最終更新日



結婚する娘に

前置き------2001年5月20日、横浜で結婚式をあげたのですが、式の直前、披露宴後の2次会に、両親からのお祝いの言葉が欲しいと(本人には内緒で)、依頼されました。写真入りで思い出話を作り、非公開のページにしたところ、2次会ではスライドと朗読で紹介され、(当然ながら?)好評だったそうです。
式の後、トップページからリンクをはって、公開することにしました。こんなことまで出していいの?という疑問は他のページ同様にありますが、出したければ出せばいいんだという精神でいくことにします。

コンピュータ2000年問題

前村さん、明子さん、本日はおめでとう。

人生って、偶然の連続ですが、いくつかの転機はありますね。我々が見た明子の転機と思えることを中心に書いておきましょう。昔の写真や作文もね。

1998年の終わり頃だったか、どういう風の吹きまわしは知らないけれど、コンピュータ2000年問題に熱中し始め、2000年問題ではびっくりするくらい活躍しましたね。メールで、いろいろ情報がきました。ただ、飛行機が落ちるなどということは、いくら制御チップに問題があるといっても、考えられないことというのが私の立場で(チップに問題があっても、事前にそういうことも起こりうると承知していれば、パイロットも管制官もいることだし、最後は人間を信頼したい)、根拠がはっきりしない話にはのれないたちです。 それを言うと「技術屋に限ってそんなことを言う」というメールも来ました。

毎日新聞社主催のシンポジウムが大阪であるというので、実戦部隊の人達の前で話して大丈夫なのかなと、夫婦そろって大阪まで行ったこともありましたね。

我々が毎年夏、海外へ旅行に行くたびに、エルメスのスカーフとかなんとかの鞄とかを注文されて、スカーフなどは3年くらい続けて、出発前の成田で買う羽目になっていましたが、シンボジウムでは、そのスカーフが決まっていたから、高い買い物もまんざら無駄ではなかったのかと、妙なことに感心していました。講演もまぁまぁ、安心して聴けていたので。

それから、1ケ月ほどして1999年7月には、朝日新聞にでかでかと対談が載ったのには、恐れ入りました。

そのうち、料金着払いで練炭と火鉢が宅急便で届き、送り主が明子なので、これは2000年問題対策かと仕方なく受け取りました。なんでも、海底深く埋め込まれている石油掘削機が動かなくなる、あるいは船や港湾施設に問題が発生して、石油が来なく恐れへの対策のひとつとか。幸い、2000年問題は何事もなく、ちょっとやりすぎ、練炭と火鉢は未だに屋根の下に眠っております。

1999年の暮れから2000年のお正月は、泊まりこみで大変だったようですね。ニュージーランド、オーストラリア問題なしと、私のところにもメールのオコボレもありました。 2日のお昼すぎ、思いがけなく早く帰って来たのですが、親戚の集まりでは「コンピュータ2000年問題もさることながら、本人の2000年問題はどうなっているの?」と、からかわれたようです。今にして思えば、それも解決に向かい出していたのか?

1月20日過ぎに遅いお正月休みをとるということで、妹とともに、87になる祖母をハワイにも連れて行ってくれました。祖母がハワイはいいところと盛んに言っていたから、これはありがたかった。(写真はアラモアナ公園にて)

 コアラへの出向

95年だったか、大分のコアラへの出向の話があるが、との相談を受けました。私はパソコン通信をやっていたし、富士通の関係会社も大分にあることから、コアラが地域でパソコン通信をしていることくらいは知っていました。コンピュータ関係の勉強にもいいのではないかと賛成しました。ただ、その頃の私は世間の情報に疎く、インターネットが普及し始める前夜だったとは知らなかったのですが、ほんとうに、いい時にコアラへ出向したものです。写真はその頃のものです。

96年のお正月、帰省直前、インターネットをやらないのか?との電話がありました。当時、私はワープロのOASYS(大学の卒業論文を書くからとせがまれたもの)でパソコン通信Niftyは活発にやっており、また、パソコンも持っていて、Logoという教育用言語でプログラムはしていましたが、情報に疎くなっていて、インターネットについては、Mosaicというすごいソフトが出たよとか、Javaという20世紀最後になると思われる大きなコンピュータ言語が出たとかということは聞いていても、インターネットを個人でやれるものとは思ってもいませんでした。

