2004年6月27日 聖日礼拝 平石太朗牧師

「落ち込みからの回復」
    (列王記第一19章1節〜18節)

  みなさん、主はすばらしい! いつもそうです! アーメン!

  それでは、聖書を開きましょう。今日は列王記第一の19章1節から18節です。
旧約聖書の567頁です。
それでは、列王記第一の19章1節から18節をみなさんと交互に読みましょう、交読しましょう。  


19:1 アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを
残らずイゼベルに告げた。
19:2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、

あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのように
しなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」
19:3 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。

ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、
19:4 自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、

自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。
私は先祖たちにまさっていませんから。」
19:5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、

「起きて、食べなさい。」と言った。
19:6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、

水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。
19:7 それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。

旅はまだ遠いのだから。」と言った。
19:8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、

歩いて神の山ホレブに着いた。
19:9 彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばが

あった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられた。
19:10 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々

はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。
ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」
19:11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」

すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。
しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも
主はおられなかった。
19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。

火のあとに、かすかな細い声があった。
19:13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。

すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
19:14 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々

はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。
ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」
19:15 主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、

ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。
19:16 また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの

出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。
19:17 ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。
19:18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。

これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」



みなさん、私たちは生きていく中で、落ち込んでしまったり、ちょっとうつ状態になる
ということは誰にでもあることです。
何が落ち込みの原因になるか、それは人それぞれです。   私も最近、少し落ち込み気味でした。
というのは、日本の隣の国、韓国はとてもクリスチャンが多く、人口の35%もいます。
日本は今、韓国ブームなのに、何で、冬のソナタのヨンさま(ぺ・ヨンジュン)に熱中する日本人は
たくさんいるのに…、なんでイエスさまのことは日本人になかなか伝わらないのかなと思ったり…
また、イランという国はクリスチャンになったら死刑になるという法律があるにもかかわらず、
今、急速にクリスチャンが増えているそうです。
この前、竹中友美伝道師がイラン人の牧師から聞いた話では、信じられないことに20%も
クリスチャンがいるそうです。

  私が大好きな台湾も、どんどんクリスチャンが増えて、近いうちに人口の10%を越えるだろう
と言われています。
しかし、日本は、クリスチャン人口は1%、実際は、0.3%だとも言われています。
日本のクリスチャンはまじめな人が多いですし、祈ってないわけではありません。
決して競争ではないのですが、私はそういうことを考えているうちに何だか気持ちが
ダウンしてきてしまって…
それに、先週はうちのパソコンがコンピュータ・ウィルスにやられて大変なことになったり、
台風が来た後ものすごく暑くて体も参ってしまっていました。

  そして、ショックだったことは、みなさんもご存知だと思いますが、先週、イラクの武装勢力によって
韓国人が首を切られて殺害されました。
みなさん、あの韓国人男性はプサン神学大学を出たクリスチャンです。
彼が勤めていた貿易会社の社員のほとんどもクリスチャンです。
何と言ったらいいのかわからない…ショッキングな出来事でした。
殺害された人の両親はショックのあまり失神して入院しているとのことです。
韓国中のキリスト教会に衝撃が走り、「魂の救いのための情熱もいいが、この機会に一歩引く
知恵が必要」だという声が上がっています。  
人はそれぞれいろいろな理由で落ち込みます。
私たちは、気分がすぐれない、何だか気力がわかない、落ち込みがちである…
とそういうことを経験する時、それはノーマルな普通の正常な人間であることの証拠です。
何もおかしなことではありません。  

悲しむべきときには、悲しむべきです。
「いつも喜んでいなさい」というみことば変に曲解して、悲しんでよい時に悲しまず
無理にがんばって必死になって笑顔を作っても、それはとても喜んでいる状態とは言えません。
人はごまかせても、神はその人の心を見られます。神をごまかすことはできないんです。
また、家族が死んだのに、もしもみことばを曲解して、喜んだり、笑っていたら、それは変です。
ちょっと頭がおかしい人ということになってしまいます。
悲しむべきときには、悲しんでいいんです。涙を流して、叫んだっていいんです。
みなさんご存知でしょうか、イエス様はある時、「悲しんでいる人々は幸いです」と言われました
(マタイ5:4)。
それに「いま、笑っているあなたがたは、哀れな者です」とも言われました。

