2003年6月29日 聖日礼拝 平石太朗牧師
「パウロからの最後の手紙」
(テモテへの手紙 第二 1章1節〜14節)
テモテへの手紙第二の1章1節から14節をみなさんと交互に交読しましょう。
「1:1
神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、
キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
1:2
愛する子テモテへ。父なる神および私たちの主キリスト・イエスから、
恵みとあわれみと平安がありますように。
1:3
私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、
先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。
1:4
私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、
喜びに満たされたいと願っています。
1:5
私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。
そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、
それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。
1:6
それですから、私はあなたに注意したいのです。
私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。
1:7
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
1:8
ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを
恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。
1:9
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、
それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。
この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、
1:10
それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。
キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。
1:11
私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。
1:12
そのために、私はこのような苦しみにも会っています。
しかし、私はそれを恥とは思っていません。
というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、
かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。
1:13
あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、
私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。
1:14
そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。 」
この手紙は、パウロがローマの牢獄からテモテに宛てて書いた手紙です。
テモテはエペソという現在のトルコにある町にいました。
テモテはパウロをまるで自分の父親のように慕って、パウロから多くのことを学び、
福音を宣べ伝える働きをしていました。
しかし、使徒パウロはこの手紙を書いている時、自分がキリストのために迫害されて殺される日が
目前に迫っていることを知っていました。
この手紙の終りが近づくと、パウロは「私が世を去るときはすでに来ました」と書き記しています。
これはそういう緊迫した状況の中で書かれた、パウロの絶筆となった「パウロの最後の手紙」です。
とても重要なことが凝縮されている書物です。
自分の死が近いたことをはっきりと知ったパウロは、テモテが勇敢に福音を宣べ伝えるように
激励しています。
信仰の戦いを戦い抜き、信仰を貫いて、走るべき道を走り抜くように励ましています。
そしてみなさん、これは時代を超えて、ここにいる私たちひとりひとりへの励ましでもあるのです。
ああ主よ、どうぞロゴスをレーマとしてくださいますように
T:純粋な信仰
5節を見ますと、パウロは祈りの中で、テモテの純粋な信仰を思い起こしています。
パウロが伝道している時に、まずテモテのお祖母さんとお母さんが救われ、
そしてテモテが救われ、この3人とも純粋な信仰を持っていました。
そしてテモテはパウロの同労者となったのです。
ところで、このテモテと対照的な人物、デマスという人がこのテモテへの手紙第二の4章10節に
出てきます。
