アフリカ体験 (ザンジバル編 in Tanzania) - 2
-- 青年海外協力隊 任国外研修旅行 --
■インド洋に浮かぶ中世アラブ - ザンジバル
ダル・エス・サラームからザンジバルまでは飛行機でわずか20分ほど。上空から
は島の周りの海底がはっきり見え、思わず水の中へ吸い込まれるそうになる錯覚を覚
えた。
海の色は珊瑚礁や海の深さ、そして太陽光線より大きく異なっている。それらの色は青と言うよりはブルー、それもただのブルーではなくコバルトががっていたり、グリーンがかっていたり、まるでブルー・サファイアやエメラルドとでも言えるような複雑な色だ。
海に見とれているうちに、飛行機はまもなくザンジバル空港へ着陸した。空港では国内線と言うのに出入国審査と検疫・税関があり、この島の人々が独立国を意識して
いることがよくわかった。私は空港からトラックを改造した乗合バスで、25キロほど離れた町へ向かった。バスの中は、ブイブイという頭から足の先まで隠れる黒い服を着たおばさんたちがいっぱいである。その姿を見ただけで、なにかしらアフリカとは違った異国感じさせるものがあった。
ここでザンジバルの歴史を簡単に紹介しよう。
1499年にバスコ・ダ・ガマがザンジバルを訪れ、
1503年にポルトガルの支配下になるまで、この島はペルシア人とアラブ人の争いが何世紀も続いていた。けれども結局、ポルトガル人もアラブ人に追い出された。
その後オーマンのスルタンは、1832 年に宮
廷をペルシア湾からザンジバルに移し、クローブ(ちょうじ)栽培や奴隷貿易などの産業を発展させた。一時は毎年50,000人の奴隷が大陸奥地から運ばれ、ここの市場か
ら売られて行ったのである。
スルタンの支配は、実質的には1963年ザンジバルが英国連邦の一員として独立するまで続いた。 独立後スルタンとアラブ人に不満を抱いていたアフリカ人は、1964 年アラブ人を襲い、1万人以上の死者を出した。 そして1964年4月ザンジバルとタンガニーカ(大陸側)は合併しタンザニア連邦共和国となったのである。
40分ほどで到着した町はアラブの色を濃く残したもので、石造りの家と2階から飛び出したバルコニーは大陸の内陸部ではまったく見られないものだ。家と家との間はメインの道路でも車1台がやっと通れるほどのもので、わき道などはまるで迷路のようである。
昔からの家の木製のドアには独特の幾何学模様の彫り物がしてあり、それを見て回るだけでも楽しいものがある。住んでいる人もアラブ人の血が濃いのであ
ろう、目鼻立ちがくっきりして髪の縮れも緩い人が多い。迷路状の町の所々にはモスクがあり、時折聞こえるコーランを聞いているとまるで中世のアラブの国へタイムス
リップしたような錯覚に陥った。
この町で私が大いに気に入ったものに屋台がある。夕方日が暮れてくると海に面した広場は一転して人々の夕涼みの場所になる。ブイブイを着た女の人たち、頭に回教徒の帽子をかぶった男の人たち、子供も大人も思い思いに夜を過ごす。海からの潮風 がとても心地よい。
その中心部に現れたのが数々の屋台である。砂糖黍を目の前でローラーで絞り氷を
いれたジュース、ムシカキ(焼き鳥のようなも、ただし鶏ではない)、アフリカ風お好み焼き、ゆでピーナッツ、フルーツジュース、焼きタロ芋、フルーツポンチもどき、パイナップルやオレンジ・キュウリのスライスなどなど・・。
何と言っても私が一番 気に入ったのは、エチオピアで悪魔の化身と恐れられているタコのココナッツ揚げである。同じアフリカでも所変われば違うものである。ココナッツの香ばしさとタコ、そしてピリピリ(とうがらし)は不思議とあい、これが食べだすと止まらない。その後5日間、片手に砂糖黍ジュース、もう一方の手にムシカキなどを持ってタコの切り
方にうるさく注文をつける変な外人とは、私であった。
さて、私が泊まることにしたのはAfrica House Hotelと言い、以前はイギリス人のクラブに使われていたと言う建物で、海に面しているのでバルコニーからの眺めはすばらしかった。夜、バルコニーでビールを飲みながらさわやかな風にあたり、波の音を聞きながら過ごす時間は、心の底からくつろげる素晴らしい時であった。
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