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「記念館」からの出発
− 啄木・原敬・吉野作造 −
小 沢 芳 治
一二月の初め、東北の岩手県、宮城県にある三つの「人物」記念館に行ってきた。実は、この一、二年、吉野作造の中国・朝鮮論に関心をもつようになっていて、彼の人となりや生き方をもっと知りたい、そのために、いつか彼の生地である宮城県古川市にある「吉野作造記念館」を訪ねたいと思っていた。年の瀬も迫ってきたので、宿題をもう繰り延べまい、今年中に済ませておこうと決めた。そうなると、この機会に、その生涯や思想に対してそれなりの関心を持ってきたが、これまで真面目に取り組んだことのなかった隣県岩手出身の二人の重要人物、新聞記者でもあった石川啄木と原敬についても、彼らの記念館を通じて何か理解の手がかりを得たい、と思うようになり、同県玉山村の「石川啄木記念館」と、盛岡市にある「原敬記念館」への訪問を追加することにした。
訪ねた順は北から、石川啄木、原敬、吉野作造の各記念館。また、彼らは生誕順に、原敬(一八五六年〜一九二一年)、吉野作造(一八七八年〜一九三三年)、石川啄木(一八八六年〜一九一二年)で、歴史的には、幕末から「日本近代」前期の最終的な転落の始まる一九三〇年代初めまでをカバーする。各人への旅は、いずれも彼らの略歴から入る。出発までには一応の準備が必要である。
T 石川啄木
* その略歴 *
一八八六年二月二〇日、現岩手県玉山村日戸の常光寺の住職、石川一禎と妻カツの長男として生まれる。一年後、父が渋民の報徳寺住職になったので、一家で移り住む。地元の尋常小学校を首席で卒業した少年は、盛岡市の高等小学校、中学校に進む。やがて詩歌の道を志した彼は、一九〇二年一〇月、一六歳で盛岡中学校を中退して上京し、彼の才能を評価する与謝野鉄幹・晶子夫妻に初めて会う。が、希望する文学に関わる適当な職を得られず、さりとて中学への編入もできず四か月後空しく帰郷。一九〇三年五月から、英書をもとにした「ワグネルの思想」を『岩手日報』に連載するが、これは七回で中断する。その秋以降、アメリカの詩集『海の詩 Surf and Wave 』に出会い深い感銘を受け、許嫁節子の励ましに支えられ、詩作により再起を図る。
一九〇四年一〇月、一八歳で再度上京、翌年五月には幸運にも恵まれ、処女詩集『あこがれ』を刊行することができた。同月結婚し、六月から盛岡に移り約九か月住む。その間、報徳寺住職を罷免された父の復帰のために奔走する一方、文芸雑誌『小天地』を創刊する(一号のみ)。一九〇六年四月、二〇歳で故郷渋民村の小学校の代用教員になり、「日本一の代用教員」(評論「林中書」)を目ざすが、結局、父の住職復帰の失敗と、教育方針を巡る校長との対立から村に居ずらくなり、新生を求めて一九〇七年五月、北海道に渡る。「石をもて追はるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ/消ゆる時なし」(『一握の砂』)。
北海道では、最初に住んだ函館で、文芸雑誌編集者、商工会議所臨時雇、小学校代用教員を経て、『函館日日新聞』の記者になるが、函館大火でわずか一週間で失職、その後、九月から約七か月、札幌・小樽・釧路を新聞記者をしながら転々とする。中でも、小樽から釧路に記者として単身赴任する時の思い出は、「子を負ひて/雪の吹き入る停車場に/われ見送りし妻の眉かな」(同)と、歌われている。
一九〇八年四月、「感情の満足なき生活」に耐えられず、師与謝野鉄幹のすすめもあり、中央文壇を目ざして、新聞記者として一番充実していた釧路を去り、函館の親友宮崎郁雨の金銭的・精神的な援助を得て上京し、東京帝大のある本郷界隈に住む。当初は、友人金田一京助らの献身的な支援に助けられ、数編の小説を執筆し、北原白秋、木下杢太郎らとの雑誌『スバル』の編集にあたる。小説は殆ど売れなかったが、翌一九〇九年二月には幸いなことに東京朝日新聞社の校正係に採用された。勤務の傍ら、第一歌集『一握の砂』の刊行、さまざまな新聞・雑誌への評論、詩・短歌、小説の寄稿を続けながら、内には、妻と母との確執・妻の家出、貧困と病気という家庭的苦悩、外には、伊藤博文暗殺事件、大逆事件、韓国併合など歴史的な事件と遭遇する。そうした環境の中で社会主義思想にも目覚め、「明治新社会」に対する考察・批判を深めていく。
しかし一九一二年四月一三日、ほぼ一年間の自宅療養生活に明け暮れた後、当時の国民的な業病の一つ、彼の母、妻をもの命を奪った結核で逝った。享年二六歳。「ふるさとを出でて五年、/病をえて、/かの閑古鳥を夢にきけるかな。」(『悲しき玩具』)。
死の二か月後、第二歌集『悲しき玩具』が世に出る。一緒に住んでいた母は、同じ年の三月、妻は翌年五月亡くなっている。長女京子、次女房枝も、それぞれ二四歳、一八歳にして同じ病で帰らぬ人となった。「その親にも、/親の親にも似るなかれ−/かく汝が父は思へるぞ、子よ。」(同)。
〇 啄木の故郷〜盛岡・渋民
一二月五日午後盛岡に旅立つ。新幹線の列車の中で初めて、先月神保町の古書店でたまたま手に入れた、啄木の『ローマ字日記』(岩波文庫)に向かった。今回の旅行がなければ、おそらく一生読みも、買いもしなかったであろう作品である。これは、一九〇九年の四月から六月まで、家族が上京する直前までの日記で、題名通りローマ字で書かれている。「APRIL/
TOKYO/ 7TH WEDNESDAY/ HONGO-KU MORIKAWA-TYO ‥‥」「Hareta Sora ni susamajii
Oto wo tatete, hagesii Nisi-Kaze ga huki areta. ‥‥‥」から始まる日記は、私自身小学校以来一度としてローマ字の文章を読んだこともなかったので、想像を絶する難物であった。
しかし、そこには初めて出会う啄木がいた。 「 Huhu ! nan to yu Baka na
Seido daro !」「Yo wa Jakusha da !」「Ah, Otoko ni wa mottomo Zankoku na
Sikata ni yotte Onna wo korosu Kenri ga aru !」‥‥彼がそれまでの漢字仮名交じり文をもってしてはとても表現できなかった、余りにも赤裸々な心情の告白、放蕩な生活の描写に、敢えてローマ字で挑もうとしたには違いない。だが、どうもそれだけではなさそうだ。確かにあの頃、啄木の友人土岐哀果がローマ字で詩を書いたり、世間では田丸卓郎らのローマ字国語論もあったようだが、わたし自身が今、英作文の勉強をしているせいか、啄木は本当は日記全文を英語で書いてみたかったのではないか、ローマ字のせいか直ぐに英語に訳せそうではないか、と勝手に思った。盛岡駅に着いて、駅前のホテルに荷物を下ろし、夕食の後も読み続けようとしたが、それ以上読む気力・忍耐がなくなっていた。
六日朝六時半、駅前のホテルからタクシーで岩手公園(盛岡城跡)に行く。この不来方(こずかた)城とも呼ばれた、東北の雄藩南部(盛岡)藩歴代の居城の建物は、明治維新後の一八七四年に一般入札で民間に払い下げられ、取り壊された(同市教育委員会資料より)。しかし周囲を囲む、花崗岩を高く積み上げた堅牢で風格のある石垣、広い城内跡地は、かつてここに建っていた本丸三重櫓や御殿の壮麗さをよく偲ばせる。なお原健次郎(のちの敬)は、この城下ではなく、ここから南西に約二キロ離れた本宮の地で生まれ育った。少年は一八六八年の秋、戊辰戦争の勝者官軍が肩をそびやかして入り、やがて建物も消えた城の運命を脳裏に刻んだことだろう。
この公園の北西側の二の丸跡には、石川啄木の歌碑がある。彼が後に東京で、盛岡中学校時代のことを懐かしんで作った有名な歌、「不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心」が、親友の金田一京助(言語学者)の書で陰刻されている。九歳の時、盛岡高等小学校に通うため、渋民村から南へ約一五キロ、岩手県の政治・文化の中心都市、彼がその小説の中で「みちのくの平安城」と呼んだ盛岡に移り住んだ少年も、一九〇一年に一五歳、盛岡中学校の四年生で、よき先輩の金田一、野村胡堂(後に作家・音楽評論家)、及川古志郎(海軍大将)らに導かれて、新時代を告げる東京新詩社の雑誌『明星』、与謝野晶子『みだれ髪』を愛読するようになっていた。当時の彼の中学校は、不来方城址から北へ二百メートルほどの距離にあり、よく学校を抜け出しては、城址に登ったという。「教室の窓より遁げて/ただ一人/かの城跡に寝に行きしかな」。しかし啄木は一年後、一九〇二年一〇月には、盛岡中学校を中退して東京に向かう。
この歌碑から三〇メートルほど離れたところに、「新渡戸稲造碑」がある。「願はくはわれ/太平洋の橋/とならん 新渡戸稲造」と刻まれている。新渡戸稲造は、盛岡の生まれで札幌農学校で学び、内村鑑三らとともにキリスト教に入信、アメリカで経済学を修め、後に東京帝大教授。吉野作造の恩師の一人でもあり、一九二〇年には、時の首相原敬の指名で国際連盟の初代事務局次長に就任、日本と世界の交流・相互理解に貢献したことはよく知られている。この碑の設計者は、有名な建築家谷口吉郎である。
二つの碑を去って城跡の北側に下りると、道路を隔てた向かいに、郷土の天才啄木を世に送り出した新聞社、岩手日報社の社屋がある。駅に着く前に、啄木が、一三歳の時からの熱烈な恋愛の末に結婚した節子と一時(一九〇五年六月)住んでいた家に立ち寄る。ここで彼は、『岩手日報』連載のエッセイ「閑天地」を執筆したと案内板にある。新婚のもたらした幸福感と日露戦争での日本の勝利が、「閑天地」の気分の高揚した文章の源泉であったのだろう。
七時半、盛岡駅から「IGRいわて銀河鉄道」で三つ目の渋民駅に向かう。駅員さんから、一二月一日の東北新幹線八戸開通にともない、盛岡・八戸間は第三セクター(IGR=アイ・ジー・アールと「青い森鉄道」の二社)が運営することになったと聞いた。
二両編成の電車が動き出す。まず、車窓の左手に広がる八合目くらいまでを雪で覆われ、平地に屹立するコニーデ型の火山、岩手山(標高二〇三八メートル)のおおらかさ、美しさに目を見張る。しばらくすると、右手には優雅な稜線をもち、地元の人が昔から霊山と崇めてきた姫神山(同一一二四メートル)が見えてくる。東西に秀峰、父のような岩手山、母のような姫神山を望む‥‥この奇跡的な光景。「汽車の窓/はるかに北にふるさとの山見え来れば/襟を正すも」。この間、時々、山が見えなくなると思うと電車は、鬱蒼たる左右の林の間を突き抜けるように全力で走っている。
