→目次
本稿は加筆して、さらに読みやすい敬体文に書き改め、新刊『先生、出番です-担任教師のふれあい指導−』(アマゾン)の中の第3部第2章として、収められています。
先生、出番です(2)
ーいじめ女子中学生の集団的指導法:教師加害者論から考える集団的指導ー
はじめに
(1) 教師の姿勢や態度がもたらすいじめ
1) 学校・教師加害者論
2) 求められる教師の内省・反省・柔軟性
@ 教師への感動、しかし……
A いじめの発生
B 学級の破壊
(2) 集団的指導法
@ いじめ問題への意識変革
A 人権感覚の涵養
B 自治意識・自浄作用の育成
1) 訓話
2) クラス討論
3) 決議文・宣言文
4) ロールプレイングとモデリング学習
@ ロールプレイング
A ビデオなどの観察・モデリング学習
学級全体を対象にした集団的指導を必要とするようないじめ問題が生じている時、教師がいじめ発生の大きな原因として関わっていることが少なくない。もし、そのような場合であるなら、生徒たちに対するいかなる働きかけもけっして効果を挙げないばかりか、いじめ問題をかえって複雑化し、深刻な段階に追い込むことになる。ここではまず、いじめに関わる教師加害者論から入って、いじめの集団的指導を考えていくことにする。
はじめに
本節のテーマは「女子中学生の集団的指導法」。そして執筆依頼内容は、「女子中学生の間でいじめがあったとき、教師は学級全体としてどのように対応しどのように指導をするか、具体的な方法をあげ、その効果について解説する」であるが、「学級全体に対する指導」となれば、少なくともひとつの大きな前提がある。
それは、個別指導だけでは足りず(あるいは不安で)、学級全体に対する指導が必要とされるようないじめが生じているからには、問題は生徒の側だけでなく、多くの場合、教師の側にもかなり大きないじめ発生要因がある、ということである。すなわち、当該いじめは、教師の資質、指導形態、あるいは学級経営のあり方などと密接な関わりをもっている。
そこで、執筆の前に、参考のため、同様主題に関わる文献(雑誌・単行本)をいくつか開いてみた。が、どの文献もみなストレートに、「いじめについてクラス討論をする」「生徒全員にいじめが人権問題であることの認識をもたせる」「いじめに対する毅然たる態度を示す」「家庭訪問を徹底して行い、いじめ根絶の協力を得る」……等々、生徒集団に対する指導方法を述べるだけで、教師の側の問題点にふれたものはない。
教師側の反省や内省を伴わない、このようないじめ問題への取組は、いじめ解決に役立たないばかりか、むしろ当該いじめ問題を複雑化し、悪化させるもとともなる。何故なら、もし生徒に対する教師の態度や姿勢がいじめ誘発の大きな原因であったとしたら、そのような教師がリードするクラス討論や“毅然たる態度”は、かえって生徒たちがもつストレスやフラストレーションを増幅し、問題の根を大きくしていくものだからである。
いじめを生徒および家庭の問題としてのみ取り上げ、教師の問題と関わらせることのないやり方は、片手落ちというより、むしろいじめ問題に対する洞察力の欠落や理解の浅さを示すものといえるであろう。
本稿では、まず、教師側の問題点から触れて、「集団的指導」を考えていくことにする。
(1) 教師の姿勢や態度がもたらすいじめ
1) 学校・教師加害者論
「担任の先生との人間関係がうまくいかないために、子どもが登校拒否になりかけています。先生になんとか態度を改めてもらえればと思っているのですが、どのようにもっていったらよいでしょうか。」
これは、もう10年ほど前のことになるが、中学生を子どもにもつ母親の、NHKラジオの電話教育相談における相談・問いかけである。これに対する著名な某教育評論家の回答に驚かされた。
「昨今の学校・教師の資質の低下は目を覆うばかりです。今日、そのような学校・教師に期待できるものは何一つありません。それどころか、教師は子どもを傷つける存在以外の何者でもないのです。今や親の最も基本的で重要な役割は、学校で大きな傷を受けて帰ってくる子どもたちを如何に家庭で癒してやるかにつきています。お母さん、先生に変化を期待するなど無駄なことは止めて、お子さんを守る手だてこそ考えようではありませんか」
もちろん、学校・教師にばかり責任を求め、他罰的に過ぎる昨今の保護者や世間に対して、反省や内省を促す逆説的な意味あいもあったと思われるが、それにしても、続発する児童・生徒の問題行動に毎日悪戦苦闘している現場の教師にとってはなんと許しがたい<雑言>であろう。が、しかし、第三者となって冷静に見渡してみれば、それがけっして一方的な言い様ではないことがすぐに分かる。
