材木町(ざいもくまち)
材木商人が集まっていた町。

豊臣秀長は城下町繁栄策として、同業者による町を形成し、営業上の独占権を与え、商工業保護に力をいれた。材木町もそれに属し、明治21年8月の町村合併願書のなかに「材木商入ノ集合セル所ヲ材木町ト名ク」とあり、このように認識されてきた。

天正16年(1588)の春岳院文書「郡山惣町分日記」に、その名を連ね「箱本十三町」の1つとなっている。天正19年8月には「箱本十三町」の地子(じし)免除となり、秀長の跡を継いだ秀保もこの保護政策を受げ継いでいる。

天明6年(1786)の調べによると、町の長さ121間半、道幅2間半、居宅139軒とある。

嘉永の地震に、この町では住宅2棟が倒壊し、1人が死亡している。

この町は「高田町大門付町割」によって、紺屋町・綿町・今井町・矢田町の町民と交替で、高田町大門の勤番を義務づけられていた。

明治維新後の行政所属は、明治9年12月身5目から「大和由第2大区2小区」に属し、同17年7月1目からは「添下郡第22戸長役場」に所属していた。

明治21年4月の「町村制」によって、45カ町村が合併して新しく郡山町となるのに加わって明治22年4月1日から郡山町に属し、材木町は大字となった。そのときの戸数は59戸、人口は267人であった。

(ふるさと大和郡山歴史事典より)

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