549年 日本書紀欽明十年 (己巳)
[神功四十九年]三月(干支移動)・[継体二十三年]三月是月(不明移動)
前年に百済に伝えてあった、新しい安羅守備隊に大伴糠手・毛野臣を安羅へ送った。
安羅反乱軍の残党狩もほぼ終了した百済は、
新しい倭軍の上陸には少々不安を感じていたが
百済からは己文・沙陀の兵を持って木羅斤資(もくらこんし)の軍が
同行することで納得した。
百済とは講和条約が締結されてはいるが、新羅とは未だに合意してはいない。
新羅からすれば倭国のこれまた勝手な解釈である。
現代日本の北方領土問題みたいなものでしょう。
倭国側は百済を仲介者として、安羅・加羅ら七国の領有を主張し続けるつもりだ。
安羅近郊は百済軍も同行していたためか、みなおとなしく受け入れた。
そして新羅との講和会議を持とうとしたが、新羅側は同意しなかった。
[継体二十三年]四月(不明移動)
旧任那内の王が倭国にやってきた。
新羅の侵略は、とても激しく、なんとか早く治安維持をしてほしいとの願いであった。
大伴金村は毛野臣に、百済同様和睦を成功させるようにと伝えさせた。
[継体十年]五月(年紀移動)・[神功五十年]五月(干支移動ズレ)
百済の木羅不麻が南海島で避難生活を送っていた物部連を己文に迎えて、
ねぎらった。避難していたために、百済側に渡すことができなかった
己文・帯沙の割譲容認の詔書を聖王に届けに熊津へ向かった。
倭国も百済も物部連等は全滅させられたと思っていたため、援軍も救助もなく、
争乱が終結してやっと発見できた有り様だった。
船はもちろん、衣類や食料までも不足していたのに助かった彼等を
聖王は多くの賜物を用意し、丁重に物部連たちを慰問した。
六月
百済の使、久貴・馬次文が帰国することになり、
倭王は阿賢移那斯、佐魯麻都等が勝手に高句麗と通じていたことについて
仔細を捜査、追求する人材を送ることと、
百済の願い通り救援軍を倭に留めたことを伝えさせた。
[継体十年]九月
物部連が百済の即次将軍とともに、倭国に帰ってきた。
百済側も己文・帯沙割譲を講和条約に追加承認することを伝えた。
五経博士漢高安茂を段楊爾の交代要員としていっしょに来倭した。
その一行とは別に、
大伴糠手が高句麗の使という安定を連れて帰国してきた。
実際には安羅反乱軍と高句麗が百済を攻めてきた時の高句麗の捕虜でもある。
高句麗もまだ内乱の余波が残っており、
非主流派の人間が国内の勢力奪回の為に百済・倭といった国に近づいてきているのだろう。
(神功五十年二月移動不明)
550年 日本書紀欽明十一年 (庚午)
二月
大伴糠手を百済即次将軍らの百済帰還について遣わした。
そして高句麗からの攻撃を守れるように、矢三十具を届けた。
その後大伴糠手はすぐに安羅の状況確認に向かった。
四月・[継体二十三年]四月(不明移動続き)
新羅との交渉がまったく進められない毛野臣に
旧任那内の王たちから不満が大伴糠手に伝えた。
「毛野臣は熊川に構えて、新羅を呼びつけるだけで、出向こうともしない。
そして百済・任那の者対しては、高飛車な態度をとり、礼節を知らない。
その上、新羅が会談に応じ、兵を率いてやってきたら、安羅の馬山城に
逃げ込むようにして、新羅と対面しないのです。」
「そうしている間に新羅は南加羅の四邑を掠めてしまった。」
大伴糠手は事情確認の為、調吉士に毛野臣の行動を調べさせ、
またすぐに百済に戻り安羅反乱の状況報告と帰国する旨を百済側に伝えた。
