アフリカ体験(エチオピア編4) - 3

          -- 青年海外協力隊 --


■ 不安の中の日々

 1991年3月15日、アメリカンスクールの先生から、アメリカ人が次々帰国し始め、アメリカンスクールも閉鎖されたという話を聞いた。ちょっと信じられなかったが、もし本当なら一大事である。

 3月16日、不安に思いJICA事務所に行くと、緊急ミーティングが開かれた。アメリカ人やヨーロッパ人が逃げ出していたのは本当だった。

 JICAの所長によると13日のVOA(ボイスオブアメリカ)で、婦女子は国外へ退去するようにとの放送があったのだそうだ。原因については全く触れておらず、何のためかはさっぱりわからないとのことだ。私たちなりに推測するとゲリラが首都に侵攻するとは思えず、クーデターではという話になった。裏でアメリカが糸を引いていることは間違いなさそうに思えた。驚いたことに、エチオピア政府は学生の徴兵を始めるとのことだった。これは国の末期症状である。

 3月18日、私の親友であるテスファから手紙が届いた。彼は北部出身のエリトリア人でジンマで先生をしていたのだが、政府側で兵役に取られそうになったのでアッサブに逃げていた。手紙によると「Masa アジスも危ないからすぐ日本に帰るように、そしてその際の連絡先を今の内に知らせてくれ」とのことだった。 ゲリラのEPLFもエリトリア人で、彼らは独自の情報を持っている。 テスファが 日本に帰るようにということは、かなりアジスが危ないということに違いないと思えた。

 3月20日、私の部屋の下に住んでいるJVC(日本ボランティアセンター)の夫妻もナイロビに行くと言うので挨拶にきた。 「協力隊はまだなの」と聞かれたが、 「まだわかりません」と答えると「協力隊もナイロビに行くだろうから、向こうで会いましょう」と言われた。日本人も脱出を始めたのだ。なんだか訳がわからなくなってきた。それでもアジスは平和そのものである。

 3月23日、またミーティングが開かれ、私たちもついに26日に1週間の予定でナイロビに退去することになった。一部の外人の中の噂では、1週間以内に何かが起こるとのことで、万が一を考えてナイロビで様子を見るのだそうだ。新しい情報はそのくらいで、依然として大使館もJICAも何もつかめないそうだ。職場に対してはナイロビで会議があるためという名目なので、荷物はボストンバック一つのみにするようにとのこと。それでも先が見えたので気が少し楽になったが、何かが起こると言うのは全く信じられなかった。

 3月25日、職場の方にJICAからのナイロビで会議があるとのレターが届いていた。 カウンターパートのティラフンに「ナイロビで会議があり、1週間で戻るから」と伝えた。 彼はこちらの事情を察知し、会議が嘘であることを見抜いていた。「アジスはそんなに危ないのか」と聞いてきた。私たちにも何もわからないのだ。何も答えることはできなかった。「戻ってくるのなら、帰りにスニーカーを買ってれ」彼は最後にそう言った。


戻る アイコン
戻る