パソコンで使えるモデムは持っていないというと、では買っていくからと、28.8KBのモデムとともに帰ってきました。その代金、2万円はしっかり払わされたのはもちろんです。「プロバイダ契約もないのか、じゃ、とりあえず、大分のコアラとつなぐからと、Win3.1で、Trumpet Winsockの設定をメールで問い合わせながらやってくれて、富士通が出したばかりの日本語版Mosaicお試し版をブラウザソフトとして、NTTのホームページとか、コアラに開設していた明子のホームページも見せてもらいました。数日滞在中の大分への電話代が数万円。

ただ、Winsockの設定の様子を後で見ていて、なんとなく感じがつかめたので、すぐ、Asahi-netと契約して、パソコン通信Niftyで関連情報を調べたり、雑誌を買ったりして、プラウザソフトは、当時人気のNetscapeに変えて、私もインターネットを始めることになりました。少々、高い授業料ではありましたが、その4月から大学で教えることになり、多少、遅きに失したきらいはありますが、96年1月の段階でインターネットを始めたことは大いに役にたっています。

 ヴァイオリニスト?

中学の頃、高名のヴァイオリストに習う予定になっていました。しかし、その直前、家族で行ったスキーで腕を骨折し、この話は流れました。毎日、数時間も練習していたから、骨折がなかったら、あるいは音楽の道に行っていたのかもしれませんね。

高校、大学とクラブ活動、趣味では続けていたし、93年高校室内楽部OBの発表会でのバッハ ブランデンブルグ協奏曲5番でのヴァイオリン独奏は、仕事が忙しくて、あまり練習ができなかったのに、しっかり弾けていました。なんでも、夜、会社の会議室を使わせてもらって、練習していたそうです。

話は変わりますが、中学3年の時の運動会では、100m 14秒2、走り幅跳び 4m22の記録を出したとういう表彰状があり、まだ、わが家に飾られています。この記録は、もうは破られたかな? ちなみに、母親も記録保持者だったよしだから、親譲りですね。

 大学生の頃

ここからは、人生の岐路といった大げさなものではありません。思い出話になります。入学制度に大きな変更のあった年に、運悪く入試を受ける羽目になり、私が母校なのに、京都も受けたいというのを反対したこともあって、若干の挫折はありましたね。

入学してすぐ、コンピュータ演習に、3つのコースがあるが、どうしようという相談を受けました。パソコン時代のはしりの頃か、C,Basic,アブリだったか? C言語コースは経験者ということでしたが、Basicきらいの私は、文句なく、C言語をやったらとアドバイスしました。最初の授業から、2進法だったらしく、全然分からないということだったので、コンピュータはなぜ2進法を基礎にしているのかということを話したら、少しは納得したようでしたね。

しかし、この授業は、やはりコンピュータ初めての学生には大変だったらしく、結局、次々と出る課題をできる学生のプログラムの丸写しで乗り切ってしまったようで、何をやったかということになったようです。それでも、知らず知らずのうちに、基礎ができていたことでしょう。のちにコンピュータを使うようになったとき、違いがでるというものです。

なお、どんなことをしたのか、資料とフロッピィはもらって、私自身がC言語を勉強するときに、逐一見て、そのうちのいくつかは、実際にやってみました。一つ一つは全然面白くもない小問題ばかりですが、数多くやるというもので、いい授業なのか、私には多少疑問ですが、基礎つくりという点ではいいのでしょうね。

この頃、私と明子の関係は全然しっくりせず、ぎくしゃくしていました。目立って多いようにみえた甘すぎる親にはなりたくなかったこと、マスコミに登場するいい加減な連中や一部の学者の子育て論は、まず、うのみにせず、手を出すこともあったから、「友達に聞いても、そんな変な親はいないと皆言うよ」と反抗されました。「皆って誰だ。俺はおれだ」というのが、いつもの私の言い分でした。考えてみると、私も高校時代に、父親と正面からぶつかって、大学4年間、ほとんど口をきかず、東京に就職するがいいか?と相談したことから、関係修復したことがあります。この点では、明子も父親譲りなのでしょう。

右上の2枚の写真は、大学の卒業式のときのものらしいですが、この写真を見るのは、実は私もはじめてです。着物など借りる必要がない、卒業式、卒業式と騒ぐほどのこともない、人生たった一度なんていうのは、業者のうたい文句、そんなのにのせられることはない、などと言ったことでしょう。そして、すっかり忘れていますが、写真ができたというときに、そんな写真は見ないよと言ったのでしょう。