  人は誰でも落ち込むことがあるものです。イエス様はそれを頭から否定するようなことは
言っておられません。
ただ、落ち込みが長く続くと大変なことになってきます。病気になってしまいます。
もちろん主は癒し主ですから肉体の病気だけでなく心の病気も癒してくださるお方です。
しかし、大切なことは病気にならないように気をつけることです。

  最近、日本では非常に残念な事実が報道されました。
去年1年間に自殺した人の数が3万2千人を越えて、過去最悪の数字となってしまいました。
「私は生きたい、死にたくない」という人がいる反面、「私は死にたい」と言って、自らいのちを
絶ってしまう人が数え切れないほどこの日本にはいます。大問題です。
日本は治安が悪くなってきていますが、去年他殺(他人によって殺された人)は699人です。
ですから、自殺した人の数3万2千人という数はケタがまったく違うことがわかります。
自殺はそれほど多いということです。
また交通事故で亡くなった方が約1万人ですから、自殺した人はその約3倍ということです。
昔は交通戦争などと言われましたが、今は心の戦争の時代などと言われています。
まさにその通りでしょう。

  みなさん自殺は罪ですから、してはいけないことです。
しかし、自殺した人を、またその家庭を、絶対にさばいてはいけません。
自殺してしまう人は数で言うと残念ながら働き盛りの40代から50代の方が最も多いです。
また、20代、30代の数は40代、50代ほど多くはありませんが、しかし20代、30代の
死亡原因の第一位はなんと自殺です。
30代といったら私の世代です。  

人は、危機や困難に直面すると、死にたくなるようなことは誰にでもあるでしょう。
わたしも、かつて「死にたい」と思ったことがあります。
今、みなさんの中に、インターネット放送を見ている方の中にも、もしかしたら「もう、死にたい」
そういう思いを持っている方がいるかもしれません。
しかし、聖書は死んではいけないことを教えています。  
経済的に破綻した、倒産した、あるいは結婚生活がうまくやっていけない、ということも
あるかもしれません。
誤作動人生というか、こんなはずじゃなかったということがあるでしょう。
独身でいることはつらい、しかし、結婚したらもっとつらい、離婚したら楽になるかもしれない
と思ったが、やはりつらい。
子供がいなければと思っても、子供がいないこともつらいし、いることもつらい、
結局は地獄を味わっているような人たちがたくさんいらっしゃいます。
しかし、死んではいけません。  

生きるということは大きな重荷に感じることがあります。
できたらもう放棄したいと思うようなことが人生の中にはたびたびあると思いますが、
死んではいけません。
主イエス・キリスト様は、今も言われます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイ11:28)
休ませてあげようというのは、新しいいのちを与えましょうという意味でもあります。  

そして、私たちのいのちは神様からのものであって、実は生かされているのだ
ということを知る必要があります。
たとえあなたがどんな状況であっても生かされているということは、神様からの使命が
与えられているということなのです。
どうぞ、死なないでください。  

みなさん、イエスさまは「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」(マタイ12:20)、
お方です。
「いたんだ葦」それは「いためられた葦」、とも訳すことができることばです。
いためられ、傷つけられ…、そんな痛んだ葦など役に立たないでしょう。
捨てて焼いてしまおうか、踏んづけてしまおうか。しかし、イエスさまは、傷つけられた葦、
いたんだ葦を折ることがありません。
また、くすぶっている燈芯なんて煙たくて迷惑なだけです。
しかし、イエス様は消してしまいなさいとは決しておっしゃらないのです。
もし、あなたが何もできずどんなに迷惑をかけるような存在だったとしても、
会社を首になるような存在だったとしても、家庭で家族から産業廃棄物などと言われても、
また受験に失敗したり、落第するような存在だったとしても、
イエスさまはいたんだ葦を折ることがなく、くすぶっている燈芯を消すことがないお方です。  

イエス様の優しさ、本物の優しさは、人を変え、人を生かします。
学問や知識をどんなに積んでも、技術がどんなに高くても、人間の内側を直し、
心を変えることはできません。
私たちは、真の優しさ、神様の優しさをよく知る必要があります。
そして、どんな人でも落ち込むものですが、どうやってそこから立ち上がるか、それが重要です。  