渋民駅には、八時一五分前に着いた。やはり盛岡より一段と寒い気がする。啄木も書いていた。「杜陵(盛岡)を北へ僅かに五里のこの里、人は一日の間に往復致し候へど、春の歩みは年々一週が程を要し候」(『岩手日報』「渋民村より」)。この際はと思いタクシーを頼んで、彼の生まれた玉山村日戸字古屋敷の常光寺に行ってみた。曲がりくねった緩やかな坂道約一〇キロを走ることおよそ一五分、姫神山の南麓にある常光寺に着く。
寺の辺りは人家もまばらである。お寺の方にお願いして、啄木が一歳まで育ったという部屋が保存されているので、見せていただいた。その床の間には、「石川啄木生誕之地」との金田一の書がかけられていた。それから境内に出て、周囲を見回してみると、岩手山も姫神山も全く見えない。あれ?、と思ったが、お寺の方の話では、寺のすぐ裏の一〇メートル足らずの丘に登ると、両方の山ともよく見えるということだった。しかし山懐に抱かれた寂れた寒村、北上川もない日戸で育ったとしたら、啄木は誕生しなかったかも知れないと思った。幸いなことに、啄木が一歳の時、父の一禎は常光寺の住職から、奥州街道沿いにある渋民村の報徳寺の一五世住職に栄転した。
記念館の九時開館までに四〇分近くあるので、同館から三〇〇メートルほど離れたところにある渋民公園まで送ってもらい、タクシーを下りた。それまでの間に、若い女性の運転手さんは、いろいろなことを教えてくれた。今年は珍しく、初霜が降りる前に雪が降ったこと、岩手山は雪を抱くと一層見栄えがすること、玉山村最大の企業であったアルプス電気の、好摩駅(啄木が利用していた駅)の近くにあった盛岡工場が閉鎖され約三〇〇人が仕事をなくしたこと、岩手県は東北六県の中で一番寒い県であること、啄木がかつて住んでいた辺りは渋民村字駅(えき)と呼ばれる宿場町であったこと、などである。メーターはすでに五千円を超えていたが、貴重な体験・情報を考えれば安いものであった。なお後日、『岩手日報』にあたったら、大手電子機器メーカー「アルプス電気」の今年五月の全面撤退は、同村の経済に大きな打撃を与えたという。
渋民公園には、岩手山に対するように、「やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」の有名な歌碑(一九二二年に岩手の若人が建立した啄木歌碑第一号)が建てられている。そこを過ぎて、足の向くままに右手に行くと階段があり、川と吊橋(鶴飼橋)が見えた。すると、大河北上の絶え間なく、ゆったりとして暖かく人を包み込むような「せせらぎ」が、聞こえてきた。これは自然の奏でる最高の音楽ではないか、と思った。持参した大岡信編『啄木詩集』(岩波文庫)を取り出し、彼が一七歳の時に作った詩「鶴飼橋に立ちて」のページを開ける。若き詩人は、「古代の奇琴音をそへて」「相噛みせめぎてわしる水」と歌い、「‥‥よし身は下ゆく波の泡と/かへらぬ暗黒の淵に入るも/わが魂封じて詩の門守る/いのちは月なる花に咲かむ。」と、自分の運命を予知するかのように結んでいた。
公園を出て記念館に向かう途中、北からの身を刺すような強い木枯らしに、無数の落ち葉が地面をガサガサと大きな音をたてて飛び散っていった。「二つの大きな山の谷間にあたる渋民は、日戸と比べて風がずっと強く吹き抜けるのです」、という常光寺の方のお話の通りであった。啄木は、彼自身が詩(「吹角」)の中でいうように、「みちのくの谷の若人」であった。車が引っ切りなしに走り抜ける国道四号線を渡り、記念館の右手に隣接する、啄木がそこで幼・少年時代を過ごした宝徳寺に立ち寄り、開館二分前に「石川啄木記念館」に着いた。
〇 「全ての人のための」記念館
この記念館は一六年前の一九八六年五月三日に、彼の生誕百年を記念して完成、オープンした。建物の外観は、死の前年(一九一一年)に作った詩「呼子と口笛」の中で描いた理想の我が家、「西欧風の木造のさっぱりしたひと構え、高からずとも、さてはまた何の飾りのなくとても」をイメージしたという。「全国の啄木ファンの浄財約一億三千万円を基に」(『岩手日報』)建てられた記念館は、多くのファンや一般観光客を引きつけているばかりではなく、専門家からも、「啄木文学の原点を探る宝庫」(国際啄木学会編『石川啄木事典』)と高く評価されている。
広さ五二〇平方メートルの館内では、彼の誕生からその死までの足跡を、@彼の父母の家系・誕生から小学校・中学校時代、A文学での独立を目ざした、詩集『あこがれ』の刊行と盛岡の新婚時代、B渋民村での代用教員時代、C北海道漂白時代、D最後の東京時代、の五つに分けて、啄木の関わった学校、家、町、勤務先などの写真、家族・知人・友人・恋人・恩師ら啄木を巡る人々の数え切れないほどの肖像写真、啄木の小学校・中学校の生活と学業の記録、歌集『一握の砂』『悲しき玩具』、詩集『あこがれ』の初版本、啄木が北海道時代に書いた新聞の記事、彼の編集発行した文芸雑誌『小天地』『スバル』、生前には発表されなかった小説「雲は天才である」の原稿、詩稿ノート「呼子と口笛」、歌稿ノート「暇ナ時」、知人や友人に宛てた数多くの直筆の書簡、彼のよく非難の的となった友人宛の「金子借用證書」、啄木自身が代用教員時代に弾いたオルガン、愛用の机、彼の死を伝える新聞記事など豊富な資料群が、簡潔で要を得た解説を得て立体的に、そして、おそらく誰にとっても親しみやすく、啄木の「全体像」を伝える。
こうした多彩な展示の中で、私が特に興味を持った物をいくつか挙げてみる。「渋民尋常小学校学籍簿」に啄木は、「工藤一」から「石川一」に改名され、「平民」と記されていた。盛岡中学三年生の彼の国語答案は、赤字で84点とあった。中学時代に使った小型の英語辞典は、真中あたりの690・691
ページが開けられているが、英語に目覚めた少年の精進を偲ばせる。
とりわけインパクトがあったのは、やはり肉筆の書簡である。啄木が長男真一が亡くなった時(一九一〇年一〇月)、名古屋に住む妹光子に宛てた葉書は、文章面の四方が墨の濃淡で枠がつけられ、万年筆で走り書きされている。「長男真一が死んだ、‥‥真一の眼はこの世の光を二十四日間見た丈で永久に閉ぢた/葬儀は明二十九日午後一時浅草区永住町了源寺で執行する」。この手紙は、『石川啄木全集』第七巻に活字化されているの比べると、全く印象が異なる。実物の葉書は、愛児を失った父親の慟哭と、観察者・生活者の冷静な眼、伝達者の巧みな工夫が一体になって、一つの芸術作品といっていいようにも思った。
さすが啄木と感心したのは、彼が渋民尋常小学校の代用教員(一九〇六年)の時に作った「課外英語科教案」である。その脇には、教師たちが交代で記録する『渋民小学校日誌』が並べてあり、「四月二十七日 英語科出席児童二十四名トナル、四月二十八日 英語科出席児童二十七名トナル」と書かれている。彼は百年近く前、戦後になっても「日本のチベット」(大牟羅良『ものいわぬ農民』参照)ともよばれた岩手県の僻地、渋民村の小学校の子供たちに課外の授業で英語を教えようとした。彼の手書きで、「Letpupils
know the outlinear notion of the Alphabet andthe production of English
words」とあり、彼の意気込みが伝わってくる。
彼は、『渋民日記』の中で、「英語の時間は、自分の最も愉快な時間である。生徒は皆多少自分の言葉を解しうるからだ」と、また小説「雲は天才である」では、「英語が話せれば世界中何処へでも行くに不便はない」ともいっている。彼の一年間の在職中、英語の授業はそれなりに進んだ様子だが、彼の退職とともに跡絶えてしまった。「日本ではおよそ百年後、近年になってようやく小学校の英語授業が始まってるんですね。それくらい、現代の日本は遅れているんです」、と、たまたま私の傍らで補足説明をしてくださった記念館の方にいってしまった。
元々、啄木は中学時代から英語の勉強には熱心に取り組んでいて、代用教員の時代も丸善から本を取り寄せていた。ここには、明日あたり到着しそうな英書のために、給料の前貸しを「村長閣下」にお願いする手紙も展示されている。また、その二年前には、恋人節子から贈られた野口米次郎の英語詩『From
the Eastern Sea 東海より』に激しく揺すぶられ、「幼児より心がけて居た、米国行きの志望は」は、渡米熱というという病になり、太平洋の向こうで処女詩集を英詩の形で出そうと考えたほどであった(野口宛書簡、『岩手日報』「詩談一則・『東海より』を読みて」一九〇四年一月)。
だから、もし彼が最初の上京の時に希望したように、有名な英語学校である正則英語学校で本格的に修学する機会が与えられていれば、あの青春の魂の率直無比な告白『ローマ字日記』は、彼自身によって最初から英語で書かれていたかも知れない。とすれば、それは海外でも、第二次大戦後に初めて英訳されてそうであったように、大きな反響を呼び起こしたろう。節子の「狭き亜細亜の道を越えて立たん曠世の詩才、君ならずして誰が手にかあらんや」も夢ではなかった。
〇 啄木と新聞
ここに来て改めて印象づけられたのは、啄木の生涯における新聞の果たした役割の大きさである。
まず地元紙『岩手日報』(一八七六年創刊)。展示コーナーでくわしく紹介されていたように、同紙は一九〇一年一二月、郷土の一五歳の天才少年に初めて、石川翠江の名前で短歌発表の機会を与え、それ以降晩年までの一一年間に、折に触れて彼の創作・評論活動を支えた。一時は彼を社員として採用することも考えたという。同記念館の企画展図録『啄木と岩手日報』には作品の掲載は「百数十回」とあった。しかし『岩手日報』は、善意で彼にスペースを提供したのではない。啄木は、多数の読者獲得を目ざす新聞が求める、ニュース性・批評性・啓蒙性のある文章をいつでも物にできる、いわば、ジャーナリストとしての才能にも大変恵まれていたのである。その前提として、彼は新聞を実によく読んでいた。ちなみに一九〇六年三月五日の日記には、渋民村でも『読売新聞』『毎日新聞』『万朝報』『岩手日報』の四紙を取っている、「目下政界争論の焦点は鉄道国有案である」、とあった。やはり啄木は鋭い。当時、原内務大臣・鉄道院総裁は、この日露の戦後経営に関わる最重要課題の一つ、鉄道国有化に懸命に取り組み成功した。
北海道を漂白する彼に、充分といえなくても当面の生きる糧と、評論や短歌・詩作品を発表する場、そして何よりも、北辺の寒冷で複雑な背景を持つ社会を十二分に観察する機会を提供したのは、一時期野口雨情と社会面を担当した『小樽日報』、編集長格として意欲的に取り組んだ『釧路新聞』であった。また新聞記者としてのスタートとなった『函館日日新聞』(上京後もしばしば寄稿)、評論「秋風記」を書いた札幌の『北門新報』は、期間こそごく短かったが、彼の人生遍歴の上で、それぞれに大きな意義をもった。
