まず始めに、お断りしておきますが、
この物語の発想は、池田定道著「推古朝こそ原帝紀成立期」の説を基本に、
年紀、干支を巧みに利用し、移動、改造を行った日本書紀
編纂者たちのからくりを解明しようというものです。
そのなかの任那(半島)関連だけを取り上げて、空想してみました。
物語は、欽明2年(辛酉)541年より始まります。
当時の朝鮮半島の姿を私の考え方で述べておきますと、
すでに朝鮮半島に任那という国は存在せず、東部方面の任那は
532年金官国王が新羅に投降した時点で、加羅独自の統治者は対外的に認められない。
任那西部方面は以前より百済の支配が及んでいた上に、
529年に百済が高句麗に攻められたことで、南下を余儀なくされ、
任那西部方面に、多くの流民が百済から入り込み、実質支配をも掌握していた。
これらの時点で日本が任那と呼んでいる地域は、安羅地区を除いて
百済、新羅の国にとっては、すでに自国の領域となっている。
541年から考えると、もう10年近く前に、実質存在しないのです。
西暦400年代日本が任那と呼んだ地域の寿命は100年もたなかった。
倭の五王の時代の終焉が任那の終焉だったのでしょう。
新羅、百済からすれば、自分たちの支配地に倭が侵入したという認識でしょう。
独立した国が存在したというのではなく、その地域が侵略されていたということ。
対外的にも加羅王は存在しても、任那王は存在しないのです。
国ではなく、侵略地が「任那」という解釈に至っています。
地名としての安羅→ニンナ→みまな と変化させたのではないでしょうか。
物語の時代背景は、倭王「武」が亡くなって以来、倭国内が混乱状態になり、
朝鮮半島への介入どころでは、なくなってしまっていた。
そのため任那を形成していた加耶連合体は独自で自分たちを守っていかなくては
ならなくなり、弱者は新羅や百済に編入・吸収されることを余儀なくされた。
しかし、倭人の一部に自立し独立国を建てようとするグループも出てきた。
現代史で言えば、アフガニスタンの情勢が類似する例なのではないでしょうか。
イスラエルとパレスチナという側面もあるかも。
パキスタンがタリバンを支援し、そのなかで、アルカイダの暗躍。これは
筑紫が任那独立派を支援し、大和からの軍事顧問を現地に送る。という形に近いと。
倭国が百済、新羅などの国のてまえ、支援できなくなってしまうと、
タリバンの末路と同じことが、任那独立派に襲ってくる。そんな時代の物語。
541年 日本書紀欽明二年(辛酉)
七月
百済より、使者が倭に遣って来た。
紀臣彌麻沙(みまさ)・己連(これん)・物部連用奇多(ようがた)等である。
会見にあたったのは、この時の最高権力者である大伴金村であった。
彼らと大伴一族とは、無縁な関係ではない、ともに昔は同胞である。
祖先が、百済につくか、倭につくか、の違いが現状の違いになってしまうのである。
彼等の来倭の目的は下韓情勢についての現状を訴えることであるが、
暗に倭国へ対しての抗議も兼ねていた。
「今、下韓では安羅にいる河内直・阿賢移那斯(あけえなし)・佐魯麻都(さろまつ)等が新羅と計略を計っております。彼等をなんとかしないと危険です、ご注意下さい。
というのが、わが王、聖王からの進言であります。どうかご配慮を。」
その言葉を聞いて、
大伴金村は怒りを含めた薄ら笑いを使者に見られないようにしていた。
彼にはすでに現地の内情は、わかっていた。
新羅と計略を計っているのは百済であり、両国が協同で旧任那領の反乱分子を
鎮圧していく計画であることを。
「遠路よりのご報告、ありがとう。当方でも詳細について至急調べさせ、わかり次第、こちらから連絡をさせるので、宿舎にて、待機されたし。」
彼等を簡単に返すわけにはいかない。時間稼ぎをするしか今の倭国には打つ手がない。
大伴金村も解っていてハッキリとものが言えないのが、悔しくて唇を噛む思いであった。
