| 奈良町(ならまち) |
| 奈良から移住した人たちが住んでいた町。春岳院文書の天正16年(1588)の『郡山惣町分日記』にかかれた「内町十三町」の1つで、同19年8月には地子が免除され、秀長の跡を継いだ秀保も、この保護政策を継いでいる。 町名の由来については、明治21年8月に新しい郡山町を成立させるため知事宛への合併願のなかに、「文亀年中(1501-04)奈良ノ地ヨリ移住セルモノアルヲ以テ之ヲ奈良町ト呼ブ」とある。豊臣秀長郡山入部の天正13年より80年前のことになるので、「文亀年中」は「元亀年中(1570-73)」の誤記であろう。 元禄の大火のとき、この町では居宅20軒が類焼している。 天明6年(1786)の調べによると、町の長さ90間3尺5寸、道幅1間5尺5寸、持家34軒、借家19軒となっている。 この町は「鍛冶町大門付町割」によって、本町・藺町・茶町・塩町・魚町・雑穀町・西奈良口町・鍛冶町の住民と交代で、鍛冶町大門の勤番を義務づけられていた。 明治緯新後の行政所属は、明治9年12月25日からは「大和国第2大区2小区」に属し、明治17年7月1日からは「添下郡第23戸長役場」に属していた。 明治21年4月の「町村制」によって、45カ町村が合併して、新しく郡山町となるのに加わって、明治22年4月1日から郡山町となり、奈良町は大字となった。そのときの戸数は28戸、人口は125人であった。 (ふるさと大和郡山歴史事典より) |