| 大和郡山市で著名な人物を紹介するコーナーです。太字の名前は詳細を別ページへリンクしています。あいうえお順に紹介しています。 故郷大和郡山歴史事典(大和郡山市発行)と郡山百話(大和郡山ライオンズクラブ発行大鎌淳正氏著1500円)から引用させて戴きました。 |
| Home あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 |
| 名 前 | 読み方 | 生 涯 | 履 歴 |
| 梶金平 | かじ きんぺい |
生没年不詳 | 本多政勝の郡山城主時代に仕えた、都筑惣左衛門に次ぐ家老の1人、五軒屋敷に住み3000石の知行を得ていた。生駒宝山寺の湛海との関係が深かったらしく、宝山寺建立当時は少なからぬ金品を寄付している。俳諧に優れ、「九六騒動」では都筑氏とともにひじょうな苦労をしている。延宝7年(1679)本多氏の福島転封に従って郡山を去った。 |
| 片桐且昭 | かたぎり かつてる |
?−1688 | 片桐為元の2男で為次の弟、兄が幼少で亡くなり、いったんは領地を没収されたが、名家の故を以て寛文2年(1662)幕府から特に3,000石の領地を与えられた。貞享5年5月没。 |
| 片桐貞章 | かたぎり さだあき |
1772−1822 | 小泉7代目藩主、主膳正、明和8年片桐貞芳を父として江戸で生まれる。天明7年(1787)11月家督を継ぐ。寛政元年(1789)5月駿府加番。享和元年(1801)4月江戸城の御竹蔵火之番となり翌年4月交代、文政5年1月没。 |
| 片桐貞篤 | かたぎり さだあつ |
生没年不詳 | 松平播磨守頼縄の弟、頼功の長男、小泉11代目藩主、主膳正。片桐家に迎えられて文久2年(1862)12月貞利の家督を継ぐ。その翌年に天誅組事変が起こり、小泉藩も吉野に出陣、六田の渡しを固めるなど各地に転戦した。明治2年6月小泉藩知事となる。明治16年貞篤の4男貞健が家督を継ぎ、貞篤は子爵となった。 |
| 片桐貞起 | かたぎり さだおき |
1772-1822 | 小泉4代目藩主、石見守、寛文9年松田権之丞貞尚の2男として生まれる。宝永6年6月片桐貞房の養嗣子となり、同7年11月家督を継ぐ。寛保元年4月小泉で没、埋葬地は京都大徳寺高林庵。 |
| 片桐貞隆 | かたぎり さだたか |
1650-1627 | 主膳正、片桐且元の弟、永禄3年近江で生まれる。21歳のとき、豊臣秀吉に仕え、初めて播磨国で150石を与えられた。慶長6年(1601)42歳で万石の列に加わり、兄且元と共に大坂城を去った後、本拠を茨木城に置き、同9年小泉の地に陣屋を構えた。家中は城忠兵衛を筆頭に28人であった。また貞隆は、元和4年(1618)から別に摂津国の天領地(幕府直轄地)の1万6,000石余を預かっていた。茨木もその1つであった。寛永4年10月没、和泉貝塚の青松寺に葬られる。 |
| 片桐貞照 | かたぎり さだてる |
?−1862 | 小泉10代目藩主、石見守、8代貞信の4男で9代貞中の弟。貞中に子無く、天保14年(1843)9月家督を継ぐ。安政6年(1859)江戸城、日比谷門の守衛の役などを務めている。文久2年5月没。 |
| 片桐貞利 | かたぎり さだとし |
生没年不詳 | 本庄宮内少輔の2男、10代藩主片桐貞照の子が若死し、嗣子がなかったので貞照は貞利を迎えたが、僅か数カ月にして死去した。その生存中に叙任のことがなかったので11代と数えることができない。 |
| 片桐貞中 | かたぎり さだなか |
?−1843 | 小泉9代目藩主、主膳正、貞信の長男。小泉で生まれる。天保12年(1841)父の隠退により家督を継ぐ、同13年掃藩の命を受け小泉に帰る。翌14年弟貞照を後嗣と定め同年8月没 |
| 片桐貞就 | かたぎり さだなり |
1672-1688 | 片桐貞昌の2男、竜田藩主片桐且昭の養嗣子となる。貞享5年(1688)7月且昭の家督を継ぎ、同7年2月没。後嗣なく片桐竜田藩は断絶した。 |
| 片桐貞音 | かたぎり さだなり |
1712-1750 | 小泉5代目藩主、主膳正、正徳2年貞起の2男として江戸で生まれる。寛保元年(1741)家督を継ぐ。寛延3年4月没、品川(東京)東海寺に葬られる |
| 片桐貞信 | かたぎり さだのぶ |