今の倭国内は、混乱状態が続き、とても半島情勢に介入する余裕が無いのである。
すでに安羅より、百済・新羅の密約は連絡されていた。
内容には「なんとか速く援軍を!任那復興を!」という悲壮な叫びでもあった。
任那の大半を占領された後、いつか、われ等の祖国を取り返そうとゲリラ組織を残し、
援助してきたが、現状に至ってもまだ倭国内の問題で手一杯なのである。
迂闊に大伴の軍を動かすことはできない。
そんなことをすれば自分で自分の首をしめるようなものだということは十分承知していた。
「とにかく、時間をかせぐしかない」
大伴金村は使節を留めている間に、密かに河内直らに作戦を伝えた。
最大任那地図
最小任那地図
542年 日本書紀欽明三年(壬戌)
[継体三年]二月(年紀移動)
使節が留まっている間に大伴金村は車持君(毛野系)を筑紫から百済に使わせた。
その本当の目的は、河内直らに、大伴金村の指令を伝えるためであった。
筑紫の多くの民は任那復興に賛同している。
倭の故郷の国でもあり、百済、新羅に任那が完全制圧されてしまうと、
次に標的にされるのは筑紫であると、そう彼らは自覚していた。
大和とはそれだけ緊迫感が違っていた。
密使の内容は旧任那領内の百済流民たちを襲い、百済を混乱させるという作戦である。
それと同時に車持君の正式な役目は、従来の倭国の主張を強く百済に伝えることであった。
「即刻、任那領より兵を退去されたし、そして任那を返して頂きたい。」
百済側は新羅との密約が倭国側に漏れているということもありえると感じた時だった。
543年 日本書紀欽明四年(癸亥)
四月
百済使節、紀臣彌麻沙等が百済に帰った。
彼等は散々待たされた挙句に、受け取った返事は
「そのような事実はなかった。それよりも早く任那を返せ」
であった。
百済に帰り、聖王に報告した彼等は、自分たちが倭国に居る間に
車持君が来ていたことを知った。
倭国側に河内直らへの疑念を抱かせ、内部崩壊をねらった作戦はみごとに失敗で
あったと、百済の王も群臣たちも感じていた。
百済も、高句麗軍に備えることで精一杯の状況で、
百済内旧任那領をゲリラ的に攻めてくる河内直らに対応しきれないでいた。
新羅との密約講和で、新羅と直接相対することはしばらくは無いと思うが、
いつ密約を反古にするかわからない相手であり、そちらの注意も怠れない。
今回はまんまと、大伴金村の時間稼ぎ作戦にはまってしまったのであった。
「老獪な策者だ」
聖王は自分より策略において一枚上手をいく
大伴金村に興味と恐怖を感じていた。
そして新たな策を講じることになった。
九月
百済聖王はすぐさま、新しい作戦を展開させた。
眞牟貴文(しんむくゐもん)・己州己婁(こつこる)・物部麻奇牟(まがむ)を
倭国に送った。
聖王は彼等に特別な財宝をたくさん持たせたのである。
それは、とても珍しい扶南(クメール)の財物と奴隷二人。
権力者となったものは、みな貴重な財宝には弱い。
その欲望をくすぐる賄賂による懐柔策を行うのである。
十一月
大伴金村は安羅からの要請を受け、新羅・百済に倭王の詔書を送った。
任那を侵略されつづけて十数年、安羅の倭の群臣たちも疲労していた。
今、安羅には任那国司として吉備臣田狭(吉備上道系)
大将軍として紀臣生磐(おいわ)(武内系)を送り込んであるが、(雄略紀より)
倭国内が安定しないと、これ以上の戦力を任那へ送るわけにはいけない。
任那を放置して十数年、大伴金村自身も苦悩しているのであった。
とりあえずの時間稼ぎの第二弾として、強気な詔書を送ることにした。
新羅には伊賀臣(大彦命系)を遣わし、百済には津守連(火明命系)を遣わした。
「両国に速やかに、任那から兵をひきなさい。」
百済・新羅にとっては、倭国からの勝手な通告であった。
特に百済には、
「任那領内に入っている郡令・城主を退去させろ」
というものだった。
そして