展示コーナーでは、各新聞社の社屋の写真、社名題字、上司・同僚と、それぞれの地で女性を含め彼と関わりのあった人々の顔写真、彼が実際に書いた記事を掲載する『小樽日報』、『釧路新聞』の拡大コピーが、啄木と北海道の新聞との深い関係をよく示している。彼の書いた記事は小さな赤丸が付いているので、目を近づければ読める。『小樽日報』のある号では、三面記事として、「手宮駅員の自殺未遂・重禁錮三ケ月の前科者情婦の為に自殺を図る」「挙動不審の男」「酒代を強要てお目玉」を書き、興行界の話題「恵比須亭の演芸会」を軽妙に取り上げている。『釧路新聞』では、中央政局の動きについての堂々たる長文の社論「予算案通過と国民の覚悟」を物にし、巷の艶やかな話題を「紅花便り」で伝え、釧路地方を襲った「空前の大風雪」の甚大な被害を、緊迫感を込めて克明に報じている(後で『石川啄木全集』第八巻に収録されている該当部分などを読み直して、啄木記事の的確さ・面白さに感心し、啄木が来てから『釧路新聞』の読者が急に増えた、ということも納得できた)。
常識的なことを繰り返すが、啄木にとって北海道の意義は、新聞記者として、行政の当局者、警察官、詐欺師、放浪者、売春婦、夜の綺麗所、各地を巡回する芸人、恋に悩む名もない男女、事件・事故の被害者、こうした北辺のさまざまな人々と接する中で、それまでの村・学校・文壇仲間という、いわば閉鎖的な世界から抜け出て、複雑な人間社会の現実に対する理解、同情と批判を一層深めたことであろう。彼はいう。「予の北海漂白は始まりたり。‥‥予は唯荒涼たる北海の辺土に戦はれたる壮厳なる生活の戦ひを見たり」(『岩手日報』「百回通信」)。
一九〇八年四月、彼が釧路を去って上京し、『菊池君』『病院の窓』など気負いこんで書いた小説がまったく売れず暗澹たる思いをしていた時、有名な民権政治家島田三郎の主宰する『東京毎日新聞』は、小説「鳥影」や、晩年の大きな飛躍を示す評論「弓町より〜食ふべき詩」、「性急な思想」、および詩「心の姿の研究」を、それなりの原稿料を払って掲載してくれた。上京してから書いた、今挙げた二つの代表的な評論、『岩手日報』連載の「日曜通信」「胃弱通信」「百回通信」、結局発表されなかったが、「時代閉塞の現状」、これらの評論の魅力的なタイトル、多方面にわたる充実した内容は、それまでの才気煥発な文学青年のもの(例えば「閑天地」「古酒新酒」)ではなく、北海道で四つのそれぞれに個性的な都市を巡った記者、彼の言葉を使えば「我々時代の観察者」、にして初めて可能であった、と私は思う。
そして何よりも、盛岡中学校の先輩で当時編集長をしていた佐藤北江(本名真一)というつてがあったとはいえ、ともかく月二五円の固定収入を保障して、天才の晩年三年間の創作の環境を整え、「命の綱」(金田一京助)となったばかりではなく、社会動向の当時最高の「認識機関」の一角に彼を配置したのは、一九〇九年二月に彼を校正係として採用し、後に「朝日歌壇」の選者に抜擢した東京朝日新聞社であった。編集部で啄木が「不思議に僕を信用してくれる」といった池辺三山主筆は、『東京朝日新聞』の論説を名実ともに新聞界のトップに押し上げた功労者であった。啄木は生まれた長男に、編集長と同じ名前真一をつけた。展示されている佐藤・池辺の大きな写真を見ながら、あらためて啄木の幸運を思った。
いうまでもなく池辺三山は、一九世紀末の代表的新聞『日本』の主筆・社長で、原敬とは司法省法学校の同窓生でもあった陸羯南から、東京に出て「あてもなく暮らしている」時に執筆の機会を与えられ、パリから寄稿した「巴里通信」で名声を確立した(『陸羯南全集』第一〇巻参照)。「日本一の編集長」とも呼ばれた佐藤真一を、少年時代厳しく育てた祖母ませ子は、原敬の母リツと親しかったという(岩手日報社編『岩手の先人100人』参照)。不思議な縁を感じる。
そればかりでなかった。一九一一年二月に腹が膨れて入院した啄木に対して、佐藤は社内有志からの見舞金八〇円を届ける(実に月給の三倍以上である)。それに感謝する啄木の佐藤宛の手紙が記念館に展示されている。「拝啓、昨日は雪の降る中を態々お出下され何とも恐れ入りました、殊にまた今度の御配慮につきましては全くお礼を申上げる言葉のない次第で御座います、何だがかう空おそろしくなります‥‥‥」、という直筆の文章を読んでいると、彼のうれしそうな顔、感謝の息遣いまで伝わってきそうで、これを受け取った佐藤たちも「安心して養生しろよ」といいたくなっただろう、と思った。
結局入院してから翌年四月の死まで、一度も新聞社の勤務に復帰できなかった啄木に対して、月給は毎月きちんと支払われた。これは、彼の将来を高く買う佐藤編集長、池辺主筆、杉村楚人冠、安藤正純のような名だたる編集幹部による特別の配慮であったろう。中でも楚人冠広太郎は、亡くなった年の一月に彼に宛てた手紙の最後を「あなたの忠実なる 石川一」で結んだように、啄木が佐藤とともに最も信頼を寄せた新聞人であった。
展示コーナーの最後では、彼が東京時代、森鴎外、夏目漱石、与謝野晶子、北原白秋、若山牧水、斎藤茂吉、といった中央文壇の最有力者や新鋭たちと交わった栄光の日々と、彼の「思想に一大変革」を与えた大逆事件について、友人で同事件の弁護士を勤めた平出修、幸徳夫妻の写真などで紹介する。次いで、彼の前日の病死を伝える『東京朝日新聞』記事(一九一二年四月一四日号)が現れ、一七日付同紙に掲載された、啄木が「Ane
no yo ni omou koto ga aru」与謝野晶子の追悼文「わが啄木はあらずこの世に‥‥」を展示する。そして挽歌は、残された遺族、妻節子、長女京子、次女房枝たちの写真で終わる。
この展示ホール全体が、病気と貧困に苦しみながら、人間として、また表現者としての自立を求めて地方と東京を往還した、明治の「みちのくの谷の若人」の生涯を描く一つの交響詩であった。
〇 岩城先生と山本さん
館内を一巡した後、外に建っている復原された、渋民尋常小学校と、彼が代用教員時代に間借りしていた斉藤家を見学した。一八八四年に当時の金六五〇円で新築され、一八九一年に啄木が入学して四年間学び、後には代用教員をしていた二階建ての木造校舎は、小さな子供たちならば大勢で走り回っても、びくともしなかったであろう堅牢な構造で、啄木が受け持った二階の二学年の教室には、木製の二人用の机と椅子が二〇脚並べられていた。白い障子を通して外の陽が柔らかに差し込む教室の、小さな椅子に座っていると、明治の子供たちの大きな夢と、苦しい生活の中でも、なけなしの金を叩いて彼らの将来にかけた明治の親たちの熱い思いが、ひしと感じられた。ここもまた、常光寺と同じように「啄木生誕之地」であった。
そして、今さっき館内で見てきたワグナーの肖像が頭の中で残っていたのと、四年前にニューヨークで「ローエングリン」を見た思い出が重なり、自分でも驚くほど気ままな想像を楽しんだ。啄木は、例によって東京朝日新聞社でも野心家であった。「おれが若しこの新聞の主筆ならば/やらむ−と思いし/いろいろの事!」。‥‥健康を回復した啄木が、英語の達人としても知られる、思いやり深い杉村楚人冠の引きで、彼の提言で一九一一年に設置された調査部(当初は索引部)に移り、充実した勤務の合間に英語を完全にものにし、楚人冠、佐藤編集長らの推薦で朝日から、少年時代からの夢であったアメリカに派遣され、定期的に「紐育通信」を送ってくる。そこには当然のように、イタリアでワグナー楽劇の普及に貢献したジュリオ・ガッティ=カザッツァを新たな総監督、その盟友アルトゥール・トスカニーニを首席指揮者に迎え(一九〇八年)、全盛期に向かって歩み始めたニューヨークのメトロポリタン歌劇場からの報告があり、その中にはおそらく、トスカニーニ指揮によるワグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」などの演奏評もあったろう。
実際、ワグナーのオペラを一度も聞いたこともない一七歳の少年に、友人の野村胡堂が回想していたように、「ワグナー論」が書けるわけがなかった。啄木のニューヨーク便りは、日本におけるワグナー受容史を一変させていただろう。少なくとも、「トリスタンとイゾルデ」の本邦初演が、ベルリン・ドイツ・オペラによって一九六三年、日本人による「ニーベルングの指輪」の全曲上演の完了(二期会公演「神々の黄昏」)が一九九一年、などというみっともないことはなかったはずだ。ともかく、啄木と新聞との関係は興味がつきない。帰ったら、幸徳秋水とも交流があったという楚人冠の書いたものも読んでみよう。
このほか、ここに来て本当によかった思ったのは、七年前(一九九五年八月三日)に亡くなった偉大な啄木研究者で日大名誉教授、岩城之徳氏のご遺族から玉山村に寄贈された、氏の啄木関連蔵書が展示されていたことである。それらは、直接啄木に関連した文献はいうに及ばず、啄木研究に不可欠な明治文学・古典文学なども含んでいる。寄贈された文献の数は、実に六二七七点にも上るという(特別展資料目録『啄木研究の足跡』より)。
同目録によると、岩城氏は四五年間の啄木研究の中で、約五〇冊の単行本を世に出された。また氏は一九八九年に創立された「国際啄木学会」の初代会長でもあった。正直にいって、私が啄木にいささか熱を上げたのは、恥ずかしいことに今回初めて知った、岩城氏の「啄木研究三部作」(『石川啄木伝』『啄木歌集全歌評釈』『啄木全作品解題』筑摩書房刊)、『人物叢書・石川啄木』(吉川弘文館刊)と、氏も推薦されていたので読み返した澤地久枝氏の『石川節子』(文春文庫)によることが大であった。
寄贈された文献は、現在単行本については館内閲覧ができるが、今では入手困難なものも多いという雑誌類についても来月からそうしたい、ということであった。そうなると、ここは世界各地からも啄木研究者がやってくる「啄木研究のメッカ」になるのではないか、少し気の早い私は結論づけてしまった。
記念館訪問の仕上げに受付で、同館学芸員山本玲子さん執筆の『啄木歌ごよみ』をお土産に買い、「常日頃、私ほど啄木のことを思っている者はいないのではないか」(『拝啓 啄木様』より)とおっしゃる彼女のサインをいただいた。実は私は、ここに来る前に同館に頼んで『啄木歌ごよみ』を郵送で手に入れて読んだ。そして、カラー写真を巧みに使いながら、四季折々に選んだ啄木の歌一九二首を見事に解説しておられる山本さんの「ファン」になっていたのである。いくつかの質問にも丁寧に答えていただいたが、笑顔のとても美しい人であった。
ここで一緒に買った、啄木の少年時代からの親友伊東圭一郎の『人間啄木』(復刻版・岩手日報社)には、「啄木が死んだ時は、佐藤さんは玄関の次の間に坐って弔問の人に応接するし、翌日火葬場へ行く時は、最初が節子さんと京子ちゃん、次に佐藤さん、次に私の順で人力車で行ったり、あの忙しい編集長が二日間も啄木のために費やしたのは、唯の校正子と編集長の関係ではありません」、とあった。
記念館に行こうと思ったからこそ、予想だにしなかった、岩城先生の巨大な業績の一端に触れ、山本さんというすぐれた啄木研究者に会え、東京では得難い本『人間啄木』を入手できた。旅の贈り物である。
U 原 敬
* その略歴 *
