| 豆腐町(とうふまち) |
| 「箱本十三町」の1つで、、豊臣秀長の城下町繁栄策によって、初期には豆腐製造業者らが形成した町であろう。天正19年(1591)8月には地子を免除され、秀長の跡を継いだ秀保も、この保護政策を継いでいる。 元禄の大火のとき、この町では居宅50軒が類焼している。 天明6年(1786)の調べによると、町の長さ128間、道幅1間4尺、本家62軒、借家36軒となっている。 またこの年には、大雨洪水の災害があり、翌7年にはいってから、4月中は雨続き、大風雨、雹まで降るという悪天侯続きで、作物の収穫が全くなく、世上は不安に包まれ、町方豪商は米を隠すまでになった。 5月になって各所で一撲が続発し、5月13日には豆腐町で米騒動が起き、米屋が打ち壊しにあっている。 嘉永7年(1854)6月13日の昼から15日の朝にかけての大地震で、この町の住宅12軒が倒壊し、2人が死亡している。 この町は「柳町大門付町割」によって、柳1丁目から5丁目までと車町・堺町の住民と交代で柳町大門の勤番を義務づげられていた。 明治21年4月の「町村制」に基づいて、今井町・堺町など45カ町村をもって新しい郡山町として、明治22年4月1日に発足するまでの行政所属は、明治9年12月25日からは「大和国第2大区2小区」に属し、明治17年7月1日からは「添下郡第22戸長役場」に属していた。 |