 ハワイ・東欧・伊豆旅行

小学校2年の時、私がハワイに、1年間、駐在員として行っていました。春休みと夏休み、かなり長期間、家族を呼びました。また、そういう機会があったら、今度はいっしょに行くと言っていたのですが、残念ながらその機会はなく、折角の機会を逃がしたのは残念でした。英語も達者になっていただろうし。人生の岐路なんておおげさなものではなかったかもしれませんが、印象は強烈だったことでしょう。それから、25年たちました。その当時の母親の年齢に近くなっているのですね。写真は1976年3月、海のきれいなHanaumana Bayのものです。

大学生のとき、家族で海外旅行をしようかともちかけたことがあります。小さいときはよくあちこちにドライブしていたのが、ご多分にもれず、それも中学くらいまでだったでしょう。海外旅行となると、話は別だったらしく、張り切って大学生協からどっさり旅行のカタログを持ち帰ってきました。結局、モーツアルトの旅をなぞろうという母親の意向で、東欧旅行にしました。

1989年の夏のことです。この年はどういう年だったでしょう? 我々は全く知らなかったことですが、その旅から3ケ月後に、ベルリンの壁が崩壊したのでした。偶然とはいえ、面白いときに旅したものです。この旅行の印象は、ベルリンの壁崩壊直前の東欧紀行 に出しています。

この頃、私と明子の関係はしっくりしないことは書きましたが、この旅行中もいろいろと口論がありました。母、妹と、常に1対3で具合が悪かったです。もう、いっしょには旅行しないと思いながら、社会人になってからの1992年には、また、思い出のハワイに旅行しています。

 年月のおかげとメールで交信し始めるようになり、やや、クールでしょうが、今は普通の親子関係になっているでしょう。今年のお正月は、多分、最後の家族旅行として、伊豆下田へ行き、昔はまず考えもしなかった豪華ホテルで過ごしました。伊豆は小さい時よく行ったところです。


 バーベキュー

昨年7月、わが家の近くでバーベキューをやるからと、いろいろ準備して欲しいと、えらく張り切った電話がありました。何かがあるという虫の知らせはありましたが、はっきりしたのは、10月くらいだったか、それからは話が早かった。相談ごとは、本人の自己責任ということで全て聞き入れましたが、本日まであれよあれよというスピードでした。

前村君、よろしくね。


    1才 庭にて       3才 正丸峠 5才 神代植物公園  中学生(かいどう) 1992年ハワイ島にて 

結婚式(2001年5月20日)が終わってからの追記

二次会向けに作成した非公開ページは以上です。一部、手直しはしましたが。以下は、式が終わってからの追記です。

媒酌人はたてず、最初の主賓挨拶は、元Nifty社長の岡田智雄さんでした。2000年問題のときは、インターネット協会副社長として二人の活動も支援されたということで、引き受けていただいたようです。娘は全く知らなかったことでしたが、実は、私は岡田さんとは富士通同期入社で、我々の結婚式のときには、司会者としてお願いしました。偶然のきっかけで、親子2代の結婚式に、それも重要な役割で出席いただくとはあまりないことでしょう。岡田さん、ありがとう、まことにご苦労さまでした。


式場でのマリンバ

前日、地元秋川キララホールで、仲間2人とコンサートを開いたばかりの妹、路子が、結婚式でもマリンバを弾くということで、会場でマリンバを積んで、横浜のホテル海洋亭へ直行、我々も便乗して、夜中の1時過ぎに着きました。翌朝早く、楽器の組立てをして、8時から披露宴会場で母親のピアノで当日演奏する3曲の練習をしていました。お色直しの退場のとき、十五夜お月さん、余興で、新婚旅行がモロッコだからというので、アラブの色彩のあるスペイン舞曲(グラナドス)とタンゴ(アルベニス)、聴かせていました。

明子の社会人としての活動の上で、大きな転機となる機会を与えてくださったと思われるコアラの方々も結婚式に多数来ておられました。しかも、早速、コアラ大分のトップページにも紹介されていました。また、明子さんWEDDING で結婚式の様子がレポートされていました。お忙しい中、レポートいただいた水谷美保さん、ありがとうございました。

前村君が監修したという分厚い専門書が池袋駅前の芳林堂書店にあり、写真にとってきました。若くして、監修者とは嬉しいですね。
「インターネット ルーティング」 Christian Huitema著 SHOEISHA  

新婚旅行はモロッコへ。事情により、最初の計画はキャンセルして、6月6日から16日まで。旅先から、2通、型破りの新婚旅行をしていよらしいメールが来ましたが、自分のホームページ のDiaryに、まさに日記、行動を詳しくアップしていることを、帰国予定の16日になって知りました。いや、娘ながら面白いです。8万円の絨毯を1時間もかけて13,000円に値切るなんて度胸と根気は、大阪出身の私にもない。

ページ独自カウント