ペリーの浦賀来航から三年後の一八五六年三月一一日に、現岩手県盛岡市本宮で、南部(盛岡)藩の家老格で富裕な士族の次男として生まれる。少年時代、習字・漢籍の素読に励む。しかし、近代日本創出期、一八六八年のいわば日本の「南北戦争」、戊辰戦争で南部藩は敗者となった。領地の没収、賠償金の支払い、責任者の処罰など勝者による過酷なまでの制裁が藩を襲う。原家も一挙に窮乏化する。一八七一年、一五歳の時に東京に出て旧藩主が設立した共慣義塾で学び始めたものの、故郷からの学費援助が跡絶えて退学した後、一時期、キリスト教の神学校で暮らした。
この忍耐強く、向学心にあふれチャンスを貪欲に求める少年に、飛躍への大きな踏台を与えたのは日本人ではなく、教養豊かなフランス人宣教師エブラルであった。一八歳の時、約一年間、新潟で原敬はエブラルに学僕として仕える中で、フランス語の習得に励んだ。この外国人との深い交流の中で、原敬は、とりわけ外交官とって必須の条件、人種・民族を超えた人間的共感・対等観というべきものを、身に付けたように思えてならない。例えば『天津日記』が伝えるような、二七歳の新進外交官の、手強い交渉相手李鴻章の懐にまで入っていくような頻繁な訪問、フランスなど列国領事との度重なる情報交換は、「エブラル体験」なしではありえなかっただろう。
その後、一八七六年に、家族の支援を再び得て東京の司法省法学校(フランス法学系)に入り、偶然、青森から来た陸羯南(後の新聞『日本』主筆・社長)と同窓となる。授業はフランス人教師がフランスのテキストで法学、歴史、経済学、数学などを教えるというものであったが、敬は懸命に勉学に励み成績も優秀であった。しかし、薩摩藩出身者が校長をする学校当局と対立して三年後、陸羯南らとともに放校される。ここで一つ気になるのは、フランス法と明治国家の関わりである。日本の近代法制の整備は、一八七三年に招聘したフランスの法学者ボアソナードの指導の下で始まっているが、西南戦争(一八七七年)以降、大久保利通の指示でプロイセン(ドイツ)法重視に転換しているといわれる。伊藤博文が憲法制定のため一八八二年に渡欧したとき、参考にしたのはプロイセン王国憲法であった。原たちは、こうした動向を察知し、司法省法学校の将来にそれほど魅力を感じなくなっていた、ということも考えられる。しかし、外交の世界語としてのフランス語は、二〇世紀までは英語をはるかに凌いでいた。
放校された後、中江兆民の塾でフランス語を五か月学び、郷土の先輩の紹介で郵便報知新聞社に入り、フランスの新聞の翻訳をしていたが、やがて論説記者として頭角を現す。東北・北海道取材旅行中、当時仙台で獄にあった後に外務大臣になる陸奥宗光を見ている(陸奥は後、原の最大の引き立て役になる)。取材で知己を得た長州藩出身の外務卿井上馨の周旋で、新聞社を辞め一八八二年に外務省に入る。原自身によれば、「東北人は、外務省にでもなければ、官界に容易に入れてもらえなかった」(前田蓮山『日本宰相伝原敬』)。
それからは、自ら鍛え上げたフランス語の能力と、李鴻章をも賛嘆させた交渉力・情報収集力、陸奥宗光を筆頭に、井上馨・伊藤博文・西園寺公望ら大実力者たちの彼の判断力・実行力に対する高い評価・厚い信頼を背景に、清国天津領事、パリ公使館代理公使、農商務省参事官、外務省通商局長、外務次官、朝鮮公使と、出世街道を確実に歩む。中でも、第二次伊藤内閣の陸奥外相を補佐し、外務省通商局長として携わった条約改定交渉では、一八九四年、日英通商航海条約調印という成功の裏方となった。
その後一八九七年、当時の大隈外相と相容れず外務省を去る。英語の勉強を本格的に始めようとした矢先に(「余閑散中英語を講習せん事を思立ち、本月初めより英人 Roger In-gllotte なる者に就き一週二三回の約にて講習を始めたり」『原敬日記』五月一六日)、大阪財界からの要請に応えて、大阪毎日新聞社の編集・経営の最高責任者となり、新聞編集ばかりでなく、部数拡大のためのさまざまな新機軸を打ちだして、「政論」を売り物とした新聞から、報道重視・大衆路線への脱皮の先頭に立った。漢字制限、外電の重視・海外通信網の整備、家庭欄の新設も、原敬の発案であるという。
大阪では、彼は社説もよく書いたが、その中には彼らしく外国語のすすめもある。「我輩は一の外国語も解せざる人に向つては、少くとも何れの国語かを解することを勧告し、又既に或る国語を解する人に向つては、更らに他の国語を解することを勧告せざるを得ざるなり。‥‥(学習は幼年から始めた方がいい、故に)小学の課程に於て外国語を教授するの方針を取るを以て得策なりとす」(一八九九年一〇月)、と日本人にバイリンガル化への努力と、早期外国語教育を求めている。啄木も数年後、故郷でそれを実践しようとした。
二〇世紀の始まる一年前の一九〇〇年、近代日本政治史の一大転換点というべき、旧自由党を引き継ぎ、伊藤博文を総裁に抱く立憲政友会の創設に参画、一九〇二年には盛岡市から衆議院議員に選出される。その後は、党務にはあまり熱心ではない伊藤、次いで西園寺総裁を忍耐強く補佐し、政友会の最大の実力者として、党組織の全国的な整備、党勢の拡張に努めつつ、桂首相と西園寺の間に立って、いわゆる「桂園 (けいえん) 時代」(藩閥・官僚勢力の代表である桂太郎と政党勢力の代表西園寺が交代で政権を取った、本格的政党政治に至たる過渡期。一九〇一〜一九一三年)を陰で演出し、その後も、第三代政友会総裁(一九一四年に就任)として、同党に激しい敵意をもつ大隈重信の内閣、およびその背後にいる元老山県有朋らの藩閥勢力の苛烈な攻撃にも、知力の限りを尽くして耐え抜いた。
その一方、国家権力の中枢である内務大臣を一九〇六年以降、三回勤め、その間に、地方行政改革・人事刷新・警視庁改革・鉄道の国有化・陸海軍大臣の予備役への拡大など、藩閥勢力の基盤を着実に掘り崩し、政党政治本格化のための種を蒔きながら、米騒動で騒然とした政情を背景に、「東北の僻地」出身者、また衆議院議員としては初めて、一九一八年九月、明治維新以来一貫して西南勢力が握ってきた国家権力の頂点に立った(第一九代内閣総理大臣就任)。よく知られている話だが、原をよく知る新聞記者が、彼が推挙された日、「山県がよくも承知しましたねといったら、かれは事もなげに「米騒動」だよといった」(前田蓮山前掲書)。原は、時代を創る民衆の力をよく知っていた。
いかにも新聞記者出身の原敬らしいのは、内務大臣を辞めた一九〇八年八月から七か月をかけて、アメリカおよびヨーロッパを私費で(邸宅を購入する代わりに)視察旅行していることである。各国の議会・裁判所、有名な美術館、博物館、歴史的な遺跡はもとより、証券取引所・銀行、中央市場、最新鋭の自動車・鉄鋼・精錬・電気・電話機・紡績工場、さらには孤児院・病院・下水処理場・無宿者収容所までも、実に丁寧に見学している。「(ベルリンでは)無宿者収容所にて入浴の状況を見しに、百人づつ一斉に入り毎日大概四千人入浴すと聞く」。こんなに熱心に視察する政治家が、今の日本にいるだろうか。中でもアメリカについて「将来恐るべきは、此の国ならん」と日記に記している。彼は常に、自分を真の「statesman 政治家」とする努力を怠らなかった。
首相在任中は、「秩序ある進歩」をスローガンに、依然根強い藩閥勢力との衝突を避けつつ、彼の念願であったアメリカ重視と日中親善を基調とする国際協調外交の推進、高等教育機関の拡充、全国鉄道網の整備・拡張、産業構造の高度化、選挙権の拡大・小選挙区制の導入、貴族院有力会派の与党化、総力戦時代に対応した国防の充実、郡制の廃止、朝鮮統治体制の変更(武断主義から文治主義へ)、皇太子の外遊実現、第一回国勢調査の実施など、新時代に対応した国際競争力のある国を目ざして、大宰相としての力量を発揮しつつある一九二一年一一月四日、東京駅頭で一九歳の国鉄駅員に刺殺された。「軍部改革」という最重要の仕事が残されていた。
遺書ともなった膨大な『原敬日記』(全六巻・福村出版刊)は、戦後一九五〇年に初めて公開され、日本近代政治史研究の最高の宝庫の一つとなった。なお、「国会開設百年」にちなんで、『日本経済新聞』(一九九〇年一一月二五日)は、専門家五氏に委嘱して「日本の政治家一〇傑」を選んだが、一位は原敬、以下、吉田茂、伊藤博文、西園寺公望、池田勇人、浜口雄幸、山県有朋、石橋湛山、三木武夫、田中角栄である。
〇 「意を尽くした」記念館
お昼に啄木記念館を去り、電車で盛岡に戻り、そこからタクシーで約一〇分、午後一時半頃、彼のかつての生家の敷地に建てられた「原敬記念館」に着いた。広々とした庭と池、周囲を巡る高い木々、古い生家、これらと見事に調和した清冽な記念館。一九五八年一〇月二〇日にオープンした記念館の設計に当ったのは、谷口吉郎である。彼は、長野県木曾路の藤村記念堂、東京の千鳥ヶ淵戦没者墓苑、今朝見た岩手公園の新渡戸稲造碑など多くの名建築で知られる。受付で求めた『原敬記念館案内』によると、「『原敬日記』を読み、深く感銘した(谷口)博士は、原敬の世界協調理念の具現化に努めたといわれる。一九八八年の増改築にあたり、谷口博士の原設計との調和を図り、格調高い建物になっている」、とある。現在の建物の面積は、約六六〇平方メートル。
記念館の入口の横に彼の句碑が立つ。「わけ入りし霞の奥も霞かな」、死去の年六五歳の作という。打ち破っても打ち破っても、藩閥勢力の妨害と抵抗はなくならない、という政党人としての感慨なのか。首相になった自分に次々に降りかかる難問、シベリア撤兵問題、尼港事件、戦後不況、思想問題、宮中其重大事件、続発する疑獄事件、等々に対する現実政治家の憂慮なのか。それとも、どんなことが起きても自分が解決してみせるという、遂に「日本丸」を委ねられた名船長の自信なのか。
この記念館の展示内容は、極めて多彩であるばかりではなく、適切な照明効果によって資料も大変見やすく、解説も実に懇切丁寧なものであった。国際人原にふさわしく、英語による解説も付せられている。由緒ある博物館・美術館に共通に感じられる風格をもつ、といってもよい。展示は、彼が一九歳の時から書き始め、死の六五歳までの四六年間にわたって書い継いだ日記の重要ページを軸に展開されている。
まず展示ホールの最初のコーナーに、彼の生涯を集約するように二点の資料がある。一つは、国家権力の頂点に昇りつめた日、すなわち内閣組織の大命降下の日の日記、「二十七日、午前十時半参内拝謁セシニ‥‥内閣ノ組閣ヲ命イズトノ御沙汰アリ、不肖ノ身ヲ以テ内閣組織ノ大命ヲ拝シ‥‥」、もう一つは、彼がパリ駐在中、公務の合間に聴講し整理したフランス語ノートである。一方は権力の頂点の記録、他方は、それを可能にした懸命な努力の記録である。明治国家は、一方で藩閥勢力が支配する「縁故と情実」の国家であったが、他方では、一等国を目指す後進国特有の、「本物の実力」が相当に物をいう国家でもあったことを、これらの資料は端的に教えてくれる。
