アフリカ体験 (キリマンジャロ編) - 1
-- 青年海外協力隊 任国外研修旅行 --
■ キリマンジャロへの道
取調室の中で制服を着た3人のタンザニア人の男達が椅子に座っている私を見下ろす。なんとか彼らの表情を読みとろうとするが、私のアフリカ人に慣れた目でも見てもほとんど読み取れない。この部屋に連れてこられてから、かれこれ30分にはなるであろうか。
1992年1月30日、青年海外協力隊員がもっとも楽しみにしている任国外研修旅行のため、私は胸をおどらせながらケニアの首都ナイロビからタンザニアのキリマンジャロ空港へと向かった。
※ 任国外研修旅行とは協力隊員が赴任中の2年間に一度だけ任国外へ出国できるもので、目的は他の国の隊員の活動現場の視察などである。 しかし隊員に とっては、研修という本来の目的のほかに息抜き、国によっては買いだしという意味もある。
そもそも私が任地に東アフリカを希望した隠されたもう一つの理由とは、そこにキリマンジャロがあったからである。大好きな冒険家植村直己の「青春を山に賭けて」を読んで以来、アフリカ最高峰の登頂は私の夢であり、そこに登ることは直己に少しでも近づくことにも思えたのである。
ナイロビから順調な飛行の後、私の乗ったタンザニア航空はキリマンジャロ空港へ到着した。「さあ、いよいよキリマンジャロだ」と思ったところ、なんといきなり検疫でチェックされてしまったのである。必要なコレラと黄熱病の予防接種は日本でうけイエローカードを持っていたのだが、コレラの方が1カ月前に期限が切れていたのであった。
検疫官からそのことを指摘され「お前は入国できない」と言われた瞬間、私は目の前が真っ白になってしまった。 「なんて初歩的なミスをしてしまったのだろう・・・」 私はその場に呆然と立ち尽くした。
ほかの人たちが次々に入国する中、私だけは取調室へ連れていかれ3人の検疫官に調書をとられることになったのだ。
今までキリマンジャロに登るため、エチオピアのアジスアベバやナイロビで必死に続けていた水泳や近郊の山登りなどは無駄だったのかと思うと情けない。
しかしあの直己だって、これ以上の困難なことに何度もぶつかったはずだ、そう思うとファイトが湧いてきた。私だって伊達にアフリカに1年半も住んでいるのではない。「今こそジャパニーズ・ボランティアの意地を見せてやらなければ!」
まず謝っても許してもらえないことは明らかなので、私は考えられるだけの言い訳攻撃を開始した。
「私はナイロビに住んでいるのだから、予防接種は必要ないはずだ・・・」
「山に登るだけだから、心配ない・・・」
「私のパスポートはオフィシャルで、 政府関係者だからタンザニアとの友好のために・・・」
「今から病院に行って注射するから・・・」etc.
彼らの答はみんな「No」である。思い切って逃げようかとも思ったが、まだ入国も済んでいない。
万策尽きたかと思いかけたとき、彼らの一人が「じゃあ、おまえがかわいそうだから一人100ドル、合わせて300ドルだせば許してあげよう」と言いだした。いわゆるチャイと言って賄賂の要求である。きたきたついにきた。こちらから言い出そうかとも思ったが、下手に言って感情を損ねたらまずいと思って様子を見ていたのである。チャイは真剣勝負だ。失敗したら取り返しがつかない。これは東アフリカでは慣れ親しんだもので、時には非常に頭にくるが、便利なこともある。これを聞いた瞬間、「これは何とかなるぞ、後はいかに値切るかだ」と自分に言い聞かせた。すぐに私は作戦を変更した。
「Hapana, ghali sana(ノー、高すぎる)」私がスワヒリ語を話だしたので、彼らの表情がいくぶん和らいだ。チャンスである。
たたみかけるように続ける。
「Rafikiyangu, nipunguzuie bei (私の友達、まけてくれ)」
「Ninabei kidogo sana(お金、 少ししかないんだ)」
「Tafadhali!tafadhali! (お願い!、 お願い
!)」
値切るときは現地語であるスワヒリ語に限る。3人合わせて100ドルまでは簡単に下がった。こうなったらこちらも必死である。全精力をかけて値切りまくる。
かれこれ1時間はたっただろうか。ついに私はUS10ドルを払うことで、堂々と入国を済ませ、 検疫官らに「Kuwa herini(さよなら)」の挨拶をして無事空港を後にしてキリマンジャロへ向かったのであった。
戻る |