「河内直らは任那から百済軍が退去したならば、引き上げることは言うまでもない。」
この通告に百済は、慌てた。
聖王はその日のうちに重臣たちを呼び、一人づつ次々と尋ね、
倭国への返答を模索した。
高句麗の攻撃に悩まされている今、倭国と争うことは避けるべきである。
高句麗、倭国と南北に敵を持ってしまったら、
すぐに、東からも新羅が攻めてくるであろう。
そうなれば、百済は滅亡の危機に瀕する事は王も重臣たちもわかっていた。
しかし、今旧任那領から撤退することは、できない相談である。
大事な北部方面戦闘地域への補給物資調達地区になっていた。
十二月
百済聖王は多くの群臣たちを集め、どう対処するべきか対応策をねった。
群臣たちの意見は
「まず、今、倭国と戦争になることは避けたほうが良い、
ここは、倭国には巧くとりなして、この場をやりすごし、
その間に任那内の王や重臣たちを懐柔し、倭国の臣たちを孤立させるのが良い。
河内直・阿賢移那斯(あけえなし)・佐魯麻都(さろまつ)等が安羅に居る間は
旧任那領は完全に掌握できないでしょう。
なんとか、彼等を本国に帰還させる手立てを考えることです。」
多くの群臣の言う通りだと聖王も思っていた。
さっそく、高文(かうぶん)を任那内の王たちに遣わし、
倭王の要請により、百済にて会談を開くので来て欲しいと伝えると、
「正月が過ぎてから参りましょう」
と、気の抜けたような返事であった。
544年 日本書紀欽明五年(甲子)
正月
百済より再び、任那内の王たちに使いが出た。正月が過ぎるからである。
しかし、彼等の返事は
「神祭りの時が来たので、終わってから参りましょう」
頃合を見計らいもう一度、百済から使いが出た。
今度は百済にやってきたが、話にならない身分の低いものたちを遣してきた。
百済の策略は、またしても失敗に終わった。
二月
百済聖王は、馬武(めむ)・高文屋(かうぶんをく)・斯那奴次酒(しなのししゅ)を
任那に使節として遣わし、会談を行った。
「倭王の要請があって会談を行おうとしているのに、三度も呼んだのに、
いったいどうゆうことなのでしょうか。」
「今、倭の津守連に留まってもらい、急使を倭王に送り、この現状を報告する。」
そう言い放ち、河内直らの行いを非難し、
「倭王にお願いして、彼等には本国に帰ってもらう」
「一箇所に集まらないと話し合いもできないではないですか」
これに河内直は答えた。
「新羅に伊賀臣・百済に津守連が詔書を持っていったことは知っている。
しかし、その内容は両国とも即刻任那領より撤退しろということだと聞いている。
百済には郡令・城主を退去させることを伝えると津守連からも聞いている。
それなのに、どうして我等が百済の命令を聞いて、のこのこと出かけなくては
いけないのか。その上、『かの国に通じているなどと言われる恐れがあるので、
勝手に百済・新羅には行くな』とも言われている。
だから百済に行かないのは倭王の命令でもある。」
もっともな意見であった。
百済の使たちもこれ以上なにも言うことはできなかった。
しかし、河内直ら、倭の臣たちが退席したあとで、
任那内の王の一人が彼等に耳打ちをしてきた。
「我等は行ってもいいのだが、倭の臣たちに出席することは許さないと言われたので
国を出ることはできませんでした。」
百済の使たちに、光が見えた。
もともと小国家の連合体のまま倭国に占領されたために、
百済のような君主制、新羅のような貴族協議制は確立されていなかった。
任那内の王たちと倭の臣たちとは一枚岩という状態には程遠い形態なのである。
三月
百済より津守連が帰国した。
そして一緒に百済は巨勢奇麻(がま)・物部奇非(がひ)を遣わしてきた。
大伴金村との会見にてかれらは
「任那と会談を持とうとしたが、三回も呼びに行かせたが、やってきません。
これは阿賢移那斯(あけえなし)・佐魯麻都(さろまつ)が、安羅の倭の臣たちを