パウロは、テモテに何とかして私のところに会いに来てほしいと書いた後、デマスについて、
デマスは今の世を愛し、私を捨てて去ってしまったと記しています。
このデマスという人物を覚えている方はあまりいないでしょう。
デマスはあまり知られている存在ではありません。
デマスという人物の印象は、「え、そんな人いたっけ?」、というごく薄いものです。
しかし、重要な人物なのです。
聖書の中に、この存在感の薄いデマスは、実は3回登場します。
最初に彼の存在が聖書の中に出てくるのは、パウロのピレモンへの手紙の中です。
そこでパウロは、デマスについて、「私の同労者である」と言っています。
それは、「デマスと私パウロは、同じくびきをつけられて一緒に畑を耕す者で、毎日、毎日、
一緒に仕事をしているのです」ということです。
すなわち「デマスはわたしの協力者です。デマスは頼り甲斐のある人物です。わたしと一緒に働き、
人々にイエス様の福音を宣べ伝えている人です。デマスは
わたしの親友です。
彼はわたしの兄弟です。デマスはわたしを助けてくれています。」とパウロは言っているわけです。
そして、パウロはそれから数ヶ月後、コロサイ人への手紙を書きました。
コロサイ人への手紙の中でパウロは、デマスについて、「デマスがよろしくと言っています」
とだけ書いています。
デマスについて同労者とか協力者という言葉はなくなっているのです。
さらにそれから数年後、パウロはこのテモテへの手紙第二の4章に「デマスは今の世を愛し、
私を捨てて去ってしまいました。
この世を愛して離れて行ってしまいました。」と書いています。
すなわち「主イエス様を愛して仕える歩みから離れてしまいました。」ということです(ヤコブ4:4、
Tヨハネ2:15)。
デマスは、最初パウロから「同労者、協力者」と呼ばれていましたが、やがてそうは呼ばれなくなり、
数年後、「この世を愛して去って行ってしまいました」、と書かれているのです。
デマスは、徐々に信仰が後退していきました。
テモテとデマスの違いは何だったのでしょうか。
テモテは純粋な信仰を持っていました。それはどういうことかというと、イエス様中心の生活を
送っていたということです。
徹底的に神様中心ということです。人からの評価よりも神様の御前に自分はどう生きているか、
ということを常に大切にしていました。
そして何をするにもまず祈り、自分の悟りに頼らず神様に頼り、神様を愛していました。
しかし、デマスは、最初はイエス様中心だったのですが、やがてそうではなくなり、
この世に引かれていきました。お金や名誉に心を引かれたのでしょう。
デマスという名前は「人気者」という意味です。この名前の意味を語源とする英語は
「democracy(デモクラシー)」です。「民主主義」、「民主的」ということです。
私たちは民主主義という言葉は素晴らしいと無条件に感じてしまいます。
しかし、民主という言葉はよく考えてみると民が主であると書き、人間中心であることを示しています。
民主主義はどんなに素晴らしくても、完璧ではありません。
なぜならば神様を主としていないのです。神様が中心ではないからです。
「デマス」という名前は「人気」や「人民の」という意味であり、デマスは人気者でした。
人からの好意や評価を受けることそのこと自体は別に良いのですが、デマスは人々から好意を
受けることばかり、人からの評価を受けることばかり考えていました。そのことが心の中心にありました。
人々に馴染んで、仲間外れになりたくないと思っていました。
しかし、これによってデマスはこの世を愛するようになったのです。
何よりもこの世、この地上での人生が本当に好きだったのです。
みなさん、私たちはどうでしょうか。「私はテモテのように純粋な信仰が宿っている」と断言できる
人がいたら、それは素晴らしいことです。主に感謝しましょう。
しかし、私たちの多くは、デマスのことは決して他人事ではないのです。
イエス様中心の生活をしているつもりなのですが、知らず知らずのうちに聖書に書かれている
きよい生活よりもこの世のライフスタイルに魅力を感じたり…、
聖書のみことばよりもこの世のやり方に心が引かれてしまう弱さがあります。
神様よりも人の評価ばかりが気になって、そして人間中心、やがて自己中心に陥ってしまいやすい
そういう弱さがあります。
また、口では「神様を第一としています」と信仰の宣言するのですが、
しかし行動が「神様第一ではありません」と言っているのです。
教会堂の中で「すべてを捨てて従いまつらん」と手を上げて主を讃美するのですが、
教会から1歩外に出ると、いや教会の中でさえも、すべてを主にささげて従うことなどしていないのです。
さらに悪いことにそういうところに、レベルの高い悪霊が悪霊だとわからないやり方で
たかってきて私たちを惑わそうとします。
ヤコブはヤコブの手紙の中で私たちクリスチャンに向けて痛烈なことを書いています。
『「…行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。
私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。
ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
…あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
…行ないのない信仰は、死んでいるのです。」』(ヤコブ2:18-26)と、こう書かれています。
私たちは悔い改める点があるならば、すぐに悔い改め、聖霊様に助けていただいて、
神様を愛し、みことばを実践することができるように、聖霊様を歓迎しましょう。
実は、一番あぶないのは、「いや私は大丈夫だ。私はそんなデマスみたいにはならない。
だって聖書知識もいっぱいあるし、献金だってたくさんしているし、それに時々断食だってやってる。
だから大丈夫、私には問題はない。」と思っている方です。
私たちはたとえとても良い状況にあっても、すべてがうまくいっている状況の中にあっても、
まったく問題がないということはありえません。
そして自分には問題がない、とずっとごまかし続けていると、やがて神様に心を開いて
悔い改めようと思っても、なかなか悔い改めることが出来ないという状態が起きてきます。
箴言28:13に「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者は
あわれみを受ける。幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。
しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。」とあります。
ある時パリサイ人たちや律法学者たちはイエス様の弟子たちに向かって
「なぜ、イエス様はあんな取税人や罪人たちなんかといっしょに食事をするのか。」と質問しました。
するとイエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と答えました(マルコ2:16-17)。
これは、実はまずパリサイ人や律法学者に向けられている言葉です。
どういうことかと言いますと、「ここに病人なのに自分は健康だと言い張る人がいて
私に助けを求めない人がいる。
ここに罪を犯しているのに自分はまったく正しいと思いこんでいる人がいて
わたしのみことばを聞こうともしないし、悔い改める気もまったくない人がいる」と
イエス様は言っておられるのです。
彼らはここでイエス様に助けを求め悔い改めるべきでした。
そうすればいやされ、罪が赦され、救われていたのです。
しかし残念なことに、心のかたくなな彼らはこういったやり取りの直後、
イエス様を殺すための相談を始めました。
彼らは最悪の状態に陥っていきました。悲しいことです。
さて、みなさん、テモテの純粋な信仰についてですが…
それは自分の弱さをよく知っている人が、自分の悟りに頼らず、心を尽くして主に拠り頼み、
全面的に神様に頼っていくならば、そこにこそ純粋な信仰が宿るのです。
しかし「自分は大丈夫だ、問題などない」、と思っている人は、神様に頼ることをしなくなり、
それが落とし穴になってしまう危険性があるのです。
私たちは自分の弱さ足りなさを知り、自分の力で頑張っても神様に従うことが出来ない、
しかし本気で神様を愛して神様に従いたいという真の願いを持って祈っているなら…
聖霊様は力を豊かに与えてくださいます。これが新約時代の、今の私たちの時代の、大きな恵みです。
聖霊さまの力によって神様のみことば、聖書にかかれていることを行うことができるようになるのです。
「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、
罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」ローマ8:2
そして、ヘブル4:15-16「私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方では
ありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、
おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
みなさん、アーメンでしょうか。
ところでみなさん、デマスのことですがその後どうなったのでしょうか。
はっきりと書かれているわけではありませんがヨハネが書いた手紙の中にデマスらしき人が
主に立ち返っていることが書かれているのです。
U:聖霊様は、力、愛、慎みの霊
次に、第二テモテ1章6節から8節を見ますと、パウロはテモテを激励し、
「神の賜物を再び燃え立たせよ」と注意し、勧めています。
神の賜物というのは、牧師や伝道師だけではなくて、すべてのクリスチャンに与えられているものです。
これはまず御霊の賜物、すなわち、知恵のことば、知識のことば、信仰の賜物、いやしの賜物、
奇跡を行う力、預言、異言、異言を説き明かす力、霊を見分ける力です。
また、他にも神からの賜物はいろいろあります。聖書には、教える賜物、学んだことを実行に
移すように勧める賜物、人を助ける賜物、与える賜物、治める賜物、指導する賜物、慈善を行う賜物
などが書かれていますし、他にもたくさんあります。
ひとりでふたつみっつ、もっと与えられている人もいるかもしれません。
そして賜物がひとつもないなどという人はいません。全員、何か必ず与えられています。
