楠遺跡現地説明会資料(寝屋川市教育委員会)

l.楠遣跡とは?
 楠遣跡は、寝屋川市石津東町〜南町に所在する古墳時代中〜後期(5〜6世紀)の集落遺跡です。
地図
これまでの発掘調査によって、古墳時代(中期〉の多数の遣構と初期須恵器・韓式系(軟質)土器・陶製紡錘車(ぼうすいしゃ)などの遣物が出土し、渡来人が住んでいた村の跡ではないかと推測されています。
今回の発掘調査は遺跡内では2回目となるもので、遣跡の南側に位置する調査地を、共同往宅建設に伴って本年4月末より寝屋川市教青委員会が発掘調査を実施しています。

2.発掘調査の成果
 3つの調査区に分けて現在の地表面(標高約4m)より約1.5m〜2m掘り下げて、弥生時代後期初頭(1世紀前半)および古墳時代中期一後期(5〜6世紀)の遺構・遺物を検出しました。

 T

 U

 V

[弥生時代]
T区の南側やV区で、溝・土坑などの遣構を検出しました。遣構の埋土などからは、弥生土器・石器(石錐・砥石)などの遣物が出土しています。出土土器から後期初頭(1世紀前半)の比較的短期間に、村が営まれていたことがわかりました。楠遺跡は、こねまで古墳時代の遺跡と考えられていましたが、それより遡って人々の住んでいたことが明らかになりました。
 このうち、土坑1と呼ぶ直径約2m、深さ40cmの平面円形の穴から後述する青鋼器鋳造関係の遣物がまとまって出土しました。

 


[古墳時代]
調査地全体で、建物の柱穴・土坑・溝が検出されており、集落遣跡の広がりを確認することができました。以前の調査と併せて考えると、遺跡は南北300m以上に広がっていると推定され,かなり大規模な村となると考えられます。多数の初期須恵器・韓式系
かんしきけい(軟質)土器・滑石製祭祀具(勾玉・剣形右製品・有孔円盤・臼玉)・木製品などの遣物が出土しています。


 特に初期須恵器には、わが固最古段階の窯跡出土のものと同じ待徴をもつものが多数認められます。こうした最古段階の須恵器多数出土する集落遣跡は明らかになっておらず、遺跡の性格を考える上で重要な資料です。こうした須恵器には細部の特徴が最古の窯跡が存在する大阪府堺市の陶邑古窯址群出土品と異なるものがあり、別の須恵器工人の手によって製作されたと考えられます。以前の調査では、こうした須恵器と一緒に朝鮮半島南部の軟質土器とよく似た土器(韓式
かんしき系士器)や陶製紡錘車が出士しており、楠遺跡には朝鮮半島から移住してきた渡来人が住んでいたことが明らかになっています。こうした須恵器も彼らが寝屋川市周辺の山麓部で窯を作って焼いていたの可能性が高いと思われます。


 寝屋川市には、「泰」(はだ)「太泰」(うずまさ)という渡来人に由来する地名があり、『古事記』には「泰人を役して茨田堤(まんだのつつみ)また茨田三宅(まんだのみやけ)を作り」と記されています。今回の最吉の須恵器をもつ村の発見は、本市におけるこうした渡来人伝承との関係を考える上で重要な資料です。


3.青銅器鋳造関係遺物について
[土製青銅器鋳型(外枠)]
 弥生時代の土坑から、かまぼこ形をしたほぼ同型の土製品が2個出土しました。
 いずれも長さ9.0cm、幅4.5cm、厚さl.5cmです。凸面部分は、ていねいなへラミガキで仕上げられています。一方、平坦な面は、表画を荒く削ったままです,この面に直径5mm、深さ4mm程度の穴が2列に「鋳型1」には8箇所、「鋳型2」にはl0簡所あけられています。また片側の長辺部分が約2mm高くなっています。上部と考えられる片側の短辺部分には3本の線刻(ヘラ状の工具による刻み目)が施されています。2個の土製品は,大きさや形態から1対で使用したと考えられます。
土製品の特微より、穴のあけられていた平坦面を利用して、使用されたと考えられます。こうした荒く仕上げた面に穴をあけたものとして、奈良県田原本町唐古・鍵遺跡出土の青銅器の土製鋳型(外枠)に類例があります。この面に、真土(まね)と呼ばれる粘上を貼って青銅製品の形を彫り込んで、その部分に高温で溶かした青銅を流し込んで製品を作るものてす。今回出土した鋳型(外枠)は小型で、鋳造した製品は銅鏃(銅製の矢尻)と考えられます。