すると聖王より高句麗の奴隷六人を賜り、自分にも一人賜った。
「阿賢移那斯・佐魯麻都の件については、倭国の方針でやって頂いて
結構。百済からこの件について、これ以上関わることはない。」
という倭国の責任問題は問わないとする返事をもらい帰国した。
[欽明二十三年]八月(不明移動)
大伴糠手よりこの報告を受けた大伴金村は、毛野臣の部隊を帰還させ
その後継部隊としては大伴軍団を送るしかないと思っていた。
倭国最強軍団のなかでも、選りすぐりの精鋭部隊である大伴狭手彦の部隊を
安羅守備隊に送ることにし、まず百済に行かせた。
百済はその時、新羅とともに高句麗を攻撃する計らいになっており、
百済聖王は大伴狭手彦に百済軍とともに攻撃に参加してほしいと願われた。
安羅のことは今後もより支援協力をしていくという約束になり
安羅守備隊の毛野臣部隊をもうしばらく安羅に駐留させることにした。
高句麗攻撃には王子余昌が軍団を指揮すると言うことでもあり、
今回援軍として共に高句麗へ向かうことは両国の協調体制を強化することにも
繋がる良い機会にもなった。
[欽明元年]九月(不明移動)
高句麗攻撃への参加と新羅問題解決についての会議が朝廷で行われた。
この席で大伴金村の責任問題が噴出した。
巨勢大臣、物部大連らから、
「新羅の態度を硬化させたのは、任那四県を百済に割譲したことによる
倭国への不信感から生まれている。」
「そのうえ、割譲に関しては百済から賄賂をもらったからだという噂も出ている。」
任那問題の総責任者として大伴金村の責任は免れなかった。
[宣化二年]十月(不明移動)・[欽明十四年]十月(不明移動)
大伴金村は内臣として筑紫に赴任することとなった。
それと同時に大伴軍団の倭王親衛隊としての務めも解かれ、
そして筑紫守備隊として左遷されるのであった。
名目上、大伴狭手彦部隊を支援するために大伴磐も筑紫に派遣するということで、
三韓、筑紫の政を執り行い、任那支援の最高責任者としての派遣ということだった。
長年倭王直属部隊であった大伴軍団のプライドを、
ズタズタにするようなことは避けられた。
大伴軍団の配備が終了したころ、百済軍はついに高句麗に出撃した。
百済は今回、新羅も同時に高句麗に進軍する手はずになっており、
倭国大伴狭手彦軍も参加していることで、
東の新羅、南の任那・倭の攻撃に備える必要がなくなり、
全軍を率いての出陣だった。
高句麗軍は内乱以降の弱体化しており、以前の強さを回復できないでいたので、
反撃もままならず、敗走するばかりだった。
551年 日本書紀欽明十二年 (辛未)
是年
百済・新羅連合軍は破竹の勢いで高句麗へ攻めこんでいった。
猛攻撃の末、漢城・南平壌を陥落させた。
大伴狭手彦軍も共に王城に入り、多くの宝物を次々と褒賞として略奪した。
さらに、百済余昌・狭手彦軍は高句麗軍を黄海道まで攻めあげていった。
百済は475年に高句麗に攻め取られてから、75年ぶりに漢城を取り戻した。
三月
筑紫より兵糧として、麦種千石が百済に贈られた。
[欽明二十三年]八月(不明移動)・[仁徳十二年]七月(年紀移動)
大伴狭手彦は、戦いもほぼ終結したので
高句麗からの戦利品を倭国に届けるためにも、軍を率いて安羅へ向かった。
大伴狭手彦より倭国に届けられた品物は
七織帳・鉄鎧二着・金装飾の刀二口・青銅鐘三口・五色幡二竿
高句麗の美女二人などであった。
多くの高句麗捕虜も送られてきた。
[継体二十四年]九月(不明移動)
安羅の毛野臣は、内偵に来ていた調吉士が
