大和郡山市で著名な人物を紹介するコーナーです。太字の名前は詳細を別ページへリンクしています。あいうえお順に紹介しています。 故郷大和郡山歴史事典(大和郡山市発行)と郡山百話(大和郡山ライオンズクラブ発行大鎌淳正氏著1500円)から引用させて戴きました。
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名   前 読み方 生  涯 概  略   の   履   歴
八尾村屋
権三郎
やおむらや
ごんざぶろう
生没年不詳 本町で酒造業を営み、江戸中期には造石高180石の記録がある。藩の掛屋となり苗字帯刀、「鑓之間詰」を許されていた。元禄10年(1697)から幕府は財政上の理由から酒運上を課したが、権三郎は八尾村屋平七とともに酒造米改役に選ばれ、さらに運上取立まで引き受けている。享保9年(1724)柳澤氏の入部に先だち、城請け取りに来た藩家老が八尾村屋を宿舎としていた。
安井嘉七 やすい
かひち
1852-1910 郡山紡績株式会杜創立委員。明治45年6月高田口に安井織布工場を開設、大正4年当時の工員数男女34人、メリヤス生地のほか綿蚊帳地などを生産していた。明治43年3月没。
安元杜預蔵 やすもと
どよぞう
1828-1854 幕末の柳澤藩士、森田節斉の門人。槍術にすぐれ、性格豪放、憂国の志が強かった。嘉永6年(1853)5月、吉田松陰が郡山に立ち寄った時、1夜時局を論じ意気投合したことを、松陰は兄への手紙で書き残しており、久坂玄瑞はその遺稿集で「天下三奇士」の1人と讃えている。同年6月アメリカの軍鑑が浦賀に来航した時、沿海防備の幕府の命を受けた藩は杜預蔵を隊長として出動させようとしたが、たまたま瘍(よう)を患っていたので、医師は化膿するのを待って、手術をすると言ったが、杜預蔵は「我国の大事、目前に迫る。徒らに日を過ごせない」と、自ら刀をとって患部を切り開いた。その性格の一端を知ることができよう。安政元年(1854)7月病いのためわずか27歳で亡くなったが、節斉からその死を聞いた松陰は「惜しい有為の人を」と嘆き悲しんだと言われている。永慶寺に葬られる。杜預蔵の名はその祖先がかつて、藩主に「春秋」を講じた時、藩主が感嘆して「晋の杜預(どよ)に比すべし」としたことから杜預蔵の名を賜わり子孫も代々その名を継いだという。ちなみに杜預は中国晋の人、鎮南大将軍となって呉の国を征服し、戦って負けたことは無かった という勇将で、それにあやかったものである。
安元魯三郎 やすもと
ろさぶろう
?−1771 杜預蔵の弟、名は司直、潜安と号した。兄と共に森田節斉の門に入る。版籍奉還に当たり郡山県大参事に挙げられ、藩政改革に活躍した。明治4年8月五条県大参事を命じられたが、赴任に至らず同月23日東京で病死。永慶寺に葬る。同年9月軍事局より「よく勉励した」と160円を与えられている。
柳生勝興 やぎゅう
かつおき
1528- 柳生新陰流の流祖。柳澤家に仕官。新陰流を柳生飛騨守宗久から伝授される。
柳澤明子 やたぎさわ
あきこ
1846-1902 旧郡山城主柳澤甲斐守保申夫人。左大臣一条忠香の三女。妹は明治天皇妃(昭憲皇大后)、明治35年没。東京品川東海寺に葬られる。
柳澤里恭 やなぎさわ
さととも
