| 今井町(いまいまち) |
| 明治21年8月に新しい郡山町を成立させるために出された知事宛の合併願のなかに「永禄年中高市郡今井町ヨリ移住セルモノアルヲ以テ其所ヲ今井町ト呼」とあり、町名の由来を知ることができる。 文中の永禄は文禄q誤りと思われる。 「箱本十三町」の1つで、天正19年(1591)8月には地子免除となり、I秀長の跡を継いだ秀保も、この保護政策を継いでいる。 貞享2年(1685)9月15日、宇都宮から郡山に入部した本多忠平は、延宝の大火を教訓とし、瓦葺、塗り込め土蔵造を奨励するとともに、防火を厳重にするため翌3年の秋に、この町に火見櫓を新設している。) 元禄の大火では、この町の居宅33軒が類焼している。宝永4年(1707)、この町の火見櫓は廃止された。 天明6年(1786)の調査によると、この町は長さ128間4尺5寸、居宅73軒であった。 嘉永の地震(1854)で、光慶寺の門と今井町いまごうの住宅5軒が倒壊し、4人が死亡している。) この町は「高田町大門付町割」によって材木町・紺屋町・綿町・矢田町の町民と交替で高田町大門の勤番を義務づげられていた。 明治維新後の行政所属は、明治9年12月25日から「大和国第2大区2小区」に属し、明治17年7月1日からは「添下郡第23戸長役場」に属していた。 明治21年4月の「町村制」によって、45カ町村が合併して新しく郡山町となるのに加わって、明治22年4月1日から郡山町となり、今井町は大字となった。そのときの戸数は54戸、人口は707人であった。 |