T:エリヤも落ち込んだ
さて、今日、みなさんと読んだ個所に出てくるエリヤですが、エリヤのすることはすべて派手で、
大きな業、奇跡が伴いました。
エリヤは、強烈な預言者、偉大な、普通ではない、人並みはずれた人物です。
そして、颯爽と現われ、颯爽と去っていくどころか、竜巻に乗って天に上っていきました。
死を見ないで天に上げられたのですから、最後まで普通ではない預言者です。
また、新約聖書を読むと、なんとエリヤはモーセと共に山の上に現れて、イエス様と語り合った
こともあります。
しかし、そんなエリヤであっても私たちと同じ人間です(ヤコブ5:17)。
エリヤも落ち込んだことがありました。  

今、みなさんと読みました1列王記19:1-2を見ますと
「アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らず
イゼベルに告げた。
すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。『もしも私が、あすの今ごろまでに、
あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、
神々がこの私を幾重にも罰せられるように。』」

みなさん、これがエリヤの落ち込みの原因となっています。
ここに登場するアハブは北イスラエル王国の王様で、その奥さんがイゼベルです。
王様アハブとイゼベルはイスラエルの民を迷わせて偶像礼拝の罪に陥らせました。

  今日の個所の少し前を読みますと、主なるまことの神様は預言者エリヤを、
偽りの神バアルに仕える預言者たちと対決させました。
バアルの預言者たちは総勢450人(アシェルの預言者を含めると850人)、
主なる神様の預言者はエリヤ1人だけでした。
しかし、主はそこでエリヤに大勝利を与えました。
そしてエリヤは、バアルの預言者たちを一人残らず皆殺しにしました。
ものすごい出来事です。  

王様アハブがそのことを奥さんのイゼベルに話すと、イゼベルは怒って「私がエリヤを殺す」
と言います。
エリヤはイゼベルが送った使者の言葉を聞いて、恐くなって落ち込み、うつ状態に
なっていきます。
たった1人のヒステリックな女性の言葉に、大預言者といわれた男エリヤが落ち込みを経験します。
バアルの預言者450人を倒し、大勝利を収めた直後のあのエリヤが落ち込みを経験します。

  3-4節 にはこうあります。「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。
ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりを
はいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。
『主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。』

驚いたことに大預言者エリヤでさえも、落ち込んで自分の死を願ったことがありました。
エリヤは自分のいのちを救うために立ち去ったはずなのですが、しかしその後、
えにしだの木の下に座り死ぬことを願っています。
この大預言者エリヤが落ち込んでしまった状態から、私たちは多くのことを学ぶことができます。  

まず、第一に、エリヤは自分の状況を客観的に考えることができなくなってしまっていました。
神様がエリヤと共にいたから様々なことが起きたのに、それを見ることができず、
今、自分を脅かしているイゼベルしか見ることができなくなってしまっていました。  
例えば、こんな10円玉でも目の前に持ってきたらそれ以外何も見えなくなってしまいます。
光もみえなくなってしまいます。
でも、目から離せばまわりの状況がよく見えてきます。この会堂の一番奥に座っていらっしゃる方は、
この10円玉なんてきっと小さすぎてよく見えないでしょう)
エリヤは自分が置かれている立場、主なる神さまが共におられるということがどんなに素晴らしい
ことなのか、客観的に見ることができなくなっていました。
自分が気になることしか見えなくなってしまっていたのです。

  第二番目に、エリヤは一人きりになってしまったということです。
落ち込むと孤独になりやすいというか、落ち込みつつある時には、大体がひとりになりたくなるものです。
そして、実は一人になることによって落ち込みは余計ひどくなってしまいます。
一人になるとさらに物事を深刻に考えてしまい、そのうちに主が共にいてくださるということも
認められず、また主を拒むようにさえなってしまうことがあります。
そして、自分は本当に一人ぼっちだと思うようになり、さらに、「誰も自分には関わらないでほしい」、
という状況に自分を置いてしまうんです。