1703-1758 柳澤藩の重臣、一般に柳里恭(りゅうりきょう)の名で呼ぱれている。元禄16年(1703)江戸で生まれる。父は筆頭家老曽彌権太夫で5,000石の知行と柳澤姓を許されていた。宝永7年(1710)父の隠退により兄保誠(やすのぶ)は3,000石、7歳の里恭も馬廻役として2,000石を与えられている。里恭の名は主君吉里の一字を拝領して以後に用いるが、初めは貞貴(さだたか)、字は公美、通称は帯刀(たてわき)、図書(ずしょ)などと替わり、家代々の権太夫をも称した。号は玉桂よりも淇園の方がよく知られている。博学多芸、特に書画をよくしたが、人の師となることのできたのが16にも上ったと古書は伝えている。また20歳余りの若さで著わした随筆『ひとりね』は、早熟多才振りを十分にうかがわせている。交際した知已師友の数がひじょうに多く、特に画家池大雅との交遊は有名である。高僧慈雲の著述に序文、さし絵を書き、南都の寺僧から経巻の講義を乞われるほど仏教学の造詣も深く、逸話の多いことでも有名である。作家の司馬遼太郎は里恭を評して、その著の中で「日本史上の人間の傑作のひとりかもしれない」、また「東洋のレオナルドダヴィソチか」とも書いて いる。宝暦8年9月5日没。矢田発志院に葬られる。僧雷音の撰文のある墓碑は市指定文化財となっている。
柳澤里之 やなぎさわ
さとゆき
1757-1804 郡山城主柳澤信鴻の5男、兄の広警(ひろかず)が継いだ六角家の養子となる。天明4年(1784)に、父の著わした句集『蘇明山荘発句藻』を里之は一滴庵珠成の名で、刊行している。文化元年没。東京月桂寺に葬られる。
柳澤武彌 やたぎさわ
たけね
生没年不詳 父は内膳、柳澤藩の重臣、藩籍奉還時は1,550石、五軒屋敷に住む。今の長屋門のある家である。
柳澤信復 やたぎさわ
のぶあきら
1747-1822 延享4年(1747)郡山域主柳澤信鴻を父として生まれる。生母が側室であったため、家督は弟保光が継いだ。文芸に興味を持ち、ことに狂歌をよくした。中年から晩年にいたる30年余の間に見聞した和歌、俳諸、狂歌、詩文等を筆録した『集艸』、青年期から書き続けた23冊の『聞書』、また285人の俳人の号を集めた『俳名帖』等は貴重な文献資料である。文政5年11月没。九条町光伝寺に葬られる。
柳澤信鴻 やなぎさわ
のぶとき
1724-1792 郡山城主、美濃守。享保9年(1724)10月郡山城中で生まれる。初め義稠(よしあつ)、伊信(これのぶ)のち信鴻と改める。延享2年(1745)10月父吉里の遺領を継ぐ。28年に及ぶ治政は良く行われ、名君とたたえられた。博学多識で文学、芸術を愛し、中でも演劇、俳諧を好み、儒学、漢詩は谷口元淡、荻生金谷に学んだ。安永2年(1773)家督を保光に譲った後、駒込六義園に移り、月村・米翁などと号し、約20年近く風流三昧の生活を楽しんだ。死の直前まで書き続げた『宴遊日記』と『松鶴日記』は当時の俳諧史・演劇史・風俗史などの研究には必読の書といわれ、広い交遊範囲がうかがえ特に天侯については精細な記録を残している。寛政4年3月没。東京月桂寺に葬られる。
柳澤尚子 やなぎさわ
ひさこ
1895-1973 明治27年6月、元佐賀鍋島藩主鍋島直大の5女として生まれる、秩父宮妃節子の叔母。学習院卒、大正元年、柳澤保承と結婚。県教育委員、県婦人連合協議会長、日赤奉仕団副委員長等を歴任。昭和48年12月没。永慶寺に葬られる。名誉市民第2号。
柳澤光教 やなぎさわ
みつのり
1750-1817 昌鷹、里恭の子、2,000石、父祖以来の権太夫の名を許され、柳澤藩寄合衆筆頭、年寄と進み、安永8年(1779)城代家老。藩主保光の一字を賜わり、光教と改める。文化5年(1808)1,000石を加増されて3,000石となり、そのとき内2,000石は減知しない旨の約束を受ける。詩文をよくし『大和風雅』にも2編を残している。文化14年4月没。外川町発志院に葬られる。
柳澤保興 やなぎさわ
やすおき