謀って反乱をもくろんでいる証拠です。」
「阿賢移那斯(あけえなし)・佐魯麻都(さろまつ)は卑しき下臣であるのに、
任那の政を我が物としている。この二人を直ちに本国に返すことが、任那のためです。」
「その上、佐魯麻都らは新羅服を着て、新羅と通じていると報告を受けています。」
大伴金村は彼等に倭王の言葉を伝えた。
「紀臣生磐等は新羅と対峙してよく戦っていることと聞いている。
新羅と通じるようなことを命令したことなどない。
百済王は阿賢移那斯・佐魯麻都について報告をしてくるが、百済が任那の地から
退去するなら自然に彼等も退くであろう。」
いままでと全く変わらない返事であった。
十月
百済の使、巨勢奇麻(がま)・物部奇非(がひ)が百済に帰った。
宝物による懐柔策は、成功しなかったのである。
百済聖王は、この報告を聞いて、倭国への懐柔策は変更するしかなかった。
新たなる標的となる任那内の王たちへの懐柔策を展開するのである。
十一月
任那内の王たちに内密に百済の使が遣わし、百済につぎつぎと呼んだ。
聖王の言うには、
「倭王・津守連から任那にある百済軍を退去させろと言われている。
しかし倭王や倭国の臣たちは加耶を守る策をいままで打ち出してきただろうか。
ただ我等百済に兵を退去させろというだけである。
そんなことで新羅から加耶を守れるだろうか。そうではないであろう。」
「百済王としてここに三つの策を提示したい。
一つは新羅を安羅の間には大きな川があり、要害の地である。
その新羅側の地には城が五城ある。吾はここに城を六つ築城したいと思う。
各城に五百人づつ配備すれば、新羅も手を出してくることはないであろう。
二つは下韓に配備した吾等の城は、北敵高句麗と残虐非道な新羅より
百済と加耶の国々を守る為に兵をおいているのである。百済と加耶とが協力しあって
戦わなければ、我々が滅ぼされてしまう。
三つは安羅に吉備臣・河内直・阿賢移那斯・佐魯麻都がいるかぎり、この国は安定しない。
この四人を本国倭国に帰っていただくことが必要である。加耶の王たちもそのことを
倭王に奏上していただきたい。
そうすれば、この国は末永く安泰になるであろう。」
任那内の王たちは、みな国に帰って相談すると言って戻っていった。
任那復興会議ではなく、任那占領政策会議である。
この内容はすぐに、安羅の倭の臣たちにも漏れ聞こえた。
阿賢移那斯・佐魯麻都などは歯軋りをする思いであった。
「大伴の君がすぐに兵を送ってこないからこんなことになるんだ。
任那を守るつもりが、大伴君には本当にあるのか。」
「いつまでも待ってはいられない。加耶の王たちがすべて百済についてしまえば、
今よりもさらに吾等の身が危険になる。」
「ならば、倭国の力を借りずとも吾等だけで、任那の王を建てようではないか。」
「そうだ。今ならまだ間に合う。加耶の王たちが百済につく前に
吾等の任那王を建てようではないか。」
紀臣生磐・吉備臣・河内直は倭国を裏切るということには、躊躇したが、
現実に加耶の王たちが任那から離反してしまうことは時間の問題だとわかっていた。
545年 日本書紀欽明六年 (乙丑)
三月
大伴金村のもとにも、百済、加耶、安羅の情勢の噂が伝えられた。
「これは、本当なのか?」
安羅に反倭国的独立の動きがあることが彼を驚愕させた。
直ちに、膳臣巴提便(はすひ)(大彦系)を百済へ送り、
そこから百済、加耶、安羅の情勢を確かめる為に内偵させることにした。
[継体六年]四月(年紀移動)
安羅の情報を聞き大伴金村は、方針変更を余儀なくされた。
すでに金村自身も安羅は暴発寸前であろうという気がしていたのである。
そうなれば、援軍を得られない安羅では滅亡してしまうだろう。
倭国の軍は、まだ動けない。
時間稼ぎしか手が無かったが、安羅がその時間に耐えられなくなってしまった。
そこで大伴金村は穂積臣押山を百済に遣わせて百済との講和を考慮するという