教師が直接、間接に生徒を傷つけ、そこからいじめを呼び起こして、間接的に<加害者>となる例は、実は枚挙にいとまがない。
例えば、
@ 反抗的な女子生徒に対して、授業中に指名しないなどの教師からの<シカト>が続いた結果、彼女をリーダーとするスケバングループが発生、とりわけ教師に従順な女子生徒へのいじめが始まった。
A 信賞必罰の精神でときには体罰をも辞さない先生のクラスで、忘れ物をする・勉強ができない・泣き虫であるといった弱者や異端者に対して、仲間がいる・勉強ができる・腕力が強いといった<上位者>による集団いじめが横行した。
B 順位づけられたテスト結果が頻繁に公表された結果、成績ヒエラルキーが生まれ、フラストレートした<できの悪い>生徒の中からいじめグループが発生して、特に躰の小さな知的障害の生徒への執拗ないじめが続いた。
これらはけっして特別な事例ではなく、似たようなケースはどこにでも転がっている。さらに一層普遍的なものは、<良い子>だとか<問題児>だとかで教師から<特別な>扱いを受ける子どもがいじめの標的にされる場合である。先年起きた愛知県西尾市におけるO・Y君<いじめ自殺>事件も、何ら異なる事例ではない。本来、集団として指導されるべき問題児グループの中からO・Y君だけが生徒指導の格別な対象とされたために、その<問題児>としての<ラベリング>が仲間内での格好の標的となって浮かび上がり、ほとんど周囲の同情や関心を呼ばない特異な人間関係(問題児グループ内、加害者−被害者関係)の中で孤立無援になって自殺へと追いやられたのであるが、このように学校での指導が呼び水になっていつ不測の事態が起きるかもわからないのが今の子ども社会なのである。
2) 求められる教師の内省・反省・柔軟性
しかし不思議なことに、生徒指導といじめの深い関わりについては、事程左様には冷静・客観的に認識されることもなく、一部に批判する声が上がっても、「シカトするのも反省を促すため。信賞必罰は善悪や行動の基準を教えるため。成績を公表するのは学習を動機づけるため……」と、こうした指導に対する「生徒からの反作用」や「周囲の生徒の反応」との因果関係を見落として、生徒指導の<熱意>だけ高まり、いじめ誘発の悪循環に陥るのが常である。これはまさしく、教育の世界の悲劇的な<落とし穴>と言えるだろう。
いじめの源が教師にあるとする「教師加害者論」を認めることは、私たち教師にとってはまことに辛く、屈辱的でさえある。しかしながら、さしたる疑問もないまま行われる通常の生徒指導のあり方がある種の子どもたちを孤立させ、あるいは集団化させて、いじめられっ子やいじめ集団を作り上げていることは、紛れもない現実である。
教師がいじめの大きな要因になっているというこの厳粛な事実を直視することなしに、今日のいじめ問題の解決はけっして得られない。とりわけ、学級全体に対する指導が必要なほどのいじめ問題が発生したときには、教師たるもの、まずはおのれが要因として当該いじめの発生にどのような関わりをもっているかを虚心に内省し、反省してみなければならない。そして、生徒に対する姿勢や態度を変容していかなければならないのである。
例えば先述@の事例では、授業外での生活指導場面のネガティブな関係性(叱る−叱られる)を授業場面に持ち込むことなく、むしろ学習場面を新しい生活指導の場面として捉え、それまでとは異なる受容的、親和的な態度で接することこそ肝要である。教師のこのような大らかな態度は、とりわけ当該生徒が母子家庭であったり父親からの愛情欠損があったりして父親像への希求・飢餓感が大きいときには、生徒の側にドラマティックと言えるほどの態度変容が生まれて生徒−教師関係が好転し、確かないじめ指導のきっかけをもたらすことがある。前節の事例3・4はその好例であるが、こうした現象は、たくさんの臨床事例によって広く知られるところである。
とはいえ、教師の変容に基づく新しい指導が行われるか否かは、すべては、教師の謙虚な内省と反省が行われるか否かにかかっている。また、たとえ教師がいじめ誘発の要因としての自己のあり方に気付いたとしても、面子にこだわり、あるいは柔軟性に欠如していたりして、それまでのあり方を変えられないとしたら、問題解決への道は開けない。一般的に言って、教師はいじめ誘発の要因としての自己のあり方に気付かないし、また気付いたとしても、生徒に対する接し方や指導のあり方を変えることは容易ではないのである。