いずれにせよ、それを燃え立たせるようにということです。
小岩教会は大きな教会ですがセル・チャーチ化を進めていることは素晴らしいことです。
それぞれのセル・グループは小人数なのでそれぞれの人が賜物を使わなければなりません。
それでみんなが賜物をいかすことができ、また新しい賜物を自分の中に発見するチャンスも多くなります。
イエス様が語られたタラントのたとえや、またミナのたとえからわかるように、
私たちはそれぞれ与えられている賜物をどう使うか、ということがとても重要なのです。
みなさん、イエス様を信じる信仰によって天国に入れる、救われる、これは素晴らしい事実です。
しかし天国に行った時の報酬の度合いはそれぞれ違ってくるということを聖書ははっきり語っています。
そしてその報酬は何で決まるかと言うと、今、この地上にいる間に私たちが神様から与えられている
賜物をどれだけ神様のために使ったかによって決まるのです。
ある人は「良くやった良いしもべだ」といわれ10の町を支配することになります。
ある人は5の町を治めます。
それが天国において具体的にどういうものであるのか、私たちには明らかにされていませんが、
確かに天国における報酬の度合いはそれぞれ違うのです。
「別にいいよギリギリで天国に入れればそれで良い」と言う方もいるかもしれませんが、
しかし天国で与えられる報いは、永遠ですよ。永遠に続くのです。
それはこの世みたいに一時的なものではありません。
ですから神様から「良いしもべだ」と言われるように、与えられている賜物を100%
使おうではありませんか。
勿論、これは決して人との競走ではありません。
人との競走になってしまうとイエス様は「あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」と
戒めておられるので気をつけましょう。
人との比較ではなくて、ひとりひとりそれぞれに与えられている賜物を神様のために100%
使うということです。
聖霊様はそのためにも与えられているのです。そして賜物は使えばさらに賜物が与えられます。
Uテモテ1:7ですが、「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、
力と愛と慎みとの霊です。」とあります。
私たちは人を恐れ、苦しみ疲れ果ててしまって、福音を伝えることにおくびょうになって
しまうこともあります。
テモテもそういうおくびょう風に吹かれてしまったのでしょう。
ところであの旧約の、勇敢な戦士であるヨシュアも、指導者モーセがいなくなって、
いざ約束の地カナンの地に入っていこうする時、何度も神様から「恐れるな、恐れるな」と
いわれています。
あの勇敢なヨシュアも大きな働きをする前にとてもおくびょうになってしまったのでしょう。
しかし、ヨシュアは神様からのみことば「わたしはあなたに命じたではないか。
強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。
あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)
というこのみことばを信じて前進して行きました。
「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」と箴言29:25にあります。
みなさん、クリスチャンに与えられている聖霊様は、おくびょうの霊ではありません。
私たちの生きかたは何かびくびくした生き方ではありません。
おくびょうの霊はそれは聖霊様ではありません。
今年の初めにいただいた小岩栄光キリスト教会の告白宣言文に
「マイナス意識、失敗意識、敗北意識、焦りや劣等感を放棄します!
暗い深刻そうな顔はもうしません、明るい笑顔、元気な信仰を持ちます!
良い意識、豊かな意識、成功意識、勝利的意識をもって前進して行きます!」と書かれています。
イエス様の御名によっておくびょうの霊を追い出して聖霊様を歓迎して、それを実践して行きましょう。
聖霊様は勇気の霊であり、聖霊様は力の霊です。
この力という言葉は、原文のギリシャ語を読むと、有名な言葉ですが「ドュナミス」と書かれています。
これは、ダイナマイトやダイナミックという言葉の語源となったことばです。
私たちは聖霊様のダイナマイトみたいな爆発的な力によって、ダイナミックに力強く生きる者です。
聖霊様は弱い者に力を与え大胆にすることができます。みなさん聖霊様を歓迎しましょう。
そしてこの力、「ドュナミス」ということばには奇跡という意味もあります。
イエス様は「信じる人々には次のようなしるしが伴います。
すなわち、わたしの名(イエス様の名前)によって悪霊を追い出し、
新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、
また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:17-18)と言われました。
私たち信じる者のうちにはたらく神様の爆発的な力によって奇跡は起こるのです。
私は昔、おくびょうであまりやらなかったのですが、ある時から大胆にイエス様の御名によって
聖書に書かれていることを実行するようになりました。
