堺町(さかいまち)
天正13年(1585)9月、郡山に入部した豊臣秀長は、城下町の経営にとりかかったとき、和泉の堺から商人らを集めてこの町をつくらせたといわれている。
「箱本十三町」の1つで、天正19年8月には地子が免除され、秀長の跡を継いだ秀保も、この保護政策を継いでいる。

松平信之の延宝8年(1680)12月15日に、新町から出た火が、かってない大火となり、町屋670軒余を焼失しているので、貞享2年(1685)9月宇都宮から入部した本多忠平は、この大火を教訓として防火を厳重にするため、翌3年秋に堺町に火見櫓を新設した。

元禄の大火のとき、この町では居宅128軒が類焼している。このとき藩からは復興用に材木が支給され、合力米1軒役(問口4間を以て1軒役とする)に5斗俵1俵と、人1人につき、扶持方3升3合の割で救済をうけている。

天明6年(1786)に大雨洪水の災害があり、同7年には4月中の雨続き、大風雨、雹さえ降るという悪天侯続きで世情は不安に包まれた。5月になって各所で一揆が続発し、5月13日には堺町で米騒動が起き、米屋が打ち壊しにあっている。
この年の調査によれば、町の長さ159間、道幅2間、本家73軒、借屋52軒となっている。

嘉永7年(1854)6月13日の昼から15日の朝にかけての地震で、この町では居宅2軒が倒れたのみで、被害が少なかった。

この町は「柳町大門付町割」によって、柳1丁目から5丁目までと車町・豆腐町の住民と交代で柳町大門の勤番を義務づけられていた。

明治維新後、町は北堺町・東堺町に分かれ、行政所属は、明治9年12月25目から「大和国第2大区2小区」に属していた。明治15年の初め、北堺町・南堺町が合併して、もとの堺町に復している。

同17年7月1日からは「添下郡第23戸長役場」に属していた。
明治21年4月の「町村制」に基づいて、45カ町村が合併して新しく郡山町と.なるのに参加して、明治22年4月1日から郡山町に属し、堺町は大字となった。そのときの戸数は72戸、人口358人であった。

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