しかし、自己を内省し反省するという教師の謙虚な姿勢がなければ、学級討論会といい、毅然たる態度といい、家庭訪問といい、生徒たちに対するどのようなアプローチも、それは何の効果もあげないばかりか、むしろ有害な結果を招くことさえ少なくない。これは、いじめ指導を行うすべての教師にとって、常に念頭に置いておかなければならないことがらである。
<事例>
@ 教師への感動、しかし……
農作物を作る農家も混在してのどかな田園風景も色濃く残る東京都下の中学校へ、若い英語科女性教師Aが赴任してきた。彼女は3年A組を担任することになったが、第一回保護者参観日に、生徒を前に保護者に向かって担任としての決意を語った。
「素直な良い子ばかりそろったクラスを担任することになって、大変喜んでいます。ただ、高校受験の年だというのにのんびりした生徒が多く、前の学校で担任したクラスとはまったく雰囲気が違います。この点が気懸かりです。他の先生方は知りませんが、また他のクラスの時はやりませんが、私はこのクラスの英語の時間に限っては、担任としてきびしく指導していきたいと思っています。英語は、新しい単語や文法など、どんどん覚えなくては先に進めない教科です。そして受験にとって大変重要な科目です。だから私は、宿題を頻繁に出し、週に一度は試験をして一位から最下位まで順位付けした成績結果を各自に知らせ、頑張らせたいと思っています。英語ができないとなると、よい高校には入れません。英語でつまづくと、受験はもう駄目だと、落ちこぼれることさえあるのです。ご家庭でのご協力をお願いいたします」。
保護者は感動し、生徒たちは奮い立った。A教師の教え方は熱意に満ち、また分かりやすかったので、こと英語に関しては熱気が高まり、生徒たちは熱心に勉強に取り組むところとなった。・月初めの家庭訪問では、どの親も子どもたちが熱心に宿題にも取り組んでいるということで、教師へ感謝し、高校受験への期待を高めていた。A教師は満足し、自分の指導力に自信を深めていった。
A いじめの発生
ところが、一学期が半ばを過ぎた6月の初め頃から、クラスの雰囲気があやしくなってきた。授業を受ける態度に熱気がなくなり、宿題をやってこない生徒が出始め、それを注意するとあからさまに反抗する生徒が現れた。初めA子、次いでB子。A子は男子生徒ともつかみ合いのけんかをする気性の激しい子、B子はむしろ気弱な性質だが、1年の時からA子と親しく、一緒にいると口数も多くなる。 やがてA子は、授業中に質問されても、考えようともせずにオーム返しに「分かりません」を連発するようになった。それに対してA教師は、質問するとき、わざわざA子を飛ばして前後左右の生徒を指名するという“しめし”をつけて教育的処置とした。A教師とA子・B子の関係は悪化し、夏休み前の7月に入った頃には、二人は担任教師に対して挨拶をしなくなり、A子などはすれ違い様にA教師に躰をぶつけるなど、露骨に反抗的態度を見せるようになっていった。
そのころ、クラスの中で二つのいじめが発生していた。一つは、おとなしくて成績が良く、A教師から何かと授業中に質問され賞賛されるC子に対する“持ち物隠し”と“シカト”、もう一つは、ひときわ躰も小さく知的障害も見られるD男に対する“からかい”と小暴力。しかし、被害生徒からの訴えがなく、A教師は、夏休みに入って家庭訪問を行ったときに保護者から聴かされて初めていじめの存在を知った。
A教師は、夏休み明けの初日に、ホームルームの時間を使って、クラス全員に(被害者の名前は伏せて)いじめの存在を告げ、訓話を行い、併せて英語学習の徹底を呼びかけた。しかし、いじめは解消せずに、C子が泣いて訴えてくるようになり、D男は登校してこなくなった。A子とB子はA教師に対して相変わらずの状態で、むしろ挑発的な態度が目立つようになってきた。クラス全体の雰囲気は、学年当初の熱気は嘘のように消えて、進学意欲に燃える一部の生徒を除き、投げやりな、無気力な学習態度を示す者が支配的になってきた。
B 学級の破壊
9月に入りA教師は、いじめられている生徒の名前を挙げて、いじめについてのクラス討論会を開いた。が、いじめが行われていることを認める者は皆無で、C子の思い過ごしとD男の怠け癖をあげる者が圧倒的で、揚げ句に、A教師の“えこひいき”や“好き嫌い”を言い立てる者が出るなど、まるでいじめの被害者(C子・D男)と担任教師を糾弾するかの如き会となり、収拾のつかない散々な結末となった。