ホールの主な展示品を紹介する。少年時代に漢文で書いた平重盛論などの作文、『郵便報知新聞』に掲載した社論「官民相対スルノ道ヲ論ズ」など、彼の思想を伝える重要な新聞記事・論説、『露西亜国勢論』『陸戦公報』などフランス語の実力を示す各種翻訳書、『現行条約論』『新条約実施準備』のような外務官僚としての蓄積を示す著書、彼に与えられた内務大臣など各級レベルの辞令、李鴻章の天津領事宛て文書など各時期での彼の業績を示す資料、第一回からの衆議院議員当選證書、硯箱・筆など多種多様な遺品・愛用品、勲章、彼の生涯の折々に撮った肖像写真。そして何よりも、学生時代から晩年までの間に、彼の家族・友人・先輩・恩師、有力な政財界関係者から彼に宛てられた多数の書簡が、彼の波乱の人生をよく物語る。
〇 「大勉強家」原
展示の中で、特に印象的なものをいくつか挙げる。
原敬は、彼と関係する人々、一人一人に並々ならぬ目配りをしていたことでも知られているが、それが生来のものであったろうことは、彼が司法省法学校同窓生一〇四名全員の名前と出身県を成績順に、実に几帳面に書いたメモがよく物語るようだ。ちなみに敬自身は二番目、後に漢学者として大成する宮城県の国分豁(青崖)は一八番目、青森県の中田実(陸羯南)は三四番目、名だたる政論記者になる福岡県の福本巴(日南)は八三番目、後にパリ留学中に原敬の斡旋で外務省に入り、卓越した外交官として、パリ講和会議などで首相原を側面から支えた愛媛県出身の大原(加藤)恒忠は九七番目である。この五人は、いずれも法学校から放校された仲間である。所詮この学校の枠にはまらない連中だったのだろう。この中の加藤の甥で、後年陸の日本新聞社に採用され、短歌・俳句の改革者になったのが正岡子規である。一枚の紙に秘められた日本近代のドラマ、とでもいえようか。
彼がまた、大変な勉強家であったことは、先に述べた「フランス語ノート」のほか、パリ滞在中に書いた国際法・政治経済学の関するフランス語文献 ( Le droi inter-national de L'Europe‥‥など)の詳細なメモ、多忙な勤務の中でも、毎朝フランス語の個人レッスンを受けていたという事実もよく示す。また青年期、学僕となっていたエブラルが原宛に筆で書いた手紙「Mon Cher Hara,J'atten-dais depuis longtemps une occasion pour vous ecrire ‥‥Rappellez-vous aussi que vous etes chretien (親愛なる原さん、私は長いことあなたに手紙を書くチャンスを待っていました。‥‥あなたがキリスト教徒であることも忘れずに)‥‥」は、原とフランス語との結びつきの強さ、師弟の間の交流の深さを証明するようである。
原敬宛の書簡の差出人は、明治国家そのものといってよい。別のいい方をすれば、彼らは、何ら強力な後ろ楯もない東北出身の英才が生涯相手にしなければならなかった、いずれも一筋ならぬ相手であった。彼の才能を見いだした宰相伊藤博文、恩人筆頭の外相陸奥宗光、元老井上馨・西園寺公望・山県有朋・松方正義、小村寿太郎、牧野伸顕、寺内正毅、後藤新平、星亨、加藤高明、斎藤実、渋沢栄一、陸羯南‥‥。中でも、原外務次官に闊達な字で「別紙至急ニ外務大臣ヘ遣度候」と贈り物の手配を頼む、天真爛漫な伊藤博文、事例を一つ一つ挙げて「(彼の危険なる)社会主義ニ対する憂慮ハ片時も念頭を去ること無之」としてその取締強化を連綿と原内務大臣に代筆で要請する、神経質窮まりない山県有朋、この二つの書簡は、明治国家の二大巨頭を分析する格好の素材でもあろう。それだけではない。この山県の憂慮が昂じて、「主義者」対策が手緩いと見られた西園寺首相、原内相に搦め手から強力な圧力をかけて内閣辞任に追い込み、結局、「大逆事件」につながる桂首相・平田内相コンビを登場させた。歴史を創った手紙ともいえようか。
また、自分の息子の有利な就職の世話を、書簡で綿々と訴えているのは鳩山春子夫人で、この息子とは後の首相鳩山一郎である。陸羯南の手紙も、メルボルン領事館に勤務している故郷の知人の転勤について配慮を求めるものである。日本では今でも、偉くなるための必須条件が「就職斡旋」であることに変わりない。そして、何よりも心を打たれたは、母リツの盛岡の家の近況を愛息に伝える手紙である。その流れるような筆遣い、細かな心づかいのあふれる便りに接してみると、父親亡き後、七人の子供の薫育を一人で担った、この気丈で聡明な母にして初めて大宰相原敬あり、を理解した。こうした書簡類は、これまでも伝記や研究書などで何分の一かに縮尺されて掲載されているが、実物の伝えるメッセージの豊かさに比べるべくもない。
〇 戊辰戦争の影
私は正直にいって、ここに来るまで、明治維新以降においても戊辰戦争が、東北の人々の進路と生活の上に大きな暗い影を投げかけていたことについて、殆ど無知であった。原敬が、かつて盛岡藩が戊辰戦争で、朝敵の汚名を着せられたことを生涯の遺恨としていて、一九一七年九月、盛岡で行なわれた戊辰殉難者五十年祭で、わが藩は朝廷に弓を引いたのではない、「戊辰戦争は政見の異なるのみ」という祭文を読んだことも、ここに展示されている遺墨で初めて知った。
私にとって戊辰戦争は、会津藩の白虎隊の少年たちの集団自決で終わったものと思っていた。そういえば、先月見た山田洋次監督の映画「たそがれ青兵衛」の主人公、東北庄内地方の「海坂藩」の下級武士井口青兵衛も、戊辰戦争で官軍の鉄砲に撃たれて死んでいた。一説には、新政府軍・旧幕府軍あわせて戦死者一万人を超えるという戊辰戦争について、もう一度勉強し直さなければならない。
展示ホールの終りのコーナーには、東京駅で遭難した時に着用していた、赤い縞のシャツ、パリで仕立てられた背広が直立した形で展示されている。そのほか、暗殺の状況や、暗殺犯中岡艮一の背景を説明したパネル、当時の新聞の号外、死の近いのを予期していたかのように書かれた有名な遺書が展示されていた。それらはテロに対する静かだが、断固たる告発であった。
原敬は、伊藤博文から始まり彼の前任者寺内正毅までの九人の宰相の誰とも違って、戊辰戦争には参戦しなかった。すなわち銃砲や刀(武力)ではなく、「言論」が社会を動かす基本力であることを誰よりも理解した最初の首相であった。しかし、同時に彼は言論だけではなく、個人としては金銭に極めて潔白であったが、「金と利権」が政治を動かす巨大な力であることもよく知っていた。長引く戦後不況、次々に明るみにでる汚職・疑獄事件、議会の多数を制した政友会の強引ともいえる力の政治が、妬みも加わって世論の厳しい批判の的となっていたことも確かだ。しかし、やはり、全知力・全精力を傾けて軍閥と官僚の支配した明治国家を葬り去った、東北人に向けられる怨念は、かくもすさまじいものであった、ということではないか。この事件については、同館の『原敬研究資料28〜原敬暗殺』が詳しい。
さらに、別室で開催中の「第二九回企画展〜原敬絶妙の新外交」も、写真・資料・説明ともに大変充実しており、短時間に多くの新しい知識を得ることができた。結局、ここには閉館の時間、午後五時まで館内に滞留することになった。それでも展示資料を納得の行くまで見るには時間はとても足らなかった。係の方からは、これまでの企画展や、原敬の足跡に関する資料をたくさんいただいた。また近年、経営戦略家としての原敬に対する関心も高まってきているとも聴いた。ここには、『原敬日記』をよく読んでまた出直そう。そうすれば、彼はまた違った表情を見せるかも知れない。
V 吉野作造
* その略歴 *
一八七八年一月二九日、現古川市の綿商人の家に生まれる。地元の小学校、仙台の中学校、第二高等学校をいずれもトップクラスの成績で卒業する。仙台は元々キリスト教と関わりが深い土地であり、二〇歳の時、友人とともにアメリカ人宣教師ミス・ブゼルの指導を受けてキリスト教に入信する。一九〇〇年、東京帝国大学法科大学政治学科に進み、「衆民政(デモクラシーの訳語)」を唱える新進政治学者、小野塚喜平次に傾注する。大学時代以降、有名な海老名弾正の弓町本郷教会に出入りした。大学を首席で卒業した後、妻と娘三人の家族の生活のためもあり、一九〇六年、当時の中国最大の実力者袁世凱の長子袁克定の私教師となり、中国天津に渡る。その仕事の傍ら、新しくできた官吏養成学校の教官も勤めた。三年後、帰国して東京帝大助教授となり、次いで一九一〇年から三年間のヨーロッパ留学を経験する。
帰国後、著名な編集者滝田樗陰と出会い、一九一四年『中央公論』一月号に「学術上より観たる日米問題」で論壇に登場、一九一六年、『中央公論』一月号に「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表、「世界の大勢」から諄々と説き起こした、この政党内閣制の確立、普通選挙の実現を求める気鋭の政治学者の訴えは、大きな反響を起こし、名実ともに「大正デモクラシー」の理論的な指導者となる。
ここで忘れてならないのは、留学した吉野が下宿の勉強部屋で、本や現地の新聞を読んで情報・知識を集めただけではないことである。彼は三年間のヨーロッパ滞在中、ドイツのハイデルベルクを拠点に、ウィーン、マルセーユ、パリ、ロンドンなど一二都市を巡っていた。そこで彼は、イギリス、ドイツの議会を傍聴したり、欧州各地の労働者のデモ、ゼネスト、社会主義政党などさまざまな政治団体の演説会、キリスト教の集会などに自分で出向いて行った。このような直接見聞の蓄積をもつ吉野は、先進ヨーロッパの政治体制・情勢に当時の日本では誰よりも通じていた。だから、一九一三年に陸軍閥の桂太郎内閣を総辞職に追い込んだ「大正政変」、次いで海軍閥の山本権兵衛内閣の打倒を体験し、さらに第一次世界大戦に参戦し(一九一四年)、ようやく世界の動向、その中での日本の役割にも目を向け始めた日本人の指針たりうる、あの大論文をものにできた。吉野の言葉を使えば、「留学中の見聞が後年の私の立場の確立に至大の関係」(「民本主義鼓吹時代の回顧」)をもった。
彼は、第一次大戦後、世界的に社会主義、労働運動が高揚する中でも、それに理解を示しつつも(「民本主義者は必ず社会主義者であるとは限らないが、然し社会主義者であっても妨げはない」)、安易に迎合することなく、日本の論壇をリードする『中央公論』を主要舞台としながら、『東京朝日新聞』『大阪毎日新聞』『改造』『文芸春秋』『婦人公論』『婦人之友』『我等』『東方時論』『新人』『生活文化研究』などのさまざまな新聞・雑誌への寄稿のほか、全国各地でひんぱんに行なった講演会を通じて、普通選挙の実現、軍部・貴族院等特権層批判、言論の自由の擁護、国際協調・軍縮の推進、政友会の利益誘導型政治批判、中国・朝鮮の民族運動に対する日本国民の理解の促進、などの論陣・運動の先頭に立った。