そうしたら、癌と痴呆であと半年と医者から言われていた人がすぐに退院して、
今1年半経って、元気で普通に生活しています。痴呆は完全にいやされています。
イエス様がいやしてくださったのです。
また悪霊に苦しめられていた人が悪霊から解放されたことがありました。
神様は奇跡を起こしてくださるお方です。
みなさん、私たちは病んでいる人が身近にいたらイエス様の御名によって大胆にいやしを
命じて祈りましょう。
また悪霊に縛られて苦しんでいる人がいたらイエス様の御名によって悪霊を追い出しましょう。
イエス様はこう言われました。
ルカ 10:19「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、
敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。
だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」アーメンでしょうか。
そして、聖霊様は力だけではなく、愛の霊です。「愛には恐れがありません。」(1ヨハネ4:18)
聖霊は愛の霊なのです。これこそ大切なことです。
「愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)
パウロは、コリント人への手紙の中で
「たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、
また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、
愛がないなら、何の値うちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、
また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。
…こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。」とパウロは言っています。
これはクリスチャンなら誰でも知っているみことばですが、愛は実践するとなると
私たちにとって一番難しいことです。しかし、愛することこそ大切なことなのです。
またイエス様は、隣人を愛しなさい、それだけでなく敵をも愛しなさいとおっしゃられました。
敵を愛するというのは人間の力では無理です、人間の愛によってはできないことです。
しかし、私たちが聖霊なる神様を歓迎するならば、聖霊様は愛の霊でもありますから、
敵をも愛することができるという神様からのものすごい愛を与えてくださるのです。
そしてまた、聖霊様は慎みの霊です。
これはひどく混乱した状況の中にあっても、心が騒いであわててしまうような状況に直面しても、
聖霊様は思慮分別、自制を与えてくださるお方であるということです。
8節を見ますと、パウロはローマの牢獄の中にいましたが自分はローマの囚人なのではなく、
主の囚人であると宣言しています。
それは、パウロは、私はキリストに徹底的に従っていることが理由でローマに捕えられて、
牢獄に入れられているのだから私のことを恥じてはいけない。
何か他の犯罪を犯して牢獄に入れられているわけではないのだから、
私のことを恥じてはいけない、ということです。
パウロは自分は主の囚人であって、自分がどんな状況にあろうともすべては主の御手の中にあり、
明日死刑に処せられても、あるいはしばらく生き長らえてもすべて主権は主イエス様にある
と宣言しているのです。
みなさんクリスチャンという言葉の意味は、「キリストに属する者」という意味です。
しかしもともとは、周りの人々がキリスト者に対してあざ笑ってつけたあだ名でした。
今で言えば、キリストキチガイとか、そういう意味です。
あいつらはいつもキリストのことばかり考えている、あいつらはキリストに心を奪われている
といった意味です。
私たちはそういうふうに言われたことはあるでしょうか。
私たちはクリスチャンのもともとの意味で呼ばれるような者でなければいけません。
そしてまたパウロは神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてくださいと言っています。
この力とは先ほどお話した「ドュナミス」です。
神様の爆発的なダイナミックな力によってパウロと同じように、困難に耐え、愛に生きよ、
福音を伝えよ、信仰を貫き通せ、と言っているのです。
V:恵みによる救いと福音宣教
さてUテモテ1:9-12を見ますと、私たちが救われてきよい信仰生活を送るように
導いてくださったのは、まったく主の計画と恵みであるということです。
エペソ1:4に「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、
御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」と書かれています。
また同じエペソ書に「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物(プレゼント)です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2:8-9)とあります。