1815-1848 郡山城主、甲斐守。文化12年(1815)郡山城中で生まれる。天保9年(1838)5月、父保泰の死により遺領を継ぐ。始め鍔之助のち保興と改める。天保11年(1840)12月光格天皇の葬儀に際し、京都泉湧寺に35目間宿街。嘉永元年(1848)8月没。東京月桂寺に葬る。
柳澤保格 やなぎさわ
やすただ
1648-1720 曽禰権太夫貞尅、柳澤藩筆頭家老、柳澤里恭の父。柳澤吉保の信頼が最も厚かった人といわれ、その子藩主吉里より「柳澤」の姓と「保」の一字を与えられている。享保5年没。宝永7年(1710)隠退に際し、長子保誠に3,000石。里恭に2,000石を分け与えた。
柳澤保恵 やなぎさわ
やすとし
柳澤文庫の創設者。幼名は黒川光敏。柳澤保申の養嗣子となり、娘秀子と結婚。辣腕を発揮する。
柳澤保承 やたぎさわ
やすつぐ
1889-1960 明治21年12月、郡山藩主柳澤保申の子として生まれる。父死亡当時は幼少であったので新潟県黒川の柳澤支藩の保恵が家を継ぎ、昭和11年保恵の死後、柳澤家の家督を継いでいる。伯爵、貴族院議員。昭和22年公選による初代郡山町長に就任、同24年退職。その間教育制度変更による新制中学校、新制高等学校の改編に努力した。昭和35年10月10日財団法人郡山城史跡・柳澤文庫保存会が設立され、初代理事長になる。昭和35年10月25日没。名誉市民第1号。
柳澤保申 やなぎさわ
やすのぶ
1846-1893 郡山城主、甲斐守。弘化3年(1846)郡山城中で生まれる。嘉永元年(1848)3歳で父保興の死により家督を継ぐ。始め時之助、保徳(やすのり)次いで保申と改める。安政5年(1858)皇陵修理のため、松材3,000本を朝廷に贈る。文久元年(1861)5月江戸高輸東禅寺での英国公使館暴徒襲撃に際しての功績のため、英国皇帝より金牌1個を贈られる。同3年8月天謙組事変により吉野へ出兵、慶応4年(1868)3月戊中戦争に従軍。明治2年6月藩籍を奉還して郡山藩知事となる。同18年3月静岡県久能山東照宮宮司を勤めた。金魚の研究に力を注ぎ、同20年柳澤養魚研究場を設立した。また教育振興のため小学校・中学校(現郡山高等学校)に多額の金品と土地を提供したり、旧藩士のためには授産の方途などを講じた。その他明治初年のいわゆる「浦上四番崩れ」のキリシタソ信徒に対する温情ある処置に見られるように保申は開明的な政治家であった。明治26年10月没。永慶寺に葬られる。
柳澤保泰 やなぎさわ
やすひろ
1782-1838 郡山城主、甲斐守。天明2年(1782)12月江戸幸橋の上屋敷で生まれる。始め信近、光雄のち保泰と改める。文化8年(1811)8月父保光隠退後、家督を継ぐ。保泰は文学武芸の振興に努め、天保6年(1835)五左衛門坂の藩校・総稽古所を大職冠に移転し、同時に規則を改め、就学課目を充実した。また家禄の低い家の子弟でも優秀な者は抜擢して教師の助手を努めさせた。天保9年没。東京月桂寺に葬られる。
柳澤保光 やなぎさわ
やすみつ
1753-1817 郡山城主、甲斐守。宝暦3年(1753)4月江戸幸橋の上屋敷で生まれる。安永2年(1773)父信鴻隠退後、家督を継ぐ。初め久菊、保明のち保光と改める。尭山(ぎようざん)の号は有名である。藩主としての治績も良く、名君の評判が高かった。また父祖に劣らず文学芸術を愛し、和歌、俳諧、茶、書などいずれも素人ぱなれをしていたといわれている。歌は京都の日野資枝に、茶は主として石州流片岡一法庵に就き、千家流の宗匠にも深く私淑(ししゅく)し教仰して師弟の礼を執っていた。文化8年(1811)隠退し自分の頭髪を慈雲の葬られた河内の高貴寺の墓所近くに埋めた。これは「奏山遺髪の碑」として今も残っている。同14年1月20日没。東京月桂寺に葬られる。
柳澤吉里 やなぎさわ
よしさと
1687-1745 郡山城主、甲斐守。貞享4年(1687)9月江戸上屋敷で生まれる。名は安貞。元禄14年(1701)父吉保と共に5代将軍徳川綱吉より松平姓と綱吉の「吉」の一字を許され、松平伊勢守吉里と称した。宝永6年(1709)父の隠退後家督を継ぎ甲府城主となる。享保9年(1724)3月郡山へ国替えの命を受け、大和、近江、河内、伊勢4ケ国で15万1,288石余を領した。藩校総稽古所を五左衛門坂に設け、子弟で10歳以上の者は、すべて入所させた。吉里は善政を敷き、「甲府の街区整然として町は賑わひ栄えた」と古書は伝えている。優れた文人で、画技は生前中に画人伝に名を列ねたほどであり、和歌は父吉保と共に北村季吟や霊元上皇の選を受けている。今日残っている連歌、俳諧は約2万首に上り『積玉和歌集』、『潤玉和歌集』(いずれも市指定文化財)などに収録されている。延享2年(1745)9月東京桜田幸橋の上屋敷で没。東京月桂寺に葬られる。
藪内紹智 やぶのうち
しようち
1774-1846 茶道藪内流7世。もと郡山藩士、名ば宗逸竹翁と号した。利休250回忌・織部200回忌をつとめ、絵画に長じ画賛を多く残している。弘化3年没。
藪田
忠左衛門
やぶた
ちゅうざえもん
?-1863 柳澤藩の家老、900石。五左衛門坂に住む。文久3年(1863)天誅組事変の際、会津藩士に自宅で暗殺される。
山口直友 やまぐち
なおとも
1546-1622 旗本、駿河守。知行3,000石。大久保長安の後をうけて慶長15年(1610)ごろ郡山在番となり、与力36人を従え、小川町三筋に屋敷を造り住んだ。「旧記』によると、伏見城の定番も交代で勤めていたようである。晩年剃髪して元和8年伏見で没。
山下金吾 やました
きんご
生没年不詳 柳澤藩士、楊門と号し、漢詩に長じた。初め森田節斉に、のち山村狼渓につき、儒学を学び、廃藩後私塾を開いていた。
山田瀬兵衛 やまだ
せべえ
剣士、松平忠明の忠臣。槍の名手、松平家を去った後は道場を開き槍術と茶道を教授する。下石平右衛門の旧名(下石平右衛門を参照)
山田正重 やまだ
まさしげ
生没年不詳 通俗和算書『改算記』の著者。郡山第一次本多家に仕えていた武士と思われる。
山村狼渓 やまむら
ろうけい
1814-1870 柳澤藩儒臣、本名を安宅、通称を平治、号を狼渓という。藤川冬斉について学び、のち藩校啓明館総督となった。明治3年1月没。大坂口妙善寺に葬られる。永慶寺に頼徳碑がある。
山本平左衛門 やまもと
へいざえもん
生没年不詳 元禄時代の藤堂藩無足人組頭、奈良市郊外に住んだ。名は政真、延宝4年(1676)1月1日から享保5年(1720)8月26日までの44年間に及ぶ膨大な日記を残している。36歳から80歳に至る間のもので、郡山に関係する貴重な記事も多く収めている。この日記は水木家に所蔵。
与謝蕪村 よさの
ぶそん
1716-1783 摂津国毛馬村に生まれる。俳人、画家、天明3年没。「虫なくや河内通ひの小提灯」の句が新庄町鉾立に句碑として残されている。
吉田方正 よしだ
ほうせい
1856-1913 代官町に住む。旧郡山藩士。神戸湊川駅長を勤め、明治26年郡山紡績設立に際し、惣代創立委員12名中の1人となっている。天野善七社長退任の後を受けて3代目社長となる。在任中に第2、第3工場が建設拡張され錘数も2万錘に達した。大正2年没。
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