  第三番目に、落ち込みは往々にして大きな成果を治めた後、大きな勝利を経験した後、
事を成し遂げた後にくることが多いということです。
人間が最も弱い時とは、それは何かを成し遂げたときであると言います。
「自分もなかなかじゃないか、自分もまんざらではない」と思う時こそ、実は弱さが出てきやすい
ものです。
これは肉体的にも、精神的にも、霊的にも言えることです。
大きな勝利を治め、成功するには、人は実に大きなエネルギーを必要とします。

  第1列王記の17、18章を読むと、エリヤはケリテ川に身を隠し、カラスに養われ、
ツァレファテの未亡人の死んだ子供を生き返らせました。
そして、王様アハブに進言し、バアルの預言者450人と対決しました。
すると主の火が天から降ってきて、エリヤは勝利しました。
また、その時、雨が降らない干ばつがずっと続いていたのですが、エリヤは激しい雨が降る
と宣言します。するとその通りやがて激しい大雨が降ってきました。
王様アハブはそれを見て、エリヤの神は生ける本物の神だと知らされて、
びっくりして、宮殿に車で帰ります。当時の車とは馬車のことです。
すると、神様から特別な力をいただいたエリヤは、驚いたことにその王様が乗っている車よりも
はやく走って追い越して、イズレエルの宮殿の入り口まで、王様の車の前を走っていったというのです。
破竹の勢い、破竹の進撃とはまさにこのことであり、奇跡に次ぐ奇跡、勝利に継ぐ勝利です。  

しかし、そんなエリヤといえども人間です。彼は肉体的にも精神的にも全エネルギーを使い果たして
いました。
主に用いられることは嬉しいことですが、しかし、どんなにハードな仕事をしても疲れないとか、
食事も睡眠も取らなくて大丈夫とか、そういうことはありません。
私たちは、何かを成し終えたとき、何かができたと思った時、そのためにどれだけ多くの
エネルギーを消耗したかを知っておかなければなりません。
気力がなくなってきた時は要注意です。
そんな時、私たちの内にある弱さが表面に出てきます。
そして、それを放っておくと、落ち込みや、大きな過ちにつながっていきます。  

第四番目に、人は落ち込んだときに、自己憐憫に陥るということです。
自己憐憫というのは、「私は何とかわいそうな人だ。私ほど不幸な人はいない。
何で私だけがこんな目に…」というそういう状態です。
自己憐憫に陥ったエリヤは、死ぬことを願いました。エリヤは死にたいと思いました。  
こう思うにはいくつかの段階があります。
まずやたらにひとつのことに執着する、こだわるということが起きてきます。
以前のエリヤならば、イゼベルの脅迫に対して、「やれるものならば、やってみろ。
主が私と共におられるのだ。」と言ったことでしょう。
しかし、エリヤはイゼベルに捕まったわけでもないし、イゼベルなんか目の前にいやしないのに…
 イゼベルの「明日までに殺さずにはおかない。」という言葉にこだわりつづけて、
それが頭から離れなくなってしまったのです。
その圧迫感が重くのしかかり続けると、その人は必ず憂鬱(ゆううつ)になります。
  憂鬱になると考えることは否定的になり、何をする気もなくなってきます。
そして、人は死を考えるようになります。
自分が死んでしまえば、すべてのことが解決するだろうと思え、生きる事をやめてしまえば、
こんな苦しみからも逃れられると考え始めます。
自分であることをやめてしまいたい、死んでしまいたいというのが自己放棄です。
クリスチャンであってもそういうことが起きてくることがあります。
  ですから執着してしまっていることがある人はその段階で神様に真剣に向かい合って
祈ることが大切です。
どうしても祈れない状態のときには、気の合う友達とスポーツをしたり、温泉にでも行く、
というのも、とても重要なことです。
そして心が開かれてきたら、何でも話せる兄弟姉妹に会って話すとか、祈ってもらうとか、
具体的に他の人にも助けていただいて脱却を図りましょう。
エリヤのように死を願うようになる前に、そうすべきです。

  私は10年くらい前に大きな失敗をしてしまった時、私の友人、その友人はアメリカの教会から
日本に遣わされている宣教師なのですが、彼は私を毎週のように山歩きに連れて行きました。
毎週のように奥多摩の山の中を、彼と語り合いながら歩きました。そういう中で、私はどうしようも
ない失望感から立ち直ることができたのです。