この日を境に、担任クラスの生徒に対するA教師の指導力は完全に奪われていくことになった。A子とB子は口紅を塗り、ピアスを填めて登校するようになり、授業中勝手にトイレに出たり、おなかが痛いなど言って保健室に行って帰ってこなかったりする。E男・F男・G男らは授業中に露骨に居眠り・私語をくり返して授業を妨害する。そして、担任がA子やB子を少しでも注意すると「いいじゃん、授業が面白くないからじゃん」と野次を入れたり、紙飛行機を飛ばしたりして応援する。注意すればするほど反抗はひどくなり、A教師はたまりかねてついにA子とB子の二人を出席謹慎処分にすべく、校長に申し立てた。しかし、ちょうどその頃、クラスのPTA役員を中心に保護者たちから学校側に、教室が荒れている、真面目な子が勉強できず大きな被害を受けている、教師の指導力に問題があるなどの理由で、A教師をクラスと教科の担任からはずして欲しいとの強い要望が出されていた。
A教師が赴任し、担任になってから、わずか6ヶ月後の出来事である。
初めは、生徒も親も、それまでに見たことのない意欲的な教師に出会って圧倒され、感動した。一番から最下位まで順位づけされた資料に動機づけられ、生徒たちは競って勉強し、クラスは沸き立ち、熱気に溢れた。しかしやがて、誰ができ誰ができないと序列がきまるようになると、どうせ駄目だとやる気のない子が次第に増えて、いじめやいたずらが生まれ始めた。
教師は極めて教育熱心で、しかも全くの善意であった。しかし、自分の教育姿勢がいじめを誘発していることの認識はどこにもなく、生徒らの心情を理解することなく、やみくもに生徒を反省させていじめを解消しようとしたために、逆にいじめを強化させ、教師への不信を強くして学級破壊にまで導いている。結果的には教師も被害者であるが、登校拒否になった生徒ばかりでなく、いじめの加害者、さらにはそれを傍観して助けようともしないクラスの子どもたち全員が、その歪められた心の発達という観点から言って、みな被害者、裏返せば即ち、教師が加害者なのである。
このように見てくれば、教師が意図的であるか否かに関わりなく、<教育>という名のもとに、子どもたちが学校・教師による<加害行為>に日常的にさらされていると言っても、けっして過言ではないであろう。
(2) 集団的指導法
クラス内のいじめ問題を、いじめる側・いじめられる側の当事者だけに限った指導、すなわち個別的指導だけでは解決できない場合、あるいは不充分な場合には、クラスの全生徒を対象に「集団指導」を行うことになる。この集団指導の目的は、大きく以下の3点にまとめることができる。
@ いじめ問題への意識変革
自分とは関係ない、いじめはみんながやっている、大したことではない、やられる人間も悪いのだ、といったような「いじめ」の温床になるような気持ちのあり方を変え、いじめ問題は生徒ひとりひとり、そしてクラスにとって重大な問題であるとの問題意識をもたせること。
A 人権感覚の涵養
できる子もできない子も、弱い子も変わった子も、どのような子どもも皆平等な人間存在として尊重されねばならないといった、人間一人ひとりを愛し、尊重する気持ちを育てること。
B 自治意識・自浄作用の育成
どのようにしたらいじめを予防し、解決・解消していくことができるか。悪や不正や暴力を憎み、それと戦う気概を育成して、子どもたち自らがいじめと取り組む姿勢を醸成すること。
本稿では、こうした目的を達成するために一般によく行われている方法を概説するのであるが、その前に、いじめ問題にくわしい深谷和子氏の、担任教師によるいじめ介入の成否に関する見解を紹介しておきたい。
氏によれば、「いじめ」体験者の聞き取り調査から見ると、担任教師が表立って「いじめ」に介入する方法には、次の4つがある。
@ いじめている子といじめられている子を呼んで、話し合いをさせる。どうしていじめるのか、その理由を聞いて、詫びさせ、「もういじめない」と約束させる。ときには握手させて、仲直りさせる。
A 「いじめ」についての作文を書かせる。
B 学級会を開いて、「いじめ」について話し合いをさせる。「いじめ」にあっている子の気持ちや痛みを感じとらせ、「いじめ」がどんなに悪いことかの意見を引き出し、クラスの総意として「いじめ」をなくそうなどの申し合わせをさせる。
C いじめている子を叱る、ときには思いあまって殴る。
そして、どれもけっして成功率は高いとは言えないが、いずれの方法にせよ、翌日からぴたりといじめがなくなる場合もあれば、陰湿に持続するケース、逆にエスカレートするケースもある。選択した方法の良否、あるいはやり方の巧拙なども関係するとは思われるが、成功と失敗を分けるキーは、結局、教師がどれほど子どもたちから好かれ、信頼されているか、言い換えれば、どれほど学級経営がうまくいっているかにかかっている(深谷和子 1996)。