そしてやがて、私たちはこのからだが滅びても、イエス様が復活された時に弟子たちに示された
あの不思議な体…
復活されたイエス様は物質に制限されることがなく戸が閉めてあった家の中に入ってきて、
パッと現われたり消えたりすることができ、ところが肉や骨もあり、食事をすることもできました…
あの不思議なイエス様の復活の体と似た栄光の体を私たちはいただける時が来るのです。
この「救い」に関しては、何か私たちが良い行いをしたからとか、難行苦行をしたからとか、
私たちに、能力があるからとか、そんなことはいっさい関係ありません。
私たちは神様からいただいたキリスト信仰…私たちの罪のために身代わりとなって十字架に
つけられて死に、3日後に復活された主イエスキリストを信じる信仰によって罪が赦され
義と認められて救われたのです。
私たちはみな神様の御前に出たら全員、本来、死刑宣告を受ける他に道はないそういう者でした。
聖書に、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)
と書かれている通りです。
しかし、聖書の別の個所には「…私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために
死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)
と書かれています。
みなさん、主なる神様は私たちを愛し、私たちが受けなければならなかった罪の罰と呪いを
すべてキリストが私たちの身代わりとなって十字架で受けてくださいました。
そして、神様は恵みによって私たちに、この神の御子イエスキリスト…神であり人であるキリストを
信じる信仰を与え、キリストを信じる私たちの罪を赦し義と認め(ただしいと認めて)、
救ってくださったのです。
今日、もしここにクリスチャンでない方がいましたら…
聖書には、こういうことが書かれています。「神は、すべての人が救われて、真理を知るように
なるのを望んでおられます。」(1テモテ2:4)、
「ただ、キリストイエスを信じる信仰によって義と認められる(義と認められるということは、
まことの神様から正しいと認められて救われるということです)」(ガラ2:16)、
また、「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が
義とみなされるのです。」(ロマ4:5)と聖書は語っています。
ただキリストを信じる信仰だけで救われるのです。罪が赦され義と認められ、
神様の子どもとされ、聖霊が与えられ、永遠のいのちが与えられ、天国に入る保証が与えられます。
やがて不思議な栄光の体が与えられる時も来ます。
そして、この地上においても、天国の前味とでも言うべき素晴らしい祝福を受け取って生きる、
新しい人生をスタートすることができるのです。
こんなうまい話、おいしい話しがあるのです。それがゴスペル、福音です。
そしてこの福音の実体というか福音の中心はイエス様ご自身なのです。
今日、もしクリスチャンでない方がいましたら、また初めて教会に来た方がいましたら、
またつきあいで来た方、バザーがあるから来てくださった方もいるかもしれません、…
どうか神様のこの恵みを今受け取ってください。
このイエス様を信じるならば、救われます。どうかイエス様を信じてください。
聖書はこう語っています「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Uコリ
6: 2)
そして、兄弟姉妹の皆さん。私たちはこの福音を恥とはしません。福音は信じるすべての人に
とって救いを得させる神の力です。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。」(Tコリ
1: 18)
兄弟姉妹の皆さん。イエス様は私たち全員にこの福音を宣べ伝える使命を与えました。
福音という言葉、これはギリシャ語で「ユーアンゲリオン」と言います。
私はこの福音、良き知らせ、「ユーアンゲリオン」というギリシャ語について調べている時に
面白いことを知りました。
昔、マラトンという場所で戦争があったのです。
激戦だったのですがギリシャが勝利してその戦勝報告を使者(伝令)が
マラトンからアテナイ(アテネ)に走って行って伝えました。
そして「私たちは勝った!」、「私たちは勝利した!」と人々に報告したのです。
しかしそこで、その使者は力尽きて倒れて死んでしまいました。
ここから今のマラソンという競技が生まれました。
まぁ、マラソンのことは余談でしたが、「ユーアンゲリオン」とは実は、「良き知らせ」という意味だけで
はなくて、それを「伝える」、「もたらす」という意味も含んでいるのです。
もとを辿ると、「喜びの訪れをもたらす」という意味があるのです。
すなわち福音は伝えなければ福音にはならないということです。
それはあるニュースがいくらいい話しでも、それを伝えなければ、
報道しなければニュースにはならないのと同じです。
福音は伝えた時に福音となる、素晴らしいイエス様のことを伝えた時に福音となるのです。
ですから私たちは、イエス様の救いを大胆に伝えて行こうではありませんか。