倭に戻られて現状を報告されると非常にまずいので
留めおく工作を行っていたが、
大伴軍がやってきたことで、そのことが露呈し、
毛野臣は倭国に返されることになった。
そして毛野臣は帰国途中対馬で病死してしまった。
交代に大伴磐が安羅に入り、任那の執政官の役目をしていた。
百済の高句麗侵攻作戦は大成功に終わった。
しかし、とんとん拍子に物事が進むとその反動はいつもやって来る。
新羅と百済による占領地の統治権において、意見が対立し始めていた。
552年 日本書紀欽明十三年 (壬申)
五月
百済より使者、木羅今敦(もくらこんとん)らが遣って来た。
「高句麗と新羅が連合を結び、百済・任那に攻め込もうと計画しています。
今また、援軍を頂き、まず先に不意をついて攻める作戦を考えております。
どうか、援軍を送っていただきたい」
という内容であった。
倭王は了解したことを使者に伝えた。
その時すでに、新羅と百済との小競り合いは頻発しており、
漢城などは新羅軍が支配し始めていた。
新羅の旧高句麗支配地の制圧は時間の問題であった。
ここにおいて、新羅と百済の同盟関係は破綻した。
553年 日本書紀欽明十四年 (癸酉)
正月
百済より再び使者、斯那奴次酒(しなのししゅ)らが救援軍を求めにやってきた。
木羅今敦らは急ぎ帰り、次酒らがその救援軍の交渉に入った。
事態は悪い方にどんどん向かっていた。
新羅軍は漢城、南平壌はもちろん、百済領内にも侵攻してきたのであった。
東韓地区も、もう陥落寸前であった。
高句麗対策を中心に考えていた百済は同盟関係である新羅の攻撃には
防御体制を十分に整えていなかったところを浸かれてしまった。
[応神十四年]二月(年紀移動)
新羅軍がついに安羅への攻撃も開始した。
大伴狭手彦軍が懸命に対応していた。百済からの援軍は全く見こめない。
孤立無援という姿の典型であったが、さすがに最強精鋭部隊である、
均衡状態を保ったまま数年維持しつづけた。
ただひたすら倭国軍・大伴本隊の援軍を待つのみであった。
六月
筑紫の内臣・大伴金村は百済に使者を送った。
良馬二匹、舟二隻、弓五十張、矢五十具を賜った。
「援軍は要請通り送りましょう」
倭国からの返答であったが、援軍派遣条件を提示してきた。
「医・易・暦の博士を当番交代制で派遣すること」
「卜書・暦本・種々の薬物を送ること」
であった。
大伴金村は一日も早く援軍を出したかった。磐・狭手彦を救うためにも。
しかし、ここは現場最高司令官として、彼等の力を信じて、
百済との交渉を続けた。
倭国の対応はいつも通り遅い。
八月
百済より使者、科野新羅・文休帯山がやってきた。
大伴磐の病死が告げられた。
援軍派遣の追加措置として、派遣軍の軍費をも百済が負担することを提示し、
一刻も早い援軍派遣を要請してきた。
「高句麗と新羅は倭と百済が同盟を結んでいることはわかっています。
このまま倭国が援軍を送らないならば、安羅も制圧するつもりです。」
しかし、戦場となっていない倭国、特に大和では反応が遅すぎる。
落胆する百済の使者たちであるが、唯一の救いは大伴金村が筑紫にいることである。
554年 日本書紀欽明十五年 (甲戌)
正月
木羅文次・佐文屋らが百済より筑紫にやってきた。
倭・大和との交渉では埒が開かないため、直接筑紫と交渉である。
内臣・佐伯連との派遣軍に対する現場最終うち合わせを進めた。
「一月には派遣できるというご返事を昨年頂きました。いつごろ出発できますか?