かくして、「学級経営が円滑に行われているか否か」は、前述の「教師がいじめの誘発因になっていないか否か」とともに、教師が具体的・実際的ないじめ対策に入る前に必ず確認しておかなければならない必須の事柄であることが分かる。その次第によって、「集団的指導法」の具体的なやり方がきまり、あるいはそれを行う前にさまざまな対策(例えば、生徒との信頼関係の回復)が必要になってくるのであるが、この二つの点をクリアした教師だけが、以下の手法を用いる資格があると言えるであろう。
1) 訓話
集団指導といえば、まず最初に選択される方法である。クラスでいじめが生じていることを取り上げ、先に挙げた3つの目的にかなうように、クラスの生徒全員を諭すのである。
色々なやり方があるだろう。諄々と説いて諭す(説諭)もよし、強い姿勢で戒める(訓戒)もよし、倫理・道徳話で考えさせる(講話)もよし。また、一つのバリエーションとして、よく行われている作文もある。どのやり方がよいかは、いじめの内容と、行う教師の性格・パーソナリティによって選択すればよい。どのやり方を用いても、余程生徒から嫌われ、反発されていない限り、なにがしかの効果はある。ただ、この方法は、教師から受動的に教育を受けるだけであるから、深い持続的な態度変容を起こすことは難しい。それ故、どのやり方を選択して効果をあげるかについて腐心するよりも、むしろ、いわずもがなの一言でかえっていじめを悪化させることがないように留意すべきである。
<事例2>
A子は動作が緩慢、理解力にも多少問題があり、遊びや仕事(例えば掃除)で周囲とうまく協調できないところがある。しかも自己主張は強い子であったから、次第に孤立し、“ノロ子”とあだ名が付けられ、誰も名前で呼ばなくなった。ある日、清掃時間中に、B子から「ノロ子、ノロノロ、のろまな子。ノロノロ、トイレに行って来い」とからかわれ、持っていた雑巾をB子に投げつけた。それをきっかけにB子・C子・D子らが一斉にA子に雑巾を投げ、汚水を浴びせかけた。「ノロ子、ノロ子」と囃し立てる者はいたが、騒ぎを聞きつけて教師が飛んでくるまで、誰も止めようとする者はいなかった。
A子に対するからかい・仲間外れなどのいじめに気付いていた担任は、この機会を外すまいと、翌日ホームルームで、早速、訓話を行い、いじめは人権問題であり、絶対にしてはいけないことを念押しした上で、A子とB・C・D子の4人を教壇の上に導き、仲直りの握手をさせた。大きな拍手が起こり、担任は成功を確信し、一言つけ加えて締めくくった。「これからはA子もみんなに遅れないよう、動作をきびきびしよう。約束したよ」。
その後、担任の見ている限りではA子に対するからかいはなくなった。が、実は深いレベルでいじめが進行していた。理科・体育・掃除など集団作業を行う場面で、B子・C子・D子が中心になって、何かにつけてA子を置いてけぼりにする陰湿ないじめが進行していたのである。しかし担任は、A子が不登校になって家庭訪問をするまでいじめが継続していることを知らなかった。まして、いじめが継続し陰湿化したことについて、自分の発言が大きな原因になっていようなどとは、思いも及ばないことであった。
このような事例から学んで、訓話やクラス討論など集団を相手にいじめ問題を取り扱う際の留意すべき点がいくつか挙げられる。
@ 被害者の問題点は一切指摘しない
被害者の落ち度や欠点をけっして指摘してはならない。加害者側に、かえっていじめに対する口実(正当化・合理化)を与え、罪意識薄くいじめを継続させ、むしろ陰湿化することさえあるからである。
A クラスの風土を見定める
説諭や訓話が効果を発揮するのは、「その集団が健全な連帯感をもち、よりよい集団にしようとする全員の結びつきや、不正に対する純粋な正義感が息づいている場合」(尾木和英 1996)である。集団いじめに反省が生じ始めてもいない段階では、子どもたちは都合の良いところだけ聴いて、都合の悪いところは忘れてしまうのである。
B タイミングを見計らう
どのような指導を、どのようなときに行うか。同じ指導内容であっても、人が違い、場所が違い、時間が違って行われると、効果は正負二極の両端に並ぶほどの相違を見せる。指導は、適時を選んでタイミングよく行われなければならない。タイミングこそ、まこと指導の極意なのである。(宗内 敦 1988)
思えば、事例2の担任教師は、これら3点のいずれにも叶わぬ指導を行っている。これに対して、前節の事例6で揚げた教師は、いずれの点にも適っている。何気なく行う下準備の周到さと好機を逃さぬ臨機応変の対応で、まさに劇的な効果を挙げている。繰り返す部分も少なくないが、事例2と対比するため、敢えて再録してみたい。
<事例3>