  そして第五番目は、私たちが落ち込む時、勝手に自分で高い基準を持ち出し、
自分は価値のない人間だと思いこむことがあります。
エリヤは「私は先祖たちにまさる者ではない」と言っています。
何故、先祖たちと自分を比較しなければならないのでしょうか。
エリヤは、イスラエルの歴史の中に現われた、偉大な指導者、預言者と自分を比べて、
「私はこんなことに耐えられる者ではありません。まさる者ではありません。だから殺してください。」
と言っているのです。
誰かのようではないと自分を責める、比較をする、基準を高く上げて、自分はそれにふさわしくない、
適していない、と思ってしまうのです。
神様は決してそうは見ておられないのに、神様は決してそのようにおっしゃってはおられないのに、
自分は価値がない、無駄だと思いこんでしまうことがあります。
人は落ち込んでしまった時に、それをしてしまいます。
高い基準を掲げて、それに到達していない自分を見て、自己嫌悪に陥り、やがて自己放棄を
願うようになってしまいます。



U:神様による取り扱い、いやし
それでは、神様がエリヤになさった「いやし」の方法を見てみましょう。
神様はエリヤが疲れ果てていることをご存知でした。
戦いの連続の中で、エネルギーを消耗し尽くしていることを知っておられました。
そこで、5-8節 「彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが
彼にさわって、『起きて、食べなさい。』と言った。
彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、

水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。
それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、『起きて、食べなさい。

旅はまだ遠いのだから。』と言った。
そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、

歩いて神の山ホレブに着いた。」  

ボロボロになっていたエリヤに、神様は御使いを送りました。
そしてまず第一に与えたのは、栄養のある食べ物です。
食事をおろそかにして栄養のバランスが崩れると、人は精神的にも不安定になってしまいます。
当たり前のことですが食事をしっかり取るということは大切です。  

また御使いは2度来て、2回ともエリヤに「さわった」と書いてあります。
人が落ちこんだ時に必要なのは、やはり自分に対する個人的な関心を示されることであり、
スキンシップであり、ふれあいです。
御使いはエリヤの肩に手を置いたのかもしれません。あるいはエリヤの肩を抱いたのかも
しれません。  

昔、こんな歌がありました「ふれあい」という歌ですが、
「慰めも涙もいらないさ、ぬくもりがほしいだけ。人はみなひとりでは生きていけないものだから。
何気ない心のふれあいが、しあわせを連れてくる。ひとはみなひとりでは生きていけないものだから。」
これは中村雅俊さんが歌った歌で、男女の恋愛を歌った曲かもしれませんが、
やはり人はひとりでは生きてはいけないものであり、ふれあいを求めています。
「御使いが彼にさわって、『起きて、食べなさい。』と言った。…主の使いがもう一度戻って来て、
彼にさわり、『起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。』
と言った。」  
エリヤは休息し、起きて、食べ、また休息して、起きて食べ、飲み、そして回復していきます。
栄養と休息はやはりとても重要です。
私たちは落ち込むことから自分を守るために、疲労をため過ぎない知恵が必要です。
そのためには、優先順位をきちんとつけておかなければなりません。  

私たちにはすべきこと、したいこと、した方が良いことと様々あります。
それらすべてをしようとすると、確実に落ち込みへの道を進んでしまいます。
すべての人に、一日は24時間しかなく、一週間は7日間しかありません。
その中で、優先順位の第一番目は、神様との関係です。
これを第一としないと、簡単に精神的に不安定な状態を招くでしょう。
第二に家族との関係です。そして第三に、自分が果たさなければならない仕事です。
そして後の順位は、各自で順番をつけて、残った時間をどのように割り当てるか考えましょう。

  聖書的優先順位とは、まず自分と神様との関係、自分と家族との関係、そして自分と仕事の関係
という順になります。
これは必ずしも使う時間の長さを意味しません。心を使う順位です。
これを間違えると、人は気力を失ったり、精神的疲労を抱えることになります。  