一九二四年、帝大教授を辞め、次いで入社した朝日新聞社を、筆禍・舌禍事件を口実に四か月後に退社させられた以降は、大正デモクラシーの源流を探る明治文化研究に大きな力を注いでいく。その努力は、「明治史研究全般にわたる資料の宝庫」(『岩波日本史辞典』)といわれる『明治文化全集』(全二四巻・一九三〇年完結)として結実する。
一九三〇年代初め、経済大不況、農村の荒廃、腐敗した政党政治に対する不満などを背景とし、満州事変を転換点とする軍ファシズムの急激な台頭に対して、大新聞が迎合し、無産政党が沈黙する中で、病を押して毅然と論陣に立つが(「民族と階級と戦争」『中央公論』一九三二年一月号では満州事変は自衛権を逸脱していると批判)、一九三三年三月一八日、逗子のサナトリウムで肺結核で死亡した。五五歳であった。余りにも多くの仕事を自らの意志で背負ったがゆえに、「過労死」に近いという人もいる。
吉野の思想的な同志であり、いい意味のライバルでもあった大ジャーナリスト長谷川如是閑は、吉野が死んだ直後、次のように書いた。「多くのデモクラットが滔滔としてファシズムの理論的使徒に堕してしまった今日、吉野氏は敢然としてその民主主義理論の当面の現実政治における役割を死守していたのは、時代の要求でもあったが、氏が志操の人であることを示すものであらねばならぬ」(『長谷川如是閑評論集』岩波文庫)。
〇 盛岡から古川へ
翌七日も朝早くホテルを出て歩いて、そこから三〇〇メートルほどのところにある、北上川にかかる開運橋を渡った。前日、タクシーの運転手さんから「昔の人は、この橋は歩いて渡ると運が開けるといってますよ」、というのを聞いたからである。橋からの帰り道、偶然、川沿いに「啄木であい道」と書いてある細い遊歩道にぶつかった。何気なく入ってみると、そこには、四、五〇センチくらいの高さの啄木歌碑が次々にあるではないか。一五〇メートルほどの歩道のほぼ真中に、一基だけ、二メートルほどの高さの歌碑があり、そこには、「かの時に言ひそびれたる/大切な言葉は今も/胸にのこれど」と、あった。
なぜこの歌が選ばれたのかな、と思いながら左手を見ると、妻節子の歌碑がある。少し行くと今度は、父一禎のそれがいくつもある。そうか、石川「一」は、歌人であった父の血を受け継ぎ、歌をよくした妻に励まされ、石川「啄木」になったのだ、と一人で納得した。後で盛岡観光協会に確かめると、歌碑の数は三二基で、いずれも市民の寄付で建てられ、四年前から遊歩道は今の愛称で呼ばれるようになったということだった。
ホテルに戻り、七時過ぎに盛岡駅から新幹線に乗り約五〇分、古川まで南下した。同市は宮城県北部、大崎平野の穀倉地帯の中心都市で人口七万、ササニシキ、ひとめぼれの発祥地でもあるという。ただ、他所者の目からすると、名山・名川・名跡の類いがないようなので、特色をつかむのが正直いって難しい。著名人としては吉野のほか、彼の東大の後輩で、労働運動の指導者だった鈴木文治がいる。
古川駅からは、新幹線沿いの道を北上すればいいと聞いていたのでタクシーに乗らず、二〇分ほど歩いて吉野作造記念館に九時少し前に着いた。昨日の啄木記念館に次いで、本日も私は最初の訪問者であった。
〇 「チャレンジする」記念館
吉野作造記念館の開館は、七年前の彼の誕生日、すなわち一九九五年一月二九日であった。『河北新報』によると、整備費は一〇億七千万円、鉄筋コンクリート平屋で面積は一七二五平方メートルである。実はこの記念館については数年前に、同館名誉館長の劇作家井上ひさし氏が、「とてもよくできた」記念館で、「ともかく一見の価値があります」と紹介しておられたことがあり(『二つの憲法』こまつ座刊)、それで初めて知った。
記念館に入ると、広いホールの入口のガラスケースの中に掲げられている彼の書に、まず引き寄せられた。吉野は一九二四年二月、東京帝国大学教授を辞めて朝日新聞社に入社したが(その理由は中国・朝鮮からの留学生たちの生活を支える活動のために、給料のよい新聞社を選んだともいう)、彼が朝日新聞社員として行なった講演・評論が司法当局で問題になり、同社から退社を求められて辞めた。この書は、その時期のもので、「人生に逆境は無い。如何なる境遇に在ても天に事へ人に仕へる機会は潤沢に恵まれてある」、とあった。この毅然たる文章と、揺るぎない書体は、何よりも吉野という人をいい表している、彼はこの通りに生き抜いたと思った。
展示ホールでは、アカデミズムの人(東京帝国大学教授)、ジャーナリズムの人(当時最も権威のあった総合雑誌『中央公論』の中心的な執筆者)、インターナショナリスト(中国・朝鮮の民族運動に対する有力な理解者の一人)としての彼の軌跡・役割が、「憲政の本義」の掲載された『中央公論』誌、『ヘーゲルの法律哲学の基礎』『戦前の欧州』『支那革命小史』『二重政府と帷幄上奏』など諸著作の珍しい初版本、当時の彼の行動を伝える新聞記事の拡大コピー、諸事件の記録写真、関係者の顔写真、吉野の書簡、論文の肉筆原稿、関係者の証言などの資料と、簡潔で分かり易い説明文とで立体的に紹介さている。芸術家・政治家と比べると、どうしても地味な「思想家」の全体像を、いかに効果的に、いかに多くの人々のアピールしていくか、というかつてない挑戦がここにはある。
〇 「偉大な組織者」吉野
私が、ここに来て本当によかったと思ったのは、彼が帝大教授・政治学者・評論家であったということだけではなく、「社会運動の種まき人」という側面を、極めて多くの写真、関連した新聞記事のコピー、当時の貴重な文献資料で具体的に教えられたことである。
例えば、彼が設立者ないし、組織化の中心的な役割を演じた団体として、新渡戸稲造も加わった頑冥思想撲滅のための黎明会、理事長となった東大キリスト教青年会、母子の保護・救養事業の賛育会、食料を共同購入する家庭購買組合、作家の有島武郎らと加盟した、新しい生活の仕方を提唱した文化生活研究会、尾崎行雄・島田三郎らとの軍備縮小同志会、日本・中国・朝鮮人からなるコスモ倶楽部、門下生を集めた普通選挙研究会、安部磯雄を委員長とする社会民衆党、それに明治文化研究会などが挙げられている。
大きな展示パネルには、吉野と交流のあったさまざまな分野六〇人の顔写真が掲出されている。もちろん記念館に来る前に、吉野がいくつかの団体の組織者・主唱者であることを断片的には知っていたが、こうした形で示してもらえるのは、大変有り難かった。これだけ違ったジャンルの人たちの写真を集めるだけでも、相当なエネルギーを要したろう。 それだけでない。写真の中には、「お互いの生活の幸福について」という題で、大勢の赤ん坊を背負った婦人たちを前に講演する吉野の姿も、貧民街を視察する吉野たち帝大教授の新聞写真も、あった。また、彼は講演を通じて全国各地の人々と精力的に接した。最も多かった一九一七年には三府一二県、七〇件一〇〇回にのぼったという(『選集』別巻参照)。さらに吉野は、毎週金曜日の夜を面会日として、「学界の名士も来る代わりに、学生や労働者も来る。‥‥誰にも差別を設けずにニコニコして話された」と、教え子の一人は回顧する。社会主義者の白柳秀湖は、吉野を「学者、思想家のガウンを著けた大親分」といった。私はここに来て初めて、近代日本史上類い希な民衆的な知識人、「人間の宇宙」ような吉野作造に出会った。思想的・学問的には、吉野に匹敵する、もしくは凌駕した学者もいようが、「人間的な巨大さ」で彼を超えた人物は日本近代ではいない、と私は断言できる。
彼のこの、自分を必要とする人がいる時、その人のために援助、指導の手をさしのべてやまない態度(彼のいい方では「行く所に於て自分が常に欠く可からざる分子たらん」)の根底にあったのは、青年期に入信したキリスト教の教え(「すべての人を同胞同類と見る」)であったかも知れない。でも私は単純に、古川から北に八〇キロの岩手県花巻の人、宮沢賢治が病床で記した「‥‥東ニ病気ノコドモアレバ/行ツテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母ガアレバ/行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ/‥‥」(一九三一年)を思い出した。一人はキリスト教徒、もう一人は日蓮宗信者という宗教もさることながら、土地の連続性、寒冷地であるが故に、横の連帯がなければ生きられなかった「東北人」の血ということでもあるのか。この「東北人」という発想が、事の本質に迫っているかどうか自信はないが、盛岡から花巻、水沢、一ノ関、古川と列車で下ってこなければ出てこなかったろう。
ともかく、デモクラシーとは政治制度の問題である以上に、人間の生き方、日常的な生活態度の問題であることを、吉野の生涯は示しているように思う。
〇 「勇気の人」吉野
もう一点、彼がまた「勇気の人」でもあることを印象づけられた。一九一八年八月に発生した、有名な白虹(はっこう)事件という『大阪朝日新聞』に対する言論弾圧事件は、右翼による同社社長襲撃事件にまで発展した。吉野はこれに「暴力を加うるが如きは以ての外の曲事である」と『中央公論』誌上で激しく批判した。これに激怒した右翼の浪人会と、彼は同年一一月、立会演説会で一人で対決し、相手を完全に圧倒した。その時の緊迫した様子を伝える『報知新聞』と『毎日新聞』の記事・写真が展示されており、それらを読みながら吉野の勇気にあらためて感銘を受けた。
また、関東大震災(一九二三年九月)で朝鮮人虐殺が頻発した時に、彼は朝鮮人学生の救済に懸命に取り組んだだけではない。その事実を克明に調査し、改造社の『大正大震火災誌』に掲載しようとしたが、「其筋の内閲」はそれを許さなかった。今回の企画展「交流する東アジア〜吉野作造と中国・朝鮮半島」では、その時の原稿の写しが展示されていた。また、吉野が『中央公論』(一九二三年一一月号)で「朝鮮人虐殺事件に就いて」と題した論説を発表したことも紹介していた。彼は、「今度の震火災で多くの財と多くの親しき者とを失った気の毒な人は数限りないが、併し気の毒な程度に於ては、民衆激情の犠牲になった無辜鮮人の亡霊に及ぶものはあるまい。今度の災厄に於ける罹災民の筆頭に来る者は之等の鮮人でなければならない。‥‥手当り次第、老若男女の区別なく、鮮人を鏖殺 (おうさつ) するに至つては、世界の舞台に顔向けの出来ぬ程の大恥辱ではないか」と論じた(『選集』第九巻所収)。こんな発言は彼以外、誰もできなかった。
この企画展では、吉野作造と中国・朝鮮半島の人々との交流が、日本国内はもとより、韓国の文献資料を現地に行って集めるなど、さまざまな側面から紹介されていた。中でも、在日朝鮮人学生に対する吉野の支援については、「のちに韓国女子教育界の先達となった黄信徳も吉野から学費の援助を受けたが、「さながら父のような語調で胸の底にしみいる吉野の力あることば」に深い感銘を受けたという」事実を取り上げていた。これも、ここで初めて知った。吉野という人には、国境も人種もなかった。これはデモクラートの基本的な条件である。
〇 「新しい人」吉野