将棋好きな2年生のA子は、正月の中学生地区大会で女だてらに優勝してから、学校に行っても休み時間中も将棋の本を読んだりしてすっかり自分一人の世界に没頭するようになった。ふと気付いたときには、周囲の誰からも相手にされなくなっていた。原因が自分にあるとは思ってもいなかったので、「仲間外れにされている」と教師に言いつけに行った。
ここで、担任は一計を案じた。A子に内省の機運が見られたので、それを手がかりにA子の共感性を高めるロールプレイングを行いながら、A子に対するクラスの動きを観察することにした。やがて、二人が何をしているか興味を抑えられなくなった生徒たちが相談室を覗き見にやってきたとき、好機到来とばかり、翌日、クラス全員を前に次のように語ったのである。
「みんなはそう思わないかもしれませんが、先生から見ると、A子を仲間外れにしている人がたくさんいるように見えます。もしA子が弱い人間なら、新聞に報道されるような自殺をしてしまうかもしれない。笑い事ではありません。でもA子は偉い。自分にもみんなの気持ちが分からなくて、悪いところがあったはずだ、だから、人の気持ちが分かるようになって、またみんなと仲良くしたいと言って、人の気持ちが分かるようになるロールプレイングという芝居を、先生と一緒にやっていたのです。さぁ、これからはみんなでA子と仲良くして、もっと将棋が強くなるように応援してやりましょう」
まさに時機を得た訓話で、劇的な効果を挙げた。生徒たちは、「なぁーんだ、そんなことか」と拍子抜けしながら、A子と先生の懸命の努力を評価し、感動し、自分たちもちょっぴり反省して、A子を級友としてとらえ直すことになったのである。その日から、A子を無視する友だちはひとりとてなく、むしろ“将棋の強い女の子”として尊敬する気持ちを前面に出すようになった。
2) クラス討論
先述したように、学級集団をひとまとめにして行う指導は、
@ いじめ問題への意識改革
A 人権意識の涵養
B 自治意識・自浄作用の育成
を主な目的としている。前述の訓話的指導は、もちろん有効なアプローチであるが、作文指導も含めて、いずれも生徒が受け身の形で指導を受ける、あるいは考えるもので、効果はせいぜい@またはAの段階に留まり、Bの段階にまでは届かない。そこで、Bの段階まで到達しなければいじめ問題が解決しないという時に行われる方法が、生徒をして能動的に関わらせようとする「クラス討論」である。
いじめ指導を「クラス討論」という形で行うことの意義は次のようにまとめることができる(菅野 純 1995)。
@ 教師がいじめ問題を正面から取り上げることで、子どもたちに教師の真剣に取り組む姿勢が伝わる。そのことがいじめ行為を未然に防ぎ、いじめられている子に安心感を与える。
A いじめについて言語化(言葉で表現)することで、子ども自身、自分の考えを深めたり、修正したりすることができる。
B 他児や先生の対話(討論)を通じて自分の考えを深めたり、修正したりすることができる。
C クラス全員の前での発言は、クラスのみんなに約束するかたちとなるため、言行の一致を支える構造になる。
しかし、もし生徒たちを軽々に討論に参加させ、内省のないまま発言させることなどがあれば、彼らの未熟でわがままな意見がそのまま表出され、混乱のうちに終わって、かえっていじめを継続させ陰湿化させたりして、取り返しのつかない結末を迎えることがある。事例1はその好例である。このような結果を招かないために、討論に入る前に慎重な配慮が必要である。
今、女子中学生を対象とする場合、次のことを認識しておくことが重要である。1つはいじめられる側の問題で、いじめられている女子は一般に気弱でいじめる子たちへ抵抗することを恐れる。もう1つはいじめる側の問題で、思春期的特徴として、いじめている女子はその背景に男子問題児グループとのつながりがある場合が多く、それが陰に陽に関係して勢威をふるっていることが少なくない。事例1はその例である。
そこで、クラス討論を行うに際して、教師は以下のことを成し遂げなければならない。
@ 生徒全員の前で、被害者を深く受容する
これは、被害者の不安を取り除くだけでなく、いじめを恐れる他の生徒たちへも強い安心感を与え、いじめ問題を直視しようとする姿勢を生み出す。
A 事実関係を徹底的に追及しておく
誰が何をし、誰が何をされたか。これを誰も言い訳できないほど徹底的に明らかにしておくことは、次のような効果がある。
イ)真剣に取り組む教師の毅然たる態度を示し、
ロ)いじめられている生徒といじめを恐れている生徒に安心感を与え、
ハ)安易な発言や、安易な言い訳の生じる余地をなくし、