さて、8節を見ると、エリヤは休息し、御使いに触れられて、起きて食べて飲んで体力を回復し、
40日40夜歩くことができるほどにまでなりました。
ホレブという山に着いたエリヤは、ほら穴に入り、というかそこに隠れて、そこで一夜を過ごします。
ホレブの山というのは、別名をシナイ山といいます。
かつてあのモーセはイスラエルをエジプトから脱出させた後、その山、シナイ山すなわちホレブの山で
主から十戒をいただきました。
モーセはその後、自分の使命を放棄したくなってモーセも「死ぬことを願った」ことがあります。
しかし、主はモーセを助けて、モーセは良き指導者として成長していきます。
主はこのホレブの山でエリヤにそのことを思い出させようとしたのでしょう。  

主はエリヤに語りかけられました。
「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられました。
ここで神様による取り扱いが始まります。
神様は、落ちこみの中にいたエリヤに対して、「何をしているんだ、だらしないね、預言者のくせに」
とは言いませんでした。
神様はこの時、エリヤを叱責しませんでした。
エリヤの態度は良くないとか、そんな考え方は悪いとか責める言葉を語りません。
神様は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と問い掛けただけです。  

それに対してエリヤは10節で「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。
しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、
あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、
彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」
と答えます。というか、これは答えになっていません。
エリヤは、じぶんが熱心に主に仕えてきたことを言いたて、それなのにイスラエルの人々は
まったくわかってくれず、主を捨てていると怒り、また自分のいのちが狙われていることを嘆きました。  

すると11節、主は「外に出て、山の上で主の前に立ちなさい」と言われました。
ところが、エリヤは出ていこうとしません。
「すると、そのとき、主が通り過ぎられ、激しい風が吹き、山や岩が崩れた。
しかしその中に主はおられなかった。
次に地震が起きた。しかし、そこにも主はおられなかった。

地震の後には火があり火の中にも主はおられなかった。
そしてこのようなものすごい出来事が続いて起きた後に、かすかな細い声があった。」


  主はエリヤの心を主に向けさせるために、天変地異を起こしました。
エリヤはほら穴の中の奥のほうからその光景を見てびっくりして、主は圧倒的な力を持つお方で
あることを実感したでしょう。
エリヤはこの天変地異の中に主がおられると思いましたが、そこに主はおられませんでした。
エリヤの心が主に向き、主を捜し求めるようになると、かすかな細い声、主の声が聞こえてきました。
そのときエリヤは、天地を創られた圧倒的な力を持つ神、主が、エリヤを愛してくださっている
ことを実感します。
するとエリヤはすぐに外套で顔を覆い、外に出て、ほら穴の入り口に立ちました。
外套で顔を覆って出てきたのは、人が神の姿をまともに見たら死んでしまうからです。
エリヤはこの時点で、もう死ぬことを願っていません。

  みなさん、私たちひとりひとりも、主からものすごく愛されています。
映画パッションを見たでしょうか。神は私たちのためにご自分の御子キリストを十字架につけられた
ほど、主は私たちを愛しておられます。
みなさん、イエスさまという高価この上ない代価が支払われて、私たちは救われ、
神のこどもとなったのです。
このことを知れば知るほど、主に従いたくなります。

  ほら穴から出てきたエリヤに主がもう一度声をかけました「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
しかし、14節を見ますと、エリヤはまた同じことを、まったく同じことを繰り返して言っています。
落ち込んだ人というのは、くどくなります。
私は以前、同じ愚痴ばかりを言う、そういうくどい人は嫌だと思っていました。
それをやめさせることが回復への近道だと思っていました。
しかし、うつ状態になっている人は何度でも同じ愚痴を聞いてもらい、自分の訴えを聞いて
もらううちに回復を経験するということを知ってからは、考え方を改めました。

  主は、うつ状態になってしまっているエリヤが、前とまったく同じ愚痴を語った時、
「エリヤ、お前、くどい!」などとは言わず、それに付き合うのです。
そして、エリヤの内にあるものを、吐き出させました。
私たちは自分自身の中にある愚痴を神様に申し上げることが赦されています。
愚痴を、申し上げることの中で主は語りかけを与えてくださいます。
それは自分の状態を自分で見い出すように導く主のやさしい語りかけです。
ですから、私たちは神に、自分の心の中にあることを、吐き出すべきです。  

