本町(ほんまち)
筒井順慶が天正8年(1580)11月12日に、筒井から郡山城に移り、筒井城下の商家を郡山に移しているので、本町筋はこのときにできた町並みであろう。「箱本十三町」にはいり、天正19年8月には豊臣秀長によって地子免除となり、秀長の跡を継いだ秀保も、この保護政策を受け継いでいる。

延宝8年(1680)12月15日に新町から出た火が、大火となり、町屋670軒余を焼失した。貞享2年(1685)9月に郡山城に入部した本多忠平は、この大火を教訓として、防火のため翌3年の秋に火見櫓をこの町に新設した。これは21年後の宝暦4年(1707)に廃止されている。

元禄の大火のとき、この町では居宅117軒が類焼している。この町では持家64軒・借家53軒が類焼し、藩からは復興用の材木が支給され、合力米1軒役(問口4間をもって1軒役とする)に5斗俵1俵、人1人に扶持米3升3合の割で救済があった。
享保8年(1723)11月、本多家が断絶したので、城受取りの幕府役人目付松平一学・浅井源左衛門が、この町の八尾村屋権三郎・永原屋八右衡門方を宿としていた。

天明6年(1786)の調べによると、町は長さ167間4尺7寸、道幅3間3尺、持家66軒、借屋46軒とたっている。
嘉永7年(1854)6月13日の昼から15日の朝にかげての地震で、この町の宗延寺の本堂、町の会所、住宅11軒が倒壌し、1人が死亡している。

この町は「鍛冶町大門付町割」によって、茶町・藺町・塩町・魚町・鍛冶町・奈良町・雑穀町・西奈良口町の住民と交代で、鍛冶町大門の勤番を義務づげられていた。

明治緯新後の行政所属は、明治9年12月25日から「大和国第二大区二小区」に属し、同17年7月1目からは「添下郡第二十三戸長役場」に所属していた。

明治21年4月の「町村制」に基づいて、郡山45カ町村が合併して新しく郡山町となるのに参加して、明治22年4月1日から郡山町となり、本町は大字となった。そのときの本町の戸数は65戸で、人口は233人であった。

合併に先だって、県知事宛に提出された合併願に「郡山市街ハ元ト平城ノ都、南内裏ヨリ南方二通ジタル鎌倉街道ト称スル要賂二当リ、郡山城ヲ置タル以後、鎌倉街道二当リタル所ヲ本町ト名ケ」とあり、本町の町筋を鎌倉街道といっていたようである。  (ふるさと大和郡山歴史事典より)

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