クラス討議を真剣かつ円滑に進めることになる。
B いじめグループを支援するグループを把握し、適切に処置する
事例1では、いじめ女子生徒と男子突っ張りグループの関係性が見えていなかったばかりに、女子いじめ生徒に対する安易な指導が男子突っ張り生徒の反抗をも呼んで、学級破壊が引き起こされた。学級経営を円滑に行うためには、日頃から繊細に気配りして学級内人間関係を把握しておき、ことに即して適切に対処しなければならないが、とりわけ女子のいじめグループが、男子問題児グループとどのような関係性をもっているかは、クラス全体として指導を考えるときに、きわめて重要である。
以下は、事例1の続編である。
<事例4>
O教師(男)は、A子・B子・E男・F男・G男らの反抗と学級破壊的行為によって女性担任教師が休職に追い込まれた3年A組の担任となった。3年A組はいじめでもとかく噂のあるクラスだが、A教師の目にもすぐ、A子とB子の女子生徒に対する冷やかし・からかい、E男とF男の男子生徒に対する脅し・小暴力が目に入った。当初は学級破壊的行為もなかったので厳しい指導をするチャンスがなかったが、それはたちまちやってきた。
S子は2ヶ月前、前担任のときに転校してきた生徒である。温和で、勉強もよくするが、動作がやや緩慢である。そのS子が、プールの清掃時に、A子をプールに突き落としたのである。
プールサイドの大騒ぎに担任が駆けつけてみると、プール際でA子がずぶぬれの体育着を着たままS子を押さえ込み、B子と2人で「人殺し、人殺し」と叫びながら、殴りつけていた。ほかは遠巻きして見守るなか、E男だけが近くで一緒に「人殺し、人殺し、やれ! やれ!」と怒鳴っている。
担任が3人を引き離して立たせると、A子とB子が声を合わせて「S子が人を殺そうとした。人をプールに突き落とした」と絶叫する。S子は担任を見つめたまま何も言わない。唇を噛み、肩で息して、見開いた目からはひたすら大粒の涙。余程のことがあったのだろう。大声で泣きだした。
担任が喧嘩の原因を問うと、「喧嘩じゃない、S子が勝手に突き落としたんだ。私を殺そうとしたんだ」とA子が喚き、そうだ、そうだ、とB子・E男・F男が声をそろえる。
担任は、取り巻いている他の生徒たちに喧嘩の原因を問い質したが、誰も見ていない、知らないと言うばかりである。しびれを切らした担任に向けてA子らがそれ見たことかという顔で「S子が悪い、S子が悪い」と言い立てる。そのとき、担任はこぶしを振って、怒鳴りだした。
「よし、誰も言わないのなら、それでもいい。お前たち、それでいいと思っているのか。俺はS子を信じるぞ。S子は理由もなくそんなことをする子ではない。俺はS子を信じるぞ。S子が勇気を出して言い出せば、本当のことはすぐわかる。そのとき俺は、正直に言えない卑怯者は、誰もみんな許さない。さ、S子、言いなさい。俺はどこまでもお前を助けるぞ!」
S子が担任の胸に飛び込んで泣きながら訴えるよりも先に、担任の勢いに押されて数人の女生徒たちが言い出した。S子は何が原因か頭頂部が僅かに円形脱毛症になっていたが、それを日頃からからかっていたA子が、この日プール際で「頭はげれば、河童の子。プールの中にもぐってけ」と、しつこくからかい続け、堪忍の尾が切れたS子が水中にA子を突き飛ばした、というのが真相であった。
担任は即座に、S子に対してA子とB子を謝らせ、さらにE男とF男にも謝らせた。が、彼らが不服そうに渋面を作るのを見ると、追い打ちをかけるように、きっぱりと言った。
「みんな、掃除を止めて教室へ入れ! 直ちに反省会をするぞ!」
担任は、班別の小グループ毎に討議させ、それを全体会でまとめさせることにした。普段の班構成のほか、A子・B子・E男・F男・G男らをピックアップして特別班を作った。そして、
@ 今日のいじめ、
A 3年A組のこれまでのいじめ、
B いじめをなくすためには、
の3つのテーマを与えた。
さて、担任が特別班を設けたのには狙いがあった。1つは、特別班のメンバーが各自所属する班で他の成員に威圧的態度を取ったり勝手な理屈(例えば被害者側にも悪い点があるなど)を述べたりして自由な討論を妨げることを防ぐ。2つは、彼らだけを集めればかえってわがままな発言をするのがむなしくなり、結局他の班と大同小異の結論を出さざるを得なくなる。
担任の見込みはものの美事に当たった。担任の強い意志に圧倒され、どの班の意見も、それまでのクラスのあり方を反省し、またいじめ集団に対して臆せぬ態度で、いじめを強く批判するものであった。被害者に問題があるなどの意見は一かけらも出てこない。そして、次項の決議文をまとめるところまで、スムースに進んだのである。