安羅を無視する方策を検討することにした。
百済に占領された多利の国守でもあった押山に
百済に支配させている任那の地が奪回可能か、どうか、
確かめさせる為に内情の解っている彼を行かせたのである。
もう失地回復の目途が立たないようならば、
百済と講和して下韓を割譲するかわりに倭国にとって有益な条件を引き出すことも
頭に入れておくように押山に伝えた。
今回は以前の扶南(クメール)の財宝の返礼に、筑紫の馬四十頭を持たせた。
五月
穂積臣押山の今回の来済は、百済にとって思わぬ朗報であった。
すぐさま、己連・物部用奇多・斯那奴次酒等を倭国に遣わした。
百済からの現地講和条約事前交渉団である。現代の次官級協議でしょうか。
九月
百済は任那内の王たちへの懐柔策も怠らなかった。
菩提等を彼等に遣わし、呉の財宝をばら撒きに行かせたのである。
百済にとっては、押せ押せモードである。
十一月
百済から安羅へ内偵に行かせていた膳臣巴提便(はすひ)が倭国に帰ってきた。
虎の皮を剥ぎ取ってきたという話に、安羅の内情を読み取った大伴金村は
倭王にこれまでのいきさつを説明し、今後の方針として
百済から有益な条件を引き出すことに専念する旨を伝え、同意を得て
本格的に講和に動き始めるのであった。
[継体六年]十二月(年紀移動)
百済より正式な講和条約調印のための使節が多くの調物をもって
倭国にやってきた。
穂積臣押山の奏上も一緒に届いた。
講和条約は
「上多利、下多利、沙陀、牟婁の四県を百済に割譲すること。四県地図
百済からは、四県の分も含めた調物を倭国に送ることと、
高貴な識者たちや人質を倭国に派遣すること。」
であった。
これにて倭・百済間の講和条約は成立した。
しかし、これには皇子と物部麁鹿火に異議があったが
大伴金村の主張を覆すことはできなかった。
博士クラスの人材を派遣ではあるが獲得できることは大きな意味があった。
国内の混乱を制するには、新しい知識が必要だと感じていたのである。
この月に、高句麗に内乱が勃発していた。
546年 日本書紀欽明七年 (丙寅)
正月
百済使節団の己連たちは条約調印を済ませ、百済への帰路についた。
倭国より、条約調印の印として良馬七十頭、船十隻を賜った。
大伴金村の力で交渉は無事済んだが、ほっとすることはできなかった。
この調印を聞いた安羅が、ついに暴発したのである。
任那の範囲であった各地にゲリラ戦をよりいっそう展開しはじめた。
反百済、反新羅、反倭というグループの成立である。
「彼等を見殺しに、するのか!金村」
「まだ大軍を動かせないのだ!助けようがないだろ!」
金村自身、自問自答を繰り返していた。
継体二十三年三月(不明移動)
穂積臣押山が無事調印を済ませ、帰国しようとした時に
安羅反乱軍が己文でゲリラ戦を激しく仕掛けてきていた。
己文は割譲されていない地域ではあるが、ここもすでに百済支配地となっていた。
そのために帰国の時期が少し遅れ、将軍が警護につくことになった。
このような事態になったことで、百済聖王はさらなる要求を穂積臣押山に伝えた。
「倭国への調物や使者を送ろうにもこれでは被害を受けてしまいます。
己文を賜り陸路を確保して、帯沙の津を海路の港として賜りたい」と言う要求である。
安羅反乱軍の行動は、百済にさらなる割譲要求をさせてしまう好材料になってしまった。
六月・継体七年六月(年紀移動)
百済での条約調印を済ませた穂積臣押山が倭に帰国してきた。
掠葉禮(けいせふらい)・文貴将軍(もんくい)・即爾将軍(そに)が
百済の使として、いっしょに遣って来た。
五経博士段楊爾と調物も約束通り届けられた。
そして、百済の使者は安羅反乱軍が己文で被害をあたえていることを報告し、
戦闘をやめるよう、倭王からも安羅に通達して頂きたいということを伝えた。
穂積臣押山は大伴金村に百済聖王のさらなる要求を報告しなくてはいけなかった。