1802-1848 | 小泉8代目藩主、石見守、享和2年江戸で生まれる。文化12年(1815)片桐貞章が病いにより隠退し、その家督を継ぐ。貞信は遜斎と号L、茶道千家流を取り入れて新石州流を唱えた。これはそのころ大坂で本荘宗啓が古石州流を立てていたためといわれる。嘉永元年11月江戸で没。 |
| 片桐貞房 | かたぎり さだふさ |
1642-1710 | 小泉3代目藩主、主膳正、寛永19年江戸で生まれる。延宝2年(1674)父貞昌の後を継ぐ。千石を庶兄信隆に分かつ。この時期領内に洪水、早魃、地震等の災害がたびたび起こり、また家中に熱病が流行した。貞房もそのため男子2人を死亡させて、甥の松田権之丞を嗣子に定めた。翌宝永7年5月隠退し、同年9月没。貞房の治世は37年に及んだ。石州流家元としては藤林宗源がおり、小泉藩の基礎が安定したといわれている。 |
| 片桐貞昌 | かたぎり さだまさ |
1604-1673 | 茶人として有名な石州流の元祖で小泉藩2代目藩主、石見守。貞隆を父として摂津で生まれる。寛永元年(1624)20歳の時、石見の守。以後小泉藩主は主膳正・石見守と交互に任ぜられた。同4年父の死により23歳で家督を継ぎ、この年11月弟貞晴に3,000石を分知する。(貞晴の屋敷は豊浦村に造られ、分家として永く続いた。)貞昌は知恩院再建の普請奉行、関東の郡奉行など幕府の重要な役職につき、また水害地の視察にしぱしば出張するなど土木建築に功績が多く、そのため東奔西走の歳月を送っている。茶人としての石州は、最初利休の長男道安の流れを汲む桑山宗仙に学んだといわれている。30歳のころからは郡山城主松平忠明や小堀遠州らともよく茶席を共にしている他、奈良の茶人とも交遊を深め、茶の宗匠としてしだいにその名を知られていった。特に4代将軍家綱のために『茶道軌範』を作り、石州流を不動のものとした。宗関の号は有名である。寛文3年(1663)父の菩提のために慈光院を創立、延宝元年11月没、京都大徳寺高林庵に葬られる。 |
| 片桐貞芳 | かたぎり さだよし |
1740-1805 | 小泉6代目藩主、石見守、元文5年江戸で生まれる。寛延3年(1750)父貞音片桐氏系譜の家督を継ぐ。明和6年(1769)2月、領地の一部に移動があり、摂津などから和泉に移されている。天明7年(1787)12月隠退、文化2年没。 |
| 片桐為次 | かたぎり ためつぐ |
1641-1655 | 為元の長男、寛永18年に生まれる。父の遺領を継ぎ翌明暦元年11月没。 |
| 片桐為元 | かたぎり ためもと |
1611-1654 | 片桐且元の4男で竜田藩の祖となった人。慶長16年山城で生まれる。寛永15年(1638)且元の後を継いでいた兄孝利が死去して嗣子が無く、同年11月遺領の内1万石を賜り、竜田に住んだ。承応3年没。 |
| 河本四郎左衛門 | かわもと しろうざえもん |
生没年不詳 | 土豪小泉氏の重臣であったが、小泉氏の没落後、小泉市場に定住し、片桐氏が小泉藩主となってからは大庄屋、庄屋として民政の一翼をになった。元和9年(1623)片桐貞隆が小泉藩主となった時には河本家に水利支配を託している。小泉神杜には河本家の名のある数々の石灯籠がある。 |
| 川本増蔵 | かわもと ますぞう |
1846-1907 | 華道衡山流初代家元。法隆寺の佐伯再休より衡山流を伝授され、在俗の第一世となった。明治40年12月1日没。 |
| 城戸駒嶽 | きど くがく |
1778-1827 | もとの名は荒木富一、城戸月庵の養子となり名を改めた。若くして柳澤藩の儒臣となる。詩文をよくした。文政10年没。外川町発志院に葬られる。墓誌銘は讃岐高松侯の儒臣藤沢東咳の撰文。 |
| 木戸月庵 | きど げつあん |
1743-1799 | 柳澤藩士、伊勢四日市で生まれる。名を公賢、号を芙蓉といった。別号の敬業館主人は藩主信鴻より、同じく月庵老人は藩主保光より賜ったものである。父は当時藩領であった四日市の武士であり、父の死後数年は四日市で父の後を継いでいたが、安永9年(1780)郡山に移り、翌年京都に出張し、この間勉学に励んで学者としての名声を上げた。寛政5年(1793)抜擢されて儒官となり、10階級越えて書院詰になった時、藩士たちはその身分の上下を問わず、月庵を「先生」と呼んで名を呼ぶ者が無かったという。同年江戸詰となり、藩主及び夫人、世子の侍講となっている。著書数冊を残して寛政11年11月没。外川町発志院に葬られる。墓誌は尾張の儒者恩田仲仕の撰文。 |