こうした記念館では、これまでもそうだったが、東京にいては中々手に入らない文献資料にぶつかることがある。ここでのそれが、赤松克麿編『故吉野博士を語る』(一九三四年)と死の直後に出された吉野の文集『古川餘影』(一九三三年)のそれぞれ復刻版で、とりわけ前者では、関係者が吉野のさまざまな側面を語っている。館内を一巡した後、『語る』を拾い読みした。
「よくもあんなに人に対して親切が尽せると思われるほど、親切な人であった」(帝大の同僚牧野英一)、「人間としてあれ程美しい性格の所有者は当代得易からざるものものと常に思つて居た」(大学の教え子鈴木義男)、などの賛辞のほかに、次の二人の評価には、これは同時代人でなくてはできないものだと感心した。その一部を引用する。
清沢 洌(外交評論家)「巨星落つ‥‥‥思想が帯の模様や行進曲と同じに流行であるものならば、吉野氏は正しく過去に属する思想家であつた。かれはマルクスをバイブルのやうに心得ていなかつたし、弁証法を説く度数も流行思想家のやうに多くはなかった。‥‥‥かれの思想の中心はリベラリズムであつた。思想の自由、言論の自由、政治の自由のために、かれは一生を戦ひぬいて来た。‥‥しかし議会においてすらも、言論の自由と、思想の自由が完全でない国においては、自由主義は古いどころか、戦ひは正にこれからであつた。かれが一生戦いまもつた『自由』が比較的に拘束されている時に、そして日本が真とに指導者を要する時に、この愛国の士を失ふことは何といふ遺憾事であらうぞ」。
白柳秀湖(吉野「民本主義」批判の山川均の盟友)「先生のデモクラシーは、旧平民社一派の社会的思弁を再び世に出す為に、頭を打たれては一歩退き、一歩退いては、又、頭を出した剣術の先生のやうなものであった。桂(太郎=首相)、大浦(兼武=内務大臣でともに言論圧殺の張本人‥‥小沢)等の為にその手足を緊縛して生きながら地中に埋められて居た旧平民社系の社会主義者等は、「吉野作造」というデモクラシーの先生を「お面お面」と竹刀で打ちつづけながら、縛られて居た手足の鎖を断ち、桎梏を棄てて、地上に躍り出したのであった。彼らが「山川均」「高畠素之」の本名で堂々とその思想を発表し、時に或いは原稿料の相場を狂わせるほどの売れっ子となることの出来た一面には、頭を打たれては一歩退き、一歩退いては又、頭を出した、瘤だらけの「吉野作造」の居たことを忘れては相済むまい」。
吉野が前に出て発言し、奮闘したから、山川均ら社会主義者が出てくることができた。実は、一九六〇年代の学生時代、私が日本の社会主義思想に関心を持った時、中江兆民を外していきなり幸徳秋水から出発し、大杉栄、河上肇、山川均らに飛び、講座派で済むと思っていたものである。これら四人の自伝・伝記類は、感動をもって読んだが、吉野などまったく過去の無関係の人と思っていた。著名な近代史研究者田中惣五郎の評伝『幸徳秋水』『北一輝』は読んだが、うかつにも『吉野作造』があることを知らなかったし、知っていても読まなかっただろう、と思う。
しかし、一九九〇年代初頭、世界では「社会主義」体制が崩壊し、日本では、戦後の政治運動と労働運動のコングロマリット「日本社会党」が決定的に退潮した後、日本の、民主主義・政党政治・社会運動・対アジア関係を根底からとらえ直す気運が起き始めた。一九九五年一月に「吉野作造記念館」が誕生し、同年五月、吉野とは余り縁のなかった岩波書店から『吉野作造選集』(全一六巻)の刊行が始まったのは、偶然ではなかった。要するに、民主主義という骨格の欠如した社会主義、社会運動は所詮ひ弱で、資本主義の敵にもなりえなかった、ということであろう。民主主義は、永久革命的な課題である。
〇 吉野「大衆化」への努力
この記念館では有り難いことに、閲覧・研究用のスペースも十分に確保されており、吉野関連の膨大な蔵書が閲覧できる。彼の代表作で、これまで読んだことのなかった「帷幄上奏論」「枢府と内閣」、彼が『Japan Speaks for Herself』に書いた「Our Changing Life and Thought (『日本の自己主張』「変貌する生活と思想」とも訳せる)のコピーをとっていただいた。また田中昌亮館長と研究員の田沢晴子さんは、私のいくつかの素朴な質問に答えてくださるとともに、記念館開館準備の過程での文献収集にまつわる興味深い話を聞かせてくださった。
結局、ここには五時間いた。確かに美術家・文学者の場合と違い、こうした思想家の展示内容には見た目の華やかさはない。この館の担当者の方々は、企画展・セミナー・講演会の開催、マンガの吉野伝『蒼穹色のまなざし』、エピソード集『作ちゃんこぼればなし』のような親しみやすい紹介印刷物の作成、紹介ビデオ「われらが同時代人吉野作造」の公開など、大変な努力をしておられようだ。しかし、こちらがその気になれば、ここには実(得るもの)は無数にある。ここは、いわば日本の「民主主義の学校」である。多くの人、とくに若い人に訪ねてほしいと思った。
帰りの列車の中で吉野が、一九二二年二月に『東京朝日新聞』に連載した「帷幄上奏論」を読んだ。この論文で、吉野は遂に明治国家の根幹(内閣と軍部の二重政府)の批判にまで踏み込んだ。勇気ある帝大教授とリベラルな朝日新聞の同盟関係の成立、だから権力は総力を挙げて吉野を朝日新聞社から追放した。要するに、一九一三年の「大正政変」で始まり、吉野の『中央公論』論文「憲政の大義」(一九一六年)で理論づけられ、原政友会内閣(一九一八年)の成立でさらに前進した「大正デモクラシー」は、原の暗殺(一九二一年)でぐっと退き、加藤・山本両軍閥政権の再登場、次いで吉野の朝日退社(一九二四年)で終わった、という見方もできると思った。
W 東京の三人
〇 横浜の「新聞ライブラリー」
帰ってから、この原稿を書き始め、これまでに集めた文献・資料を読み返したり、新しい資料を探したり、記念館で見逃してしまった点などについて、現地に電話で問い合わせをするなどしていたが、年の瀬もいよいよ押し迫った一二月二七日、今回訪問した記念館に関連した地元の新聞記事をぜひ読みたいと思い、横浜市中区にある「新聞ライブラリー」に出かけた。ここは、二年前の二〇〇〇年一〇月にオープンした「日本新聞博物館」の併設施設で、日本全国の新聞の創刊号から最新号までを収集・保管しており、それらを誰でも無料で閲覧できる、いわば新聞の専門図書館である(JR関内駅から徒歩で約一〇分)。
この日も朝出かけるとき、例のまだ読了できていない啄木の『ローマ字日記』を持参して、電車の中で読んだが、なかなか進まない。新聞ライブラリーでは、マイクロリーダーの使い方も何回か来て慣れてきていたので、『岩手日報』と、仙台で発行されている東北ブロック紙『河北新報』の該当項目をさがし、コピーする作業は三時間ほどで終わった。
それにつけても、岩手日報社の、啄木をはじめとする郷土のすぐれた先達に対して払う敬意、傾注には頭が下がる。同社は、すでに引用した『岩手の先人100人』、『復刻版人間啄木』や、『岩手の宰相“秘話”』、原敬、啄木、宮沢賢治らを取り上げた『まんが岩手人物シリーズ』を出版しているばかりではなく、「岩手日報文学賞・啄木賞(賢治賞も)」を一九八六年に設けて現在の啄木研究を一方から支え、その最新動向についても、今年四月に台湾・高雄市で開かれ、日本・韓国・台湾の研究者が参加した第一三回国際啄木学会を三回シリーズで詳しく報道していた。なお、七年前(一九九五年八月)の岩城之徳氏の死去の報道では、東京の『朝日新聞』は社会面のべたの死亡記事だったが、『岩手日報』は夕刊の一面で「啄木研究の第一人者」の死を取り上げ、「心が広く研究者としての厳しさもあり、偉大なリーダーだった」など関係者の談話も加えて大きく報じていた。人のことは余りいえないが、東京人の視野の狭さが情けなかった。
『岩手日報』はまた、かつて社説で原敬記念館完成の意義を論評していた。「‥‥原敬は明治維新に賊軍の名を冠せられた南部藩の出身として、薩・長を中心とする藩閥の横暴には苦しめられた。そして一歩一歩、ねばり強い戦いを通じて、ついにその息の根を止め、ともかく日本の政党政治を軌道に乗せ、日本の政治史に一時期を画した。‥‥もちろん、現代の民主政治の考え方からすると、その感覚にはズレはある。例えば第四二議会において普通選挙法案に時期尚早として猛然として反対して押さえたことなどで(ある)。‥‥こうした時代的制約から現在の「民主政治家」というものとの間のズレは免れないが、政治の前進のために、既成の権威との闘争のおける反骨と情熱は、時代が変わってもその尊さは変わりがない」(一九五八年一〇月二〇日)。今も大切な見方だと思う。
ともかく、新聞の調べが思ったより早く済んだので、啄木がローマ字日記を書いていた「HONGO-KU
MORIKAWA-TYO GAIHEI-KAN-BESSO 本郷区森川町蓋平館別荘」 を探してみよう、その後、遅い昼飯を東大正門前の懐かしい「森川食堂」でしようと、思った。
〇 本郷へ
関内から京浜東北線に乗り東京駅で降り、地下鉄丸の内線に乗り替えて本郷三丁目駅で下車した。そこから歩いて約一〇分、東大赤門の前に来たら急に構内に入ってみたくなり、三〇数年ぶりに門の脇戸を潜った。大学時代に何よりも世話になったが、今や建物の外装が相当傷んでいて見るに忍びない東大図書館と、吉野作造の研究室がおそらくあったであろう法文1号館の前にしばらくたたずんだ。「大正デモクラシー」とは、吉野をリーダーとする「学閥」、原を中核とする「政党閥」、啄木もいた朝日新聞社が旗手を勤めた「言論閥」という、三者の自然発生的な連合軍と、藩閥・軍閥の熾烈な戦いであった、という思いが過った。
それから正門に出た。本郷通りを渡り、真向かいの路地(本郷宮前通り)に入り、すぐのお店で尋ねたら、蓋平館別荘のあった場所は、今は太栄館(文京区本郷六−一〇−一二)という旅館になっていて、その玄関前に案内板が立っていることを教えてくれた。細い路を二五〇メートルほど行くと、その旅館はあって啄木歌碑も建っていた。文京区教育委員会による案内板には、啄木は一九〇八年に上京し、五月には金田一京助の居た本郷区菊坂町の下宿「赤心館」に身を寄せるが、下宿代が滞り、金田一に救われて九月六日にこの地にあった蓋平館別荘に移った。この三階から「富士が見える」と喜び、ここで、小説「鳥影」を書き、雑誌『スバル』も編集していたので、木下杢太郎、北原白秋らが訪ねて来たりしていたが、翌年六月、家族が上京してきたため、本郷弓町の「喜之床
(きのとこ) 」に移った、ここでの生活は九か月であった、とある。赤心館と喜之床の旧所在地の地番も書いてあったので、そこに行くことにした。
歌碑には、赤心館で作られたという、「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる」が、刻まれている(この碑では「われ」は「我」、「たはむる」は「たわむる」となっている)。この本郷界隈は、なんといっても当時から日本の最先端をいく学問の府、東京帝国大学の教官・学生が行き来し、住む街であった。欧米の先進的な思想・技術は大部分、ここを源泉にして日本全国に広がっていった、といってもそれほど間違いではないだろう。学部を問わず英独仏語の、少なくとも二つ以上ができない者は、ここには残れなかった。仙台から上京し帝大生になった吉野が、その私邸を訪問した教授は開口一番、「君はドイツ語が達者に読めるか」ときいたという。吉野は三か国語をマスターしたどころではなく、イタリア語、エペラント、ロシア語の「稽古」(彼の言葉)までしていた。
この、どう考えても海とは縁のない本郷の「東大圏内」に啄木を置いてみると、彼があくまでこの地に居座り、英語・ドイツ語の勉強に励んでいたことも理解できたし、彼の歌った東海の小島の「蟹」は「蟹文字(欧文文字)」、という説も相当説得力がある、と思えて仕方がなかった。なお、この地区の町名が森川町から本郷六丁目になったのは一九六六年であるが、地元の人々は今なお「森川町会」を使っている。その気持ちは、森川町で三年間学生生活を送った私には、よくわかる。
喜之床に行く前に昼食をとろうと思った。例の食堂は、「もり川食堂〜東大生とともに明治から」と看板にあったが、午後三時を過ぎていたので「準備中」であった。表に張られた看板には、全面改築のため営業は今年いっぱいで、来年九月に新装再開すると書いてあった。そこの近くに新聞販売店があったので、オルガノ株式会社(赤心館のあった場所)への行き方を教えてもらった。五分ほどでそこに着いたが、当時を忍ばせるものは何も見当たらなかった。蓋平館別荘からの距離は、直線では三〇〇メートルほどであろうか。そこから五〇メートルほど戻り、右の坂道を上ると、目の前の広い春日通りをはさんで、「喜之床」があった。
現在、そこにあるのは「理容アライ」(文京区本郷二−三八−九)で、この店の外壁に文京区教育委員会による案内板が掲げられていて、啄木は、ここにあった喜之床という新築間もない理髪店の二階二間を借り、一九〇九年六月から家族そろっての生活を始めた、「五人家族を支えるための生活との戦い、嫁姑のいさかいに嘆き、疲れた心は望郷の歌となった。そして、大逆事件では社会に大きく目を開いていく。啄木の最もすぐれた作品が生まれたのは、この喜之床時代の特に後半の一年間といわれる」、ここでの生活は二年二カ月、一九一一年八月、本人と母・妻の病気のため、小石川の宇津木家の借家に移った、とあった。
一九〇八年に新築された喜之床の建物は、大震災・戦災を生き延びたが、一九七八年に解体され、一九八〇年に愛知県犬山市にある博物館明治村に移築され、往時の姿をとどめているという。これは書いてなかったが、一九六五年にオープンした、明治時代の価値ある建築物を移築して展示する「明治村」の設立者、運営のリーダー(初代館長)は、啄木と所縁の深い木下杢太郎の友人、建築家谷口吉郎であった。
喜之床の裏手の路地を右側に五〇メートルほど行ったところに、吉野の属した日本キリスト教団弓町本郷教会があった。風格のある建物で、そこの方に、「ここに吉野作造はいたのですか」ときいたら、この建物は七六年前(一九二六年)に建てられたもので、吉野が青年時代に出入りした教会は別のところにあった、という答えであった。啄木と中国から帰って間もない吉野の二人が、時々道ですれ違っていたという夢は一瞬に消えた。
その後新宿に地下鉄で戻った。京王線に乗るため西口の地下広場をよぎっていると、ホームレスの人が三、四人、例の段ボールをの上で寝転んでいた。少し行くと、救世軍の四人のメンバーが、アコーディオンを弾き賛美歌を歌って、「社会鍋」への献金を募っていた。気持ちばかりのお金を入れると、リーフレットをくれた。それには、社会福祉事業で知られるキリスト教団体である救世軍が、失業者救済対策として街頭募金運動を始めたのは一九〇九年で、現在では街頭生活者への支援活動に力を入れている、とあった。その開始の年に、啄木は東京で家族との生活を始めた。あれから九三年、失業・貧困と善意は今も変わらないということのなのか。考えさせられた。
ところで、谷口吉郎は一九七九年に亡くなっているが、彼が喜之床の移転・復原にどう関わっているか気になったので、翌二八日、八王子市立中央図書館に行って彼の著作集を調べたら、次のようにあった。「東京文京区本郷の床屋「喜之床」は石川啄木がその二階に下宿したので、文学上にも、また明治期の町屋建築としても貴重なものであるが、都市計画のため取り払われることになったので、その移転保存にも尽力せねばならぬ。このように私たちの仕事はいつもいそがしい」(「博物館明治村」一九七六年『谷口吉郎著作集第一巻』)。「明治村」の最新資料によると、現在、移築・復原された価値ある歴史的建造物は六七件、うち国の重要文化財に指定されているもの一〇件。中には原敬の最大の支援者の一人、元老西園寺公望の別邸「坐漁荘
(ざぎょそう)」もある。考えてみれば、原も啄木も吉野も、欧米の「新しい思想と技術を取り入れた」明治村の代表的な住民であった。谷口の「明治村」はまた、吉野の編集した偉大な『明治文化全集』の建築版といってよさそうである。
また別の巻で谷口は、原敬記念館のことも書いていた。一九二一年一一月四日深夜、当時北陸の金沢に住んでいた谷口青年は、「首相暗殺」の号外に強烈な印象を受けた。それから三五年後の一九五六年の春、原敬記念館の設計を依頼された谷口は、その秋、盛岡市本宮の地に立つ。「その政治的活動は藩閥とたたかい、軍閥に対抗して、政党政治を確立しようとするものであったが、惜しくも兇刃にたおれた。私はその政治家のための記念館を設計するために、その生家の屋敷跡に立っていたが、あたりはもの淋しい。古びた庭の池には水がよどみ、岸に一軒の母屋が残っている。その草ぶきの屋根も風雨に損傷を受けていて、廃屋の寂寥感が私の身を包む。なおも立ちながら周囲を眺めていると、私の青年期に、深夜、首相暗殺の悲報が人々を驚かせた号外の鈴の響が、私の耳に近づいてくるような気がしてきた。それによって緊張感が呼びさまされ、近代の政治史に悲壮な死の刻印を残した首相にふさわしい記念館をこの生誕の地に作りたいと、私は身をひきしめた」(「記念館散歩」『谷口吉郎著作集第三巻』)。
あの旧家の木の門を活かした記念館の正門から石塀、庭園、建物、句碑、陳列室、さらに奥のガラスケースの中の暗殺時の服装姿の再現に至るまで、この記念館全体の構成と展示の見事な有機的一体性は、谷口の仕事であった。建物だけではなかった。こんな基本的なことも知らずに過ごすところであった。
〇 終焉の地
ここまで来ると、もう三か所訪ねないと気がすまなくなり、二九日の朝家をでた。最初に訪れたのは、文京区の啄木終焉の地(小石川五−一一−七)である。地下鉄丸の内線茗荷谷駅を降りて春日通りを後楽園方向に歩き、小石川五丁目交差点を左に折れて、「播磨坂」という坂を下って三つ目の信号のある交差点(向いの角に鮨屋あり)を左に折れ、五〇メートルほど行き、初めの角を左に折れ一五メートルぐらいのところに石碑が立ち、案内板があった。閑静な住宅街の一角である。
二メートルを超える高さの石碑には、「都旧跡 石川啄木終焉の地」とあり、東京都教育委員会の案内板には、啄木は一九一一年八月七日、本郷弓町の喜之床二階から、この地の借家に移り、翌年四月一三日の逝去まで居住した、「移転時には既に病床にあって、文学的な活動はなかったという」とあった。あの姫神山の南麓日戸で始まった詩人の人生は、ここで終わった。明治国家は、陸奥の山村の少年に、学校・交通機関の全国整備により世に出る大きなチャンスを与えたが、青年啄木の家族にまといついた貧困、彼らと吉野作造の命を奪った結核に対してまったく無力であった。吉野は実際、「下層階級の生活問題などと云うことは、殆ど全く、政界の顧みるところとなっていない」と憤っていた。
しかし、後世は啄木を国民的な歌人として哀悼し敬った。帰り道、二〇〇メートルくらいの上りの坂道をたどりなら、妻の節子さんは、啄木の給料を毎月新聞社に貰いに行く時などにこの道を通ったかも知れない、彼女自身も結核という病いを抱え、しかも次の子を身籠もっていては(六月誕生)さぞかし大変だったろう、と思った。石碑から駅までは一二、三分であった。これも後で知ったのだが、節子さんが函館で亡くなってから六年後、原敬内閣は一九一九年、「(当時)年間八万人以上が死亡する恐ろしい病気であった」結核対策の画期的な新法として、「結核予防法」を成立させていた(菊池武利『政党人・原敬』岩手日報社刊)。かつて欧米視察で、病院も見学していた原敬が思い出される。原敬内閣は、その意味でまったく新しい政府であった。
次に行ったのは、JR東京駅丸の内南口の「原首相遭難現場」であった。改札口に向かって左に一〇メートルほどの床面に、彼が襲われた場所の小さな標識があり、その近くの壁面に解説パネルが掲げられていた。それに注意する人は、いつもそうであろうが誰もいなかった。書き写してきた内容を、今あらためて記すに忍びない。盛岡の本宮に生まれた政治家は、八一年前ここで倒れた。決してあってはならない死であった。なお、この場所は東京駅構内の派出所で教えてもらったが、その時お巡りさんは、原敬暗殺から九年後の一九三〇年一一月に、浜口雄幸首相が狙撃された場所も指し示してくれたが、この日はもう行く気にはなれなかった。
この日最後に訪れたのは、銀座六−六の朝日新聞社跡地(昔この辺りは京橋区滝山町といわれた)に建てられている啄木歌碑である。いかにも都会的なセンスのブロンズ製の歌碑には、啄木の顔のレリーフがはめ込まれ、「京橋の滝山町の/新聞社/灯ともる頃のいそがしさかな」とあった。啄木没後六〇年を記念して、一九七三年四月に建てられたという。岩城之徳先生の由緒文が書かれ、裏面には啄木鳥の姿が刻まれ、「銀座の人これを建つ」と記されていた。
啄木が九二年前、一九一〇年に作った歌、『一握の砂』に入れなかった三首をここで追加したい。
何となく顔がさもしき邦人の首府の大空を秋の風吹く
時代閉塞の現状を奈何にせぬ秋に入りてことに斯く思ふかな
地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く
私にとって、近代日本の三人の偉大な先人に対する、記念館を通じての旅は、岩城・谷口というすぐれた先達との思いがけない出会いも加わり、これで一応終わった。次は、彼らの著作、とりわけ日記をじっくり読み込んでいこう、と思う。
〈参考 三つの記念館と新聞ライブラリー〉
各館の展示内容、開館時間、閉館日、交通などについては、インターネットで入手できます。
〇 石川啄木記念館 п@019−683−2315
〇 原敬記念館 п@019−636−1192
〇 吉野作造記念館 п@0229−23−7100
〇 新聞ライブラリー п@045−661−2041