この事態を打開させるために、任那国守吉備臣へ使者を送ることにした。
雄略七年八月(年紀移動)
倭国は任那に送る使者を誰にするか迷っていた。
吉備臣の子、弟君を使者とする吉備の軍団を出発させた。
反乱軍と化している彼等には、やはり身内のほうがいいだろうという金村の判断であった。
百済との争いはもうやめて、安羅をしっかり守ってほしい旨を伝えさせた。
しかし、このことが、意外な結果を生んでしまった。
吉備臣弟君の吉備軍団が安羅の反乱軍に加わってしまったのである。
大伴金村の大失策であった。
十一月・[継体二十三年]三月是月(不明移動)
安羅から抗議の使者がやってきた。
吉備臣弟君から、四県のみならず、
己文・帯沙の津の割譲を倭国が考えていることを聞き、
「帯沙津は任那にとっても大事な港である。そこまでも簡単に割譲していいのか。
帯沙津は始めから倭王より任那が任されていた土地である。
こんなことでは任那の復興はますます難しくなります。
任那の地であると宣言してください。
でなければ吾等は、断固として百済の侵入は阻止します。」
安羅側の願いを受けて、朝廷で会議が行われた。
百済の講和条件の調物・博士の派遣・人質の差出は、大軍を任那に派遣できない倭国には
決して悪いものではない、という意見が大勢を占めていた。
朝廷では己文・帯沙の割譲も止む無しという結論に至った。
そして使者に、安羅をしっかり守ることを伝えた。
安羅にしたら、とてもとても納得のできるものではなかった。
新たな割譲は百済の文貴将軍らにも伝えられた。百済にとって良い流れが続いていた。
547年 日本書紀欽明八年 (丁卯)
[継体八年]三月(年紀移動)[顕宗三年](干支移動)
ついに安羅が、倭国の意向に反する行動に打って出た。
紀臣生磐が自ら「神聖」と名乗り、任那国王を宣言したのである。
生磐らは、もはや倭国からの救援を受けることができないことはもちろん解っていたので、
自ら、高句麗に行き通い共に新羅・百済を攻める作戦に合意を得ていた。
まさに「窮鼠猫を噛む」である。いままで我慢してきたものが一気に爆発した。
作戦も周到に計画されていた。
百済方面戦線
ゲリラ戦を行ってきていた己文・帯沙に城を築き、満渓まで前線が引かれた。
各地に烽火台・武器庫を設営して倭国からの侵入にも備えた。
新羅方面戦線
爾列比・麻須比に城を築き、そこから推火まで前線が引かれた。
略奪、敵対するものは皆殺し、あまりにも残虐な戦いが繰り広げられた。
戦線地図
百済方面戦線では阿賢移那斯・佐魯麻都らが百済領の深くまで進撃した。
全北道の爾林城まで攻めこみ、城守爾解を殺害するほどの快進撃であった。
電撃作戦大成功である。
そして南に下がり、帯山に城を築き前線基地として、
百済の下韓からの補給路を遮断した。
百済には次々と想像を絶する最悪の戦況が伝えられた。
とんとん拍子に倭国との交渉が進んだ反動はあまりにも大きかった。
そして百済の高句麗戦線より、さらに恐ろしい報告がきた。
高句麗の内乱も終結してしまい、またしても攻めてくるというのだ。
任那と高句麗は通じており、この戦況を聞き、
高句麗からの百済攻撃軍が編成されているという報告だった。
四月
百済より宣文(せんもん)・巨勢奇麻(がま)が遣わされてきた。
人質として残っている文休麻那と交代に東城子言を派遣してきた。
そして倭からの救援軍を頼んできたのである。
高句麗からの攻撃も始りそうな状況では、
百済のみでは南と北からの攻撃に耐えることができそうにないのです。
予想外の任那の快進撃に驚いている上に、強敵高句麗の百済攻撃準備は
百済の国中を恐怖に陥れていた。
548年 日本書紀欽明九年 (戊辰)
正月
倭国での百済救援軍の話し合いは遅々として進まなかった。
大伴金村率いる大伴軍を派遣するのか、
物部麁鹿火率いる物部軍を派遣するのか、いつまでも議論は紛糾した。
