紺屋町(こんやまち)
「箱本十三町」のうちにはいり、天正19年(1591)8月には地子免除となっている。豊臣秀長が城下町繁栄のため同業者による町を形成し、商工業保護に力を入れたが、この町に住む紺屋にのみ営業権を認め、他所では一切禁止するという秀長の特許状が紺屋町に残っている。

この特許状は、綿町・塩町など「内町十三町」にも与えられたと思われるが、現存するのは紺屋町のみである。秀長の跡を継いだ秀保も、この保護政策を継いでいる。

町の中央を流れる小川は、左京堀から南へ流れる水路から分かれているもので、享保19年(1734)3月の「こうや町仲間記録」によると、柳1丁目と2丁目の間から下された堀の水は、昔から紺屋町の持ち分であることを主張している。
天明6年(1786)の調べによると、町の長さ116間、道幅2間、持家63軒、借家88軒となっている。

嘉永の地震によって、この町の住居5軒が倒壊し、4人が死亡している。

この町は「高田町大門付町割」によって、材木町など5カ町の住民と交代で、高田町大門の勤番を義務づげられていた。

明治維新後の行政所属は、明治9年12月25日から「大和国第2大区2小区」に属し、明治17年7月1日からは「添下郡第22戸長役場」に属していた。

明治21年4月の「町村制」に基づいて、郡山45カ町村が合併して新しく郡山町となるのに加わって、、明治22年4月1日から郡山町となり、紺屋町は大字となった。そのときの戸数は53戸で、人口は240人であった。

戻る