その中で語りかけられ、心に触れられ、自分がどれほど愚かな考え方、つまらない考え方、
愚かな感じ方をしていたかがわかってきます。
聖霊さまはそれを助け、教えてくれます。
主は、最高のカウンセラー、英語の聖書を読むと、ワンダフル・カウンセラーであるとかかれています。
そのようにして、わかってきたならば、主は私たちに新しくすべきことを教えてくださいます。



  V:回復の時
主は次にすべきことを指示しました。
15-16節「主は彼に仰せられた。『さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、
ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフーに油をそそいで、
イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、
あなたに代わる預言者とせよ。』」
  主は落ち込みの中にいたエリヤに休息と食べ物を与え、
カウンセリングをして、新しい任務を与えてくださいました。
落ち込みから完全に立ち直るためには、自分の向かうべきものが明らかになる必要があります。
新しい務めが与えられ、それに向かって立ちあがるなら私たちは完全に立ち直ったのです。  

主は「私の目には、あなたは高価で尊い」と言われました。
また、「わたしがあなたを選んだ」と言われました。
主は、はっきりと目的をもって私たちひとりひとりを選んでいるのですから、
あなたにだけにしかできない務めを与えてくださいます。
エリヤを選び、新しい務めに向かわせた主は、私たちをも選んでくださいました。
イエス様を信じる信仰が与えられて、救われた者はみな、主によって選ばれたものなのです。
私たちを選んでくださった主は、私たちの弱いところ、欠点もすべてご存知の上で、
選んでくださり、使命を与えて、使命に生きるようにさせてくださいます。

  エリヤに与えられた新しい任務は、新しい王様を選ぶことと、自分の後継者に油を注ぐことでした。
これはエリヤにしかできないことでした。
人にはそれぞれ、その人にしかできないことが与えられます。
しかし私たちには自分にしかできない務めが与えられていることを忘れると、誰かと比較を
はじめてしまうものです。
私はあの人のようではないから、私にはあれがないから、と、これは私たちを再び落ち込みの中に
連れ戻します。
また、ある時には他の人が、誰かとあなたのことを比べるかもしれません。
しかし、私たちは比較によって価値というものは生じないということを、心に刻んでおく必要があります。
たとえ、今はまだ明確ではなかったとしても、私たちはそれぞれに、神様から与えられた務めが
あることをしっかりと覚えておきましょう。

  自分にしかできないこと、自分だけに与えられている例として…、
例えばこの中でお子さんがおられる方は、そのお子さんにとって父であり、母であるのは、
その子供の親であるあなただけです。
そして、自分の子供の父として、母としてしかできないことがあります。
同様に様々な環境の中で、あなたにしかできないことが与えられていることを発見してほしい
と願います。

  神様を知っているならば、この自分に与えられている任務、使命が必ずわかってきます。
逆に神様を知らないということは、自分が生きていくための目標や、自分が生きていくために
与えられている賜物や、任務、使命を知らないということになります。
神様が自分に与えてくださった人生の務めということを知らないので、いつも人と比較しながらしか
生きていけないのです。
みなさん、人はすべて全員、神から与えられた大切な任務があります。
その使命に生きるならば、人と比較する必要はありませんし、この世の評価に左右される
必要もありません。


さて、みなさん、エリヤの落ち込みですが、落ち込むことが問題なのではありません。
そこから立ち直れなくなってしまうことが問題なのです。  
私たちは落ち込むことがあるでしょう、どうにもならない弱さもあるでしょう、
失敗を経験することもあるでしょう。
しかし、「あなたは立ち直ることができる」ということが、神のメッセージです。
私たちが、自分の弱さや失敗を反省して、悔やんでいるだけならば、一生私たちは
そうし続けるでしょう。
しかし、主の細き御声を聞いて、主の御前に出て行くならば、主はその人を立ち上がらせます。
力を与えてくださいます。

  列王記第一の22章を見ると、エリヤは、その後、王様アハブ、イゼベルに対して正面から
立ち向かっています。
エリヤは強くなり、力を回復しました。堂々としています。
ほら穴の中に身を隠していた同じ人物とは思えないほどです。
そして、私たちにも神様は同様の勇気と力を与えてくださいます。  
エリヤは強くなり、もはやアハブやイゼベルなどは問題ではなくなっていました。
神様の御前にへりくだって進み出ていく時に、私たちも立ち直ることができます。