前回の争乱とは違い今回の戦は非常に厳しい状態です。早く援軍をお願いします。」
内臣は
「兵千・馬百・舟四十をすでに準備できている。あとは百済が約束を守ることだ」
大和を無視してすぐには出兵できないのが、歯痒い金村である。
すぐさま、百済側は約束を遂行するよう手配を進めた。
百済の対応はいつもながら早い。
二月
三貴将軍・物部烏らが、約束の通り各博士らと交代要員を連れてきた。
これですぐさま援軍を要請した。
三月
やっと援軍派遣が遂行される手筈が整い、木羅文次は一足早く百済に戻り、
倭軍受け入れ準備に取り掛かった。
五月
ついに大伴軍団本隊が百済上陸である。
百済軍の要請で安羅へ向かうのではなく
百済東方領忠北道の函山城への道を進んだ。
百済に侵入していた新羅軍を蹴散らしての進軍であった。
東方領の指揮官は倭国に幾度か交渉に来ていた物部麻奇牟であり、
再会と援軍に感謝した。
十二月
倭国に百済よりの戦況報告の急使・文斯干奴(もくしかんぬ)がやってきた。
「今月九日、内臣の軍の活躍によって函山城を陥落させました。
しかし、今回の戦は新羅・高句麗の合同軍です。内臣の軍に合わせて、
筑紫各地よりの更なる援軍を要請申し上げます。」
「戦ののち百済は任那のために一万の軍兵を用意いたします。
なにとぞ、さらなる援軍をお願いいたします。」
錦・毛氈・斧三百・捕虜男二女五を奉って願い出た。
そのころ百済では、函山城陥落を糸口に新羅に攻め入ろうと
百済王子余昌は主張し、重臣たちの意見を退け、新羅に進軍を開始した。
慶北道西北部、久陀牟羅に砦を築き、新羅軍と戦闘を繰り広げた。
しかし、苦戦を強いられる事態に百済聖王は
余昌軍を助けようと、自ら出陣をし、新羅へ入った。
この報告は新羅軍に伝わり、新羅は全軍を集中し、聖王軍に挑んだ。
そこで、聖王は討ち取られることになってしまった。
さらに余昌軍は新羅軍に包囲され、逃げ出すこともできない状態に陥った。
しかし幸運にも余昌軍について来ていた大伴軍団の大活躍により、
囲みを破り、やっと百済に逃げ帰ることができた。
555年 日本書紀欽明十六年 (乙亥)
二月
百済王子余昌の弟、恵が倭国にやってきた。
百済聖王の戦死の報告し兄・余昌が王となることも伝えた。
[応神十六年]八月
大伴軍本隊は余昌を百済側の安全が確保できるところまで送ったのち安羅へ向かった。
そして新羅と単独で戦ってきた大伴狭手彦軍を救援した。
安羅・加羅の包囲軍を打ち破って安羅に入城したのである。
新羅軍も百済戦勝利のあとでもあり、こちらにはあまり深入りせず、
新羅本国に退去する方針のようである。
こののち戦局は膠着状態となったので、
大伴軍本隊について狭手彦も一度筑紫にもどった。
多くの亡命避難民も引き連れてである。
556年 日本書紀欽明十七年 (丙子)
正月
百済王子恵が帰国するにあたって、多くの武器・良馬を与えた。
阿倍臣、佐伯連、播磨直らが護衛として付き、
筑紫の大伴水軍が百済へ送り届けた。
大伴狭手彦は任那担当執政官として、新しく再編成された大伴精鋭部隊千を率いて
ともに朝鮮半島まで進んでいった。
そののち数年新羅は百済、安羅・筑紫と大きな交戦はしなかった。
何の策を用いずに、正面から挑んでは自分たちが高句麗の二の舞である。
新羅の策略は大伴狭手彦に向けられることとなった。
しかし大伴軍団には内にも敵がいた。
倭国内では、いつまでも勢力が衰えない大伴金村を危険視するものもいた。
衰えるどころか九州の雄としての地位を確立している金村を驚異に感じていた。
560年 日本書紀欽明二十一年 (庚辰)
九月
突然、新羅より倭国に使者・弥至己知がやってきた。御調物を持ってきた。
倭国に来る前に安羅の狭手彦とも会見していた。
その時に、狭手彦に美人を二人与えていた。
この女性を妃として受け入れることにより同盟を計りたいという申し立てであった。