吉備軍の派遣で失策をしてしまった金村には、すでに大きな主導権は無くなっていた。
百済から来ている使者たちもすでに一年ほど倭国内に留まったままである。
もう、倭国の結論を待ってはいられない。
使節たちは自分たちだけでも帰国することを、倭国側に伝えた。
倭国側も慌てて、ならばまず物部連の水軍五百を送ることした。
その知らせを聞いて、即爾将軍とともに先に
宣文・巨勢奇麻・掠葉禮らは直接百済に戻る路を進み、急ぎ帰った。
この月、高句麗軍がついに百済に進軍し、馬津城を包囲した。
[継体九年]二月(年紀移動)・[継体二十三年]三月是月(不明移動)
物部伊勢連父根率いる水軍と文貴将軍の部隊が巨済島に入った。
任那の安羅反乱軍は倭国を憎み、ひどく暴れまわっているという話を
現地からも聞いた。
そこから激戦地でもある帯沙へ物部連水軍は向かうことにした。
文貴将軍は、ここで別れ、新羅に向かい援軍を頼んだのち
本国へ戻る路を取った。
[雄略九年]三月(年紀移動)
新羅方面戦線
吉備臣・蘇我韓子・大伴談・角臣らの軍は破竹の勢いで、新羅を攻め、
新羅に占拠されていた慶北の卓淳あたりを制圧していった。
吉備臣部隊は次々と新羅軍を打ち破り、
敗走する新羅軍の敵将を追撃し斬った。
しかし残兵たちは、しぶとく抵抗し、戦ってくる。
そこで大伴談部隊と合流し、さらに攻撃を加えた。
新羅軍の抵抗もすさまじいまのだった。この戦いで大伴談が憤死。
その後も戦いは続いたが、新羅残兵たちは徐々に退却していった。
その戦いの傷がもとで、吉備臣も亡くなった。
[継体九年]四月(年紀移動)
帯沙津に展開していた物部水軍に向かって、任那の軍が攻め込んできた。
あまりの凄まじい勢いに圧倒され、身包み剥がされ、物資は略奪され、
命からがら南海島まで逃げ延びるのが精一杯であった。
[顕宗三年]是年(干支移動、続き)
百済聖王は正月より始った高句麗軍との馬津城の戦いにおいて、
よく守り、退却させたことで今度は任那反乱軍の帯山城へ軍を送った。
帯山城の戦いでは任那兵一人に百済兵百人当たっても破られるほどの
勢いであったが、戦が始ってほぼ一年経つこのごろは
勢いのあった任那軍にかなり疲弊が見られるようになった。
高句麗軍が撤退し、百済軍の兵力が増したこともあり、
徐々に力を失いつつあった。
四月
百済より掠葉禮が倭国に遣わされてきた。
戦況報告とさらなる救援軍の渡海を一時待ってもらうことであった。
戦況報告では高句麗との馬津城の戦いによって捕らえた捕虜から
聞き出した「任那が高句麗軍を百済に招き入れた」という情報から
任那反乱軍との共闘密約の可能性が高いことについて報告された。
そして高句麗軍が撤退したことで、援軍もすぐにはいらない状況となり、
しばらく待機していただきたいということであった。
百済側は、救援軍が万が一にも任那反乱軍についてしまう可能性が
あることも考慮できるだけの余裕ができたのだろう。
[雄略九年]五月(年紀移動)
紀臣生磐は、新羅との戦いで吉備臣と大伴談を失ったことを知らされ、
新羅方面前線へ行き、軍を立て直すために部隊をまとめた。
角臣部隊を勝手に自分の部隊に編入したと、角臣は怒り、蘇我韓子に
「生磐君は次には蘇我部隊をも自分のものにしてしまうつもりだ」
とあまりの勝手な所業に不平を洩らしていた。
任那安羅反乱軍のなかで、疲労も重なり、諸将の間に亀裂ができ始めていた。
そんな折、百済方面戦線において帯山城があぶないという報がはいった。
紀臣生磐は軍を率いて百済・帯山城へ向かい百済と戦った。
しかし、すでに百済軍に立ち向かえるほどの力は無くなっていた。
指揮系統の亀裂も、任那安羅反乱軍に追い討ちをかけていた。
ここにおいて、任那安羅反乱軍本隊は百済に殲滅させられることとなった。
七月
百済の使い、掠葉禮が百済に帰った。
倭国王より安羅の暴徒たちが去った任那の治安維持のために、
若干の軍隊を送ること六月に伝えられていた。
|