 


[高杯
たかつき状土製品]
 「鋳型1・2」が出上した同じ土坑より出土しました。直径17.5cmの椀形の杯部に柱状の脚部が付く高坏のような形態をしていますが、杯部内面は荒く仕上げられており、2段に直径約5mmの穴が貫通してあけられています。全体に厚手のつくりで、口縁部は片口に仕上げられています。また杯部外面には、6箇所に小突起が付けられています。内面は、高温によると思われる変色が認められます。
 同様な土製品として、奈良県田原本町唐古・鍵遣跡で出土しています。唐古・鍵遺跡出土例には、鉱滓状の付着物があり、溶けた青銅を鋳型に流し込む「取瓶(とりべ)」として使用されたと推定されています。杯部内面には、土製鋳型(外枠)同様に粘土を貼って使用したと考えられます。

 
4.青銅器鋳造関連遣物の出土の意義
 青銅器の鋳型は、国内では北部九州地域や近畿地方を中心に見つかっています。北部九州では弥生時代を通して石で作られていますが、近畿地方では石(中期)から土製品(後期)へ変化することがわかっています。今回の出土品は、後期初頭の土器と一緒に出土しており、変化の時期を示すものといえます。


 今回出士したl対の土製鋳型外枠は、大きさより銅鏃の製作に使用されたと考えられます。銅鏃の製作(鋳造)過程を示すものとして、何本かの銅鑑がつながった状態で見つかったものがあり、一度に何本もの銅鏃を製作する技術があったことがわかっています。このようにして作る銅鏃の鋳型としては唐古・鍵遣跡の全長38cm、幅10cmの細長い鋳型(外枠)が相当すると考えられています。こうしたつながった状熊で見つかる例はいずれも後期以降のものです。一方、銅鏃の研究によると、中期では形態のバラエテイ‐があるのに対し、後期以降になると形態が均一化することから、単品生産から量産形態への変化があったと指摘されています。今回の出土品は大きさから複数の銅鏃を一度に作るためのものではなく、単品生産に使用されたと考えられます。
 以上の検討から.今回の出土品は、鋳型としては後期以降の新しい要素をもつ一方、銅鏃の製作技術からは中期的な要素をもつものといえます。弥生時代の青銅器製作技術を考える上で、中期から後期への変化の過渡的な様相を示すものとして重要な考古資料です。
 青銅器鋳造関連遣物の出土により、楠遣跡で青銅器の鋳造が行なわれていたことが、明らかとなりました。近畿地方で青銅器鋳造関連遺物が多数出土し、青銅器の製作を行っていた遣跡として、奈良県唐古・鍵遣跡のほか大販府茨木市東奈良遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡が知られています。これらの遺跡はいずれも長期にわたって営まれる大集落で、高度な専門的技術を要する青銅器の製作はこうした大集落でのみ行なわれてきたと考えられていました。一方、楠遣跡は弥生時代後期初頭の短期間に営まれ、今回の調査成果からは大規模な集落遺跡を想定することは困難です。
 今回出土した青銅器鋳造関連遣物の評価として、調査地周辺に未発見の弥生時代の大集落遺跡が埋もれているとする考えか、あるいは青銅器の生産を大集落以外でも行っていたという青銅器の生産・流通についての従来の説と異なる考えのいずれかをとらなくてはなりません。後者をとる場合は,今回出土した資料は、わが国における弥生時代の青銅器の製作(鋳造)を考える上て、極めて貴重な資料となると言えるでしょう。