どんなひどい迫害にあっても最後までイエス様のことを伝え続けたパウロは
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)と言いました。
みなさん、福音宣教の使命は牧師や伝道師だけに与えられたものではありません。
クリスチャンは全員に福音宣教の召しが与えられています。
「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」(ロマ10:15口語訳)
みなさん世の終わりは近づいています。イエス様が再び戻ってこられる「かの日」、
再臨の時は近いのです。私たちはそれぞれ与えられている賜物を燃え立たせ、
人々の救いのためにますます祈り、それぞれが置かれているところで福音宣教をしていきましょう。
人と比較して私にはこれがないから、あれがないから、というのはやめましょう。
そうですね例えば、文章を書くのが苦手な人や、字が下手な人こそ、手紙を書くと用いられます。
この世の人は面白いもので、何だクリスチャンでもこんな下手な文章、下手な字を書くのかと言って、
何か優越感をもって、それじゃ今度の日曜日には教会にいってやるか、
なんて言って来てくださったりします。
また、口下手な人も、福音をどんどん語りましょう。どもったり、聞き取りにくいと、
相手はよく聞こうとして、一生懸命きいてくれますから。
「立て板に水」よりもよっぽどよく聞いてくれますよ、ホントに。
そして聞き取れなかったことがあったりすると、何を言いたかったのか、と思って気になって、
うちに帰って本棚でほこりを被っていたギデオンの聖書を開いてくれるかもしれません…
みなさん、「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、
信じる者を救おうと定められたのです。」(1コリ1:21)
たとえあなたのはたらきが、奉仕が、人にはぜんぜん目につかないことであっても
主は見ていてくださいます。主は覚えていてくださいます。
主の評価は人間の評価とは違います。かならず素晴らしい報いがあるのです。
結び:私たちのうちに宿る聖霊によって
みなさん、私たちは私たちの内に宿る聖霊様にもっともっと満ち溢れていただく必要があります。
聖霊様をますます歓迎して、聖霊様によって私たちの霊をもっと燃やしていただく必要があります。
今、この世の終わりが近づくにつれて、悪魔の攻撃は激しくなってきています。
サタンは、キリストの恵みの福音を曲解させて、何をやってもいいのだという放縦に変えてしまおう
としています。
しかし、主の恵みは、決して人を何をやってもいいのだという放縦に導いたりはしません。
主の恵みは人を悔い改めに導き、キリストに従うようにします。
また、悪魔悪霊は、人々の愛を冷やし、大勢の人々がつまづき、教会の中の愛もまったく冷えて
しまうように攻撃してきます。
クリスチャンでさえも悪霊の強い影響を受けてしまうことがあるそいう時代です。
みなさん、ガスコンロのことを思い浮かべてください。
ハエがとまれるのは冷たいガスコンロの上だけです。
そして冷たければハエはいつまでもとまっていられるのです。
でも火がついていたら、勢い良く燃えていたら、ハエは近づきません。
ですから、私たちは聖霊によって私たちの心を、私たちの人生を、
もっと燃やしていただく必要があります。
聖霊によって火をつけていただきましょう。燃やし続けていただきましょう。
そうすれば、うすぎたない悪霊は私たちに触れもしなくなります。
私たちは、霊に燃え、主に仕え、福音を宣べ伝え、信仰の戦いを戦い抜き、
望みを抱いて喜び、艱難に耐え、絶えず祈りに励み…
私たち全員が義の栄冠をいただけるように、御霊によって生きようではありませんか。
それでは、みなさん一緒にしばらくお祈りしましょう。
聖霊様によって私たちの心を燃やしていただきましょう。
聖霊様に、心の奥底を吟味していただいて、私は消えかかっていたという人は、
もう1度立ち返って、燃やしていただきましょう。燃やし続けていただきましょう!
<祈り>
<救いへの招き、祈り>
今日、まだクリスチャンでない方で、私もイエス様を信じて救われたいという方がおられましたら
どうぞ手をあげてください。その方のためにお祈りします。
感謝します。主の御名をほめたたえます。
それではどうぞ私に続いてお祈りしてください。
「イエス様、私はあなたを必要としています。私の罪のために身代わりとなって
十字架で死んでくださり、ありがとうございます。そして3日後に復活されたことをほめたたえます。
私は今、イエス様あなたを、私の救い主、人生の導き手として受け入れます。
イエス様、今、私の心にお入りください。
イエス様、あなたを信じます。
あなたが私のすべての罪を赦してくださり、永遠のいのちをあたえてくださり、
神様の子どもとしてくださり、救ってくださったことをありがとうございます。
イエス様、私の心の中心で私を導き、あなたの望むような者に、私を変えてくださることを感謝します。
イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
また使命に生きるために、いやしと解放の祈りもしましょう。
<いやし、解放のミニストリー>