3) 決議文・宣言文
全体討議が終わり、もし討論が深まって一応の結論が出たら、最後の締めくくりが「決議文」である。すなわち「今までを反省し、これから何をしていくべきか」、今後の行動指針を明確に示すことである。これは、先述のクラス討論の意義における「言行の一致を支える構造」をいっそう確かなものとするために、また、全員で真剣に討議したものを一つの形として残すことは「全体討議」の貴重な討議と経験の証であり、それは子どもたちの後の成長の励みともなるために、必ずなされるべきである。
事例4におけるクラス討論は、数日後、次のような決議文となって結実した。
決議文
@ 先日のプール突き落とし事件は、S 子が悪いのではなく、S子をからかっ・ ていた人たちの方に責任がある。
A 3年A組には、これまでたくさんのいじめやいじわるがあった。先生たちにも失礼な態度を取る生徒もいた。大 いに反省しなければならない。
B いじめをなくすために以下のことを実行しよう。
イ)人を脅したり人に暴力を加えることは絶対に止めよう。
ロ)自分の行動がいじめや意地悪に当たらないか、よく考えよう。
ハ)みんなで明るい学級を作るよう、一生懸命力を合わせよう。
ニ)いじめや意地悪を見つけたら、みんなで注意し、治らなければ、先生に連絡しよう。
平成○年○月○日
3年A組一同
内容の如何を問わず、全員で力を合わせて作り上げた決議文は、それなりに力を持つものである。その後、3年A組は、いじめなどほとんど見られないクラスに生まれ変わった、と聞かされている。
4) ロールプレイングとモデリング学習
学級全体に対する指導としては、他にロールプレイングとモデリング学習が有効である。
@ ロールプレイング
ロールプレイングは、即興的に、次々に異なる立場に身を置かせて演技させ、さまざまに異なる立場から人の欲求や感情や行動を理解できるように導く心理学的手法である。事例3では、このロールプレイングを行っていじめられている子の共感性を高め、いじめる側の気持ちを理解させてそこから本人の態度変容を起こそうとしているが、ロールプレイングはいわば芝居であり、実践的に言っても、男子よりも女子の方により興味深く受け入れられ、より積極的に参加を求めることのできる、即ち効果を期待できる技法である。
いじめ解決のためのロールプレイングは、いじめ役、いじめられ役、あおり役(観衆)、見ぬふり役(傍観者)などに分けて即興的芝居を打つ。そしてどの役を演じても必ず、いじめについていくばくかの共感的理解が得られるようになる。しかし、そこで得られる多少の効用よりも、実は教師を中心に皆で一体となって何事かなしたという実感の方が、後に残るものが多い。教師とともに考え、ともに行動したことの一体感と喜び、紛れもなく受容されているという感懐。ここから、情緒的な交流が始まり、共感性も培われ、各人各様、様々な反省も生まれてくる。その意味では、ロールプレイングを担当する教師は、ことに即して批判したり、評価したり、叱責したりなどけっしてしない、大らかな男性性豊かな、そしてできれば男性教師の方が、より好ましい。「どんなに先生が自分たちのために辛抱強くやってくれているかを思うと、涙が出てきた」とは、傍観者をも含む生徒たちからよく発せられる声である。
A ビデオなどの観察・モデリング学習
いじめを主題とするビデオ・映画・ドキュメントなどを見せて、いじめ問題を考えさせ、反省や内省を得ようとするのが、観察・モデリング学習である。ロールプレイングに比べ、まったくの間接的な方法であるから、効果は比較的、一時的・表層的に終わりやすいが、いじめ討論に並行して行えば、なかなか効果的である。
女子生徒を対象に行われる場合には、観察されるいじめ主人公は男性の方がよい。同性の場合、同性のいじめ行為者に対して、「やるのは当たり前じゃん。やられる方が悪いじゃん」と悪しき同一化を起こして、いじめの方法だけを学習して終わってしまうという場合も少なくないからである。
【参考文献】
尾木和英(1996)「いじめを生む教師の発言と行動」児童心理 50,15
菅野 純(1995)「<クラス討論・いじめをどう話し合ったか>を読んで」楽しい学 級経営
No.118
深谷和子(1996)「いじめ世界の子どもたち−教室の深淵」 金子書房
宗内 敦(1988)「指導力の豊かな先生」 図書文化
【出典:「いじめ」指導の手引き p.122-132, 松原達哉編 教育開発研究所 2001年9月】
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