結び:イエス様の祈り
私はエリヤのこの一連の出来事を読んで、新約聖書のペテロを思い出しました。
福音書を読むと、ペテロはイエス様に向かって「みんながあなたにつまずき、あなたから
離れ去っても、私は従います。たとえ死ぬようなことがあったとしてもです。」と言いました。
こう言い切ったペテロにイエス様は「あなたは、今夜、鶏が鳴く前に三度私を知らないと言います」
と言われました。
そして、実際、イエス様が言ったとおりになってしまいました。
祭司長やパリサイ人から送られた役人や兵隊によってイエス様が捕まった時、
ペテロは「あなたも、イエス様の仲間だろう」と言わます。
すると、ペテロは「イエスなんて知らない」と3回も否定して、裏切ってしまったのです。
そしてイエス様は十字架へと向かっていきました。  

しかし、イエス様は、その前にあらかじめ「あなたの信仰がなくならないように」とペテロのために
祈っておられたのです。
そして、「あなたが立ち直った時には、あなたの兄弟を力づけてあげなさい」と言われました。

  イエス様の十字架の出来事の後、ペテロはすっかりしおれて、ガリラヤの湖に戻ていきました。
しかし、復活したイエス様は、ボロボロになっていたペテロに現れてくださり、
イエス様が朝ごはんまで整えてくださり、食事を共にしてくださったのです。
その時、イエス様はペテロの弱さや失敗を叱責しませんでした。
復活されたイエス様が、ペテロに言われたことばは、「あなたは、私を愛しますか」、
ただこれだけでした。  

そしてやがてペテロも回復して、「使徒の働き」の中で、初代教会の中で素晴らしい働きを
するようになっていきます。  

みなさん、ルカ22:31-32を、お開きください(新約149頁)。
みなさんと一緒に読みましょう。
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って
聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

みなさん、これは私たち向かって語られたことばでもあります。
イエス様は私たちが立ち直るように祈り、信仰がなくならないように祈ってくださっています。
そして使命も与えてくださっています。


それではみなさん、しばらく、御霊によって、自由にお祈りしましょう。いっしょに祈りましょう。  



<祈り

私たちは人生の暗いトンネルを通らなければならないことがあります。
先がよく見えませんから、つまづきます。不安ですから、ゆっくり歩かなければなりません。
何が飛び出してくるかわからず、気味が悪いです。
トンネルがどれくらい長いのか見当がつかないことがあります。
しかし、トンネルには必ず出口があります。入口があるのですから出口があります。
あなたは、トンネルの中に入ったままで終わることはありません。
さらに、トンネルを通る時には不安ですから、主よあなたにより頼むようになります。
祈らざるを得なくなります。
そして、実はトンネルは目的地までの距離が短縮されることを私たちは知っています。
トンネルは海や山のような通行不可能な場所につくられているからです。
そして、トンネルを抜け出た時の喜びは、解放感にあふれています。
飼い主、主よ、私たちを導いてください。
私たちを助け導き解放し、恵みを注いでくださることを感謝します。
主の御名をほめたたえます!



<救いへの招き、祈り>
今日、まだクリスチャンでない方で、私もイエス様を信じて救われたいという方が
おられましたらどうぞ手をあげてください。その方のためにお祈りします。
まだクリスチャンでない方で、私にもイエス様が必要だと言う方がおられましたら、
どうぞ手をあげてください、その方のために祈ります。
感謝します。主の御名をほめたたえます。
それではどうぞ私に続いてお祈りしてください。

  「イエス様、私はあなたを必要としています。私の罪のために身代わりとなって
十字架で死んでくださり、ありがとうございます。そして3日後に復活されたことをほめたたえます。
私は今、イエス様あなたを、私の救い主、人生の導き手として受け入れます。
イエス様、今、私の心にお入りください。
イエス様、あなたを信じます。
あなたが私のすべての罪を赦してくださり、永遠のいのちをあたえてくださり、
神様の子どもとしてくださり、救ってくださったことをありがとうございます。
イエス様、私の心の中心で私を導き、あなたの望むような者に、私を変えてくださることを感謝します。
 イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」  

それでは、みなさん、イエス様を信じておられますね。


  それでは、いやしの祈り、解放のいのりをしましょう! 
<いやし、解放のミニストリー>

 

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