| 行海満空 | ぎょうかい まんくう |
-1715 | 金剛山寺(矢田寺)の本堂を現在の姿に復興し、寺蔵の大般若経600巻の勧進や、矢田寺縁起絵巻(3巻)の作製などを行い寺の興隆に尽くした僧。正徳年間(1711-15)に没した。廟所は寺内大門坊にある |
| 尭山 | ぎょうざん | 1753- | 郡山柳澤藩主三代目柳澤保光の号。 |
| 熊沢善庵 | くまざわ ぜんあん |
1846-1906 | 弘化3年柳澤藩医・了袋(りょうたい)の長男として生まれる。江戸詰65石。明治3年ドイツに留学、同6年には文部省出仕の役人となり、同7年1月14日付で同僚1名と共に開成学校(現東京大学)の「製作学教場」(当時の開成学校は外人の教師がほとんどで、外国語の素養のない生徒は入学できず、日本語による授業を建前とする学部を必要として開いたもの)の「教則編定」を担当した。開成学校長心得の浜尾新と同格で、物理及び化学を担当した。茂木兄弟を化学の道へ導き、また茂木春太の追悼顕彰碑を提案した。明治39年8月没。東京墨田区法恩寺に葬られる。 |
| 熊沢蕃山 | くまざわ ばんざん |
1619-1691 | 徳川時代初期の有名な学者。延宝7年(1679)松平信之の儒臣として明石から郡山に移り、隠棲のため矢田山麓に住む。信之の信頼厚く、自身は隠棲のつもりであったが、教えを求める者が後を絶たなかったといわれている。貞享2年(1685)信之は幕閣に入るため下総古河に移ったが、蕃山は信之のあと城主となった本多忠平とも旧縁があったため、しばらく郡山に滞在し、忠平からも好遇されていた。同4年幕府の内命により古河に移った。元禄4年8月没。 |
| 鞍岡元昌 | くらおか もとまさ |
1678-1750 | 蘇山と号す。細井広沢門といわれた江戸時代の儒者。祖は中国人、長崎で通弁(通訳)に従事。柳澤里恭の推薦により柳澤吉保に召し抱えられ、書院詰、120石を給せられ、中国語の指導に当たる。寛延3年没。 |
| 訓祥 | くんしょう | 生没年不詳 | 春岳院の僧。豊臣秀長の墓所大納言塚再建を計画して果たせなかった栄隆の後を継いで、ほぼ今日の姿に復興した。土塀は明和5年(1768)、五輪塔は安永6年(1777)にでき、同年4月22日には開眼の法要が執行された。秀長死後187年目であった。五輸塔には銀550匁の他諸経費の明細も残されている。以後50年ごとに大法事が行われ、明治21年の300年忌には表門の大修理のほか春岳院から塚までの練供養も行われた。 |
| 小泉四郎左衛門 | こいずみ しろうさえもん |
1543-1561 | 小泉城主。松永久秀が1561年に攻めた時、3ヶ月の激戦で落城して切腹。 |
| 香山 | こうざん | - | 郡山柳澤藩主二代目柳澤信鴻の号。 |
| 古かん | こかん | 1652-1717 | 江戸時代の僧、画家、名は明(名)誉、号を虚舟という。初め江戸増上寺の学僧、のち郡山西岸寺に住んだ。宝永2年(1705)京都報恩寺に移り、晩年、洛外西岩倉に閑居した。画を狩野永納に学び、のち雪舟の画法を慕い、人物山水を画き、特に大黒の像をよくした。また大幅の画に妙技を振るい、豪快、目を驚かすものが多い。遺作と伝えられる有名なものに「薬師寺縁起」「植槻縁起」「法隆寺浬薬図」などがある。泉湧寺淫築像は縦50尺幅20尺に及ぶし、市内永慶寺にも同程度の浬禦図がある。また刊本の絵に『法然上人絵俵』48巻、著作には『当麻曼陀羅提要』2巻等がある。享保2年5月没。 |
| 古木虎三郎 | こき とらさぶろう |
生没年不詳 | 郡山柳澤藩士で最初のキリスト教信者。明治11年ごろ大阪英語学校で学んでいたころ、沢山保羅を知り、その人格に動かされて入信。同年3月同師より洗礼を受げた。たまたま沢山が成瀬仁蔵らと大阪土佐堀に梅花女学校(現・梅花学園)を設立した時、成瀬と共に同校に教師として入り、「本邦科」を担当した。同13年成瀬が学校を去った後、古木も伝道界に身を投ずる志を起こし、同志杜大学に入学、女学校を去っている。同14年大阪天満教会の牧師に招かれ、努力して1年間に20人余の信者を増加させた。これは当時としては驚異的な数字であったