のことですが、もともとは水の中に浸すという意味があります。
さらにこのバプテスマという言葉はユダヤ人にとって本来どういうことを意味するかというと、
「一体化」するという意味があります。
ヨハネからバプテスマを受けるということは、ヨハネという人物、またヨハネが語るメッセージと
一体化したという決意を表すことになります。
まもなくメシヤ救い主イエスさまが登場しようとしていましたが、ヨハネがその方を指し示す時、
ヨハネからバプテスマを受けた人たちは自動的にその方を(つまりイエス様を)受け入れる
用意ができていたということになります。
ここで、みなさん、このバプテスマのヨハネの服装と食べ物に注目してみましょう。
彼はらくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締めていました。飾り気が全然ありません。
これは旧約の預言者エリヤを思い起こさせる姿でした。
また食べ物は、いなごと野蜜で、これは荒野での一般的な食べ物です。体に必要なものだけ
を食べていました.
また荒野は、エルサレムのような賑やかな都市とは違い、荒野は静寂な場所であり、
ユダヤ人の伝統では神の声を聞き、神に祈る場所です。
その荒野でヨハネは「荒野で叫ぶ者の声」として活動を始めました。
ヨハネは不必要な飾りを捨てて、神から与えられたことばをそのまま恐れずにストレートに
人々に伝えました。
みなさん、今の時代も、ヨハネのように人々をイエス様のもとに導く人物を必要としています。
あなたはこのバプテスマのヨハネから何を学びますか。
U:主イエスがバプテスマを受ける 13〜15節
次に13〜15節にいきます。
ヨハネが、ヨルダン川に集まってきた人々にバプテスマを授けていると、
ついにイエスさまがガリラヤ地方のナザレという町からヨハネのところにやって来ました。
ルカの福音書には、この時のイエス様は30歳くらいだったということが書かれています(3:23)。
みなさん、先週の安間先生のメッセージをおぼえていますか?
先週のメッセージは、イエス様が子供の頃、両親とエルサレムに行った時の出来事でしたね。
その時イエス様は何歳だったか覚えているでしょうか。
12歳です。
ですから、今日のこの聖書箇所に出てくるイエス様は30才ですから、先週の聖書箇所から
今日のこの聖書箇所までに約18年が過ぎたということです。
その間、イエス様は何をしていたのか聖書にはほとんど書かれていませんが、
はっきりとわかっていることがあります。
それは、イエス様には少なくとも4人の弟と何人かの妹がいたということ、
もうひとつはイエス様は大工として働いていたということです(マルコ6:3)。
イエス様は、ナザレの町の大工でした。毎日重たい木材や石を運んで、木を切ったり、
石を積み上げたりして、家具を作ったり、家を建てていました。
重いものを運んで時には血豆を作ったり、かすり傷もたくさんあったでしょう。
イエス様はこの期間、働くことがどういうことであるかを経験されました。
イエス様は生活費を稼ぎ出して、節約して食物や着る物を買い、たまに休みの日には
わずかな楽しみをあじわうことがどんなものであるかを体験されました。
また大工をやっていれば、クレームの多いお客さんに接したり、きちんとお金を払ってくれない
お客さんもいたでしょう。
みなさん、考えてみてください。本物の神様がなんと人間になって、人間の生活とはどんなもので
あるかを味わったのです。
イエス様は普通の人と同じ生活をしていたんです。
イエス様はここにいるジュニアチャーチのみんなと同じ年齢の時もありました。
そして、私たち人間と同じ生活をしていました。
勿論、イエス様には私たちとは違うところがただひとつありました。
それは、イエス様はまったく罪を犯さなかったということです。
私たちは100%人だけれども、イエス様は100%人であると同時に100%神であるということです。
イエス様は100%神であり、100%人です。
かつて1789年、フランス革命の直前、フランスの王妃マリー・アントワネットは、民衆が飢えて
暴動を起こしている時にその音を聞いて、「あれは何か」と召使に尋ねました。
召使が「パンがないのです。」と答えると、王妃は、「何だパンがないならば、ケーキを食べれば
いいのに。」と答えました。
私は何年か前にヨーロッパのオーストリアに行った時に、マリー・アントワネットが小さい頃に
住んでいたシェーンブルン宮殿という所に行きました。
そこはものすごく豪華な宮殿で、庭もものすごく大きかったです。
マリー・アントワネットは、乏しい生活をしたことがなく、普通の人の生活をしたことがなかったので、
自分の国の人々を全く理解できませんでした。
しかし、王の王であるイエス様は違います。
ピリピ2:6-9に「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることが
できないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、
実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、
すべての名にまさる名をお与えになりました。」とあります。
イエス様が、ナザレで大工として働いたというのは、人間の人生を知り、体験し、
それは人を助けるために必要な期間でした。
イエス様は、人類の救いという大きなことに向かう前に、毎日の仕事を忠実に行われ、
小さな責任をきちんと果たしていました。
小さなことに忠実だったイエス様は、やがて人類史上、最大のことをやりとげます。
みなさん、私たちも、日々の務めをていねいに果たしていくときに、大きなことを任されるように
なることを忘れてはいけません。
さて、イエス様はヨハネのところに来ますが、最初、ヨハネはイエスさまがメシヤであると
わからなかったようです。
しかし、ヨハネの福音書を読むと、バプテスマのヨハネはイエス様が近づいてくるとイエス様は
メシヤであることがわかったのです(ヨハネ1:29-30)。
そしてイエス様は、ヨハネからバプテスマを受けさせてもらおうとします。
しかし、ヨハネはイエス様にバプテスマを授けようとしませんでした。
ヨハネは「そんな、救い主メシヤであるイエス様に対して私がバプテスマを授けることなど
できない、逆に私がイエス様からバプテスマを受けたい」と言いました。
しかし、イエス様は「今はバプテスマを受けさせてほしい」とヨハネに頼みます。
それでヨハネはやっと承知し、イエス様はバプテスマを受けます。
バプテスマとは、洗礼とか水の中に浸すとか、さらに一体化するという意味もありますが、
イエスさまがバプテスマを受けた理由はいくつかあります。
ひとつは、イエスさまがバプテスマを受けたのは、ヨハネのメッセージと一体化するためでした。
つまりイエス様は、ヨハネの「悔い改めなさい天の御国が近づいたから」というメッセージが
間違いなく神からのメッセージであることを宣言したということです。
2番目に、当時、すでにヨハネのバプテスマを受けているユダヤ人たちと一体化するためです。
そして3番目、これが一番重要です。
ヘブル2:17にイエス様は「…あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、
主はすべての点で兄弟たち(つまり私たち)と同じようにならなければなりませんでした。…」
とあります。
これが今日のテーマである、「神の子が人としてバプテスマを受けられた」ことの理由です。
人となられた神の御子イエス様にとって、バプテスマを受けることは、すべての点で私たちと
同じようになるために必要なことでした。
勿論、イエス様は神の御子であり、神ご自身ですから、罪をまったく犯したことがない方です。
その点については、先ほどもお話した通り私たちとは決定的に違います。
しかし、その他の点については私たちと同じようになるため、神がご自分を低くして、罪がないにも
かかわらず、罪の悔い改めのバプテスマを受けたのです。
イエス様は悔い改めるべき罪はまったく無かったけれども、罪の悔い改めのバプテスマを受けました。
それは罪人である私たちと一体化するためです。私たちと同じようになるためです。
その真理は第二コリント5:21に詳しく解説されています。読みます。
「神は、罪を知らない方(イエス様)を、私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、この方(イエス様)にあって、神の義となるためです。」(イザヤ53:12も参照)
V:三位一体の神の自己啓示 16〜17節
次に16節から17節にいきます。
イエス様がバプテスマを受け、水から上がられると、ものすごいことが起きました。
天が開け神の御霊、すなわち聖霊なる神が鳩のように、子なる神であるイエス様にくだり、
天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と、父なる神の声が聞こえて
きたのです。
ここは難しい言葉になりますが三位一体の神の自己啓示と呼ばれる部分です。
三位一体の神がここで同時に現われているということです。スゴイ場面です。
みなさん、よく三位一体という言葉が使われますが、三位一体を完全に説明した学者はいません。
人間の頭では三位一体を完璧に理解することはできません。
私は神学校の時、三位一体論というのを学びましたが、非常に面白く、かつ難しく、そしてシンプル
でもありますが、三位一体を完璧に説明した学者はいません。
ただ、このことは覚えておいてください。
神は唯一です。ですから3つの神がいるという考えに陥らないように気をつけてください。
それは三神論という考え方で間違いです。
それと、もうひとつ、ひとりの神がある時には父になり、ある時にはイエス様になり、
ある時には聖霊に顔を変えるという考えに陥らないでください。
これはちょっと難しい神学用語で様態論といいますが、それは間違いです。
たとえば、水は気体になったり、氷になったり、液体になったり、ということと三位一体は違います。
また私は教会では牧師であり、私の奥さんから見れば夫であり、私の両親から見れば子供ですが、
三位一体とはそういうことでもありません。
結び:
バプテスマを受けよう
さあ、バプテスマのことに戻りますが、バプテスマ(洗礼)について最後に重要なことをお話します。
イエスさまの時代にヨハネが授けていたバプテスマは、その意味は罪の悔い改めのあかしでした。
その後、イエスさまが十字架につけられて死なれ、そして復活された後、聖霊さまがくだってきて
教会が誕生しました。
それで現代の教会におけるバプテスマ(水の洗礼)は、何を意味しているかというと…、
キリストの十字架による贖いによって罪を赦されて救われ、神の国の一員とされたあかしです。
みんなの中で、イエス様を自分の救い主として信じているけれどもまだバプテスマ(洗礼)を受けて
いない人は、是非、バプテスマを受ける決心をしてください。
バプテスマ(洗礼)を受けることはイエス様の御心ですから、バプテスマ(洗礼)には大きな祝福が
伴います。
またもうイエス様を信じバプテスマを受けている人は、聖霊のバプテスマを求めて祈ってください。
聖霊に満たされると異言が出てきます。
聖霊のバプテスマも受けている人は、祈り続けることこそ大切ですから、祈り続けてください。
イエス様に似る者に変えられていきます。
それでは、しばらく一緒にお祈りしましょう!