倭国では講和条約締結がなされることを期待し、多いに歓待した。
しかし、倭国内では、不穏な噂も流れていた。
正確には流されていたということなのであろう。
「大伴金村が新羅と同盟を組み、筑紫、安羅は倭国に離反しようとしている。」
金村反逆は、かなり信憑性があるかのように伝えられていた。
そこへ百済から思わぬ噂が流れてきた。
加羅王家が狭手彦と新羅に加羅を奪われて百済に逃げ込んできたということである。
その噂を聞き、倭国は大伴金村征討軍が結成された。
こんな時は、異様に動きが早い。
大伴軍団に先に攻められると
大和はどうなってしまうのか、という恐怖がそうさせた。
物部連軍団がこの任に当たった。大伴軍に対抗できる軍は倭国内には、
物部連軍しかないと誰もが思っていた。
実際には、大伴狭手彦としては講和をスムーズに運ぶようにと思って
承諾した妃として受け入れることが、思わぬ事態を生んでしまった。
加羅としては狭手彦の裏切りだと感じ、慌てて百済に逃げ込んだのである。
561年 日本書紀欽明二十二年 (辛巳)
この年、再び新羅の使者がやってきたが、倭国の冷遇に合うはめになった。
すぐさま帰国し、倭国の攻撃に備えることとなった。
これもまた、新羅の策略であった。
安羅・筑紫・大和との連携を崩すことに成功したのである。
十一月
物部軍団は当初新羅討伐の為に派遣されるという名目で筑紫に送ることとした。
大伴軍を油断させる為であった。
大伴金村は無実の罪を着せられてしまっていたのだが、
金村自身筑紫にいて、半島情勢ばかり気にしていたので大和の内情は知らなかった。
大和からの征討軍が突然筑紫軍を攻撃してきたのである。
言い分も聞かずに筑紫軍に攻撃を加えるには、大伴を潰そうという物部の意図があった。
さすがの大伴軍もまさか攻撃されるとは思っていなかったので、
ずるずると敗走していった。
そして金村は討ち取られるのであった。
しかし、戦後反逆の証拠を探したが、
まったく反逆の事実はなく、このことは倭国では内密に処理された。
562年 日本書紀欽明二十三年 (壬午)
[神功六十二年百済記](干支移動)
そんなことになっていることを知らない大伴狭手彦は、新羅との交渉を続けていた。
加羅王家が百済に脱出した理由は、新羅の使人の各地への配備だった。
妃を新羅からいれたことで、
用心として従者を多く入れてきた。
その従者たちが治安維持を理由に各地に配備されていた。
加羅、安羅としては新羅統治官が配備されたと思っても仕方がないであろう。
このとんでもない事態に、こんな約束はしていないと抗議をしていたのである。
倭国との交渉は不具合に終わっており、これもまた新羅の謀略だった。
ならば、約束を反故にするとして新羅は攻め込んできた。
七月
大伴狭手彦はすぐさま任那西部方面で守備をしていた紀臣男麻呂軍を安羅によび、
新羅軍と激戦を繰り広げた。
百済からは木羅斤資が援軍として新羅軍を攻撃していた。
一旦、新羅軍を崩し退却させたのであったが、
この退却が新羅の巧妙な罠であり、追撃をした河辺臣軍は
その罠にはまってしまい新羅の反撃にあい壊滅してしまった。
狭手彦は河辺軍を救おうと突進していったがすでに形勢を逆転できる事態ではなく、
狭手彦自身退却するしかなかった。
一度筑紫で軍を整え、新羅軍に反撃を加えることを選んだ。
紀臣男麻呂軍とともに狭手彦軍も筑紫に退却することとしたが、
その時に金村が反逆罪で討たれたことを聞き、
悲しみ自分の行動のせいであったことも悔い、
一人帰る事をやめた。
新羅との講和条約を締結できないまま
倭の朝鮮半島での最後の砦であった、安羅・加羅は新羅に占領された。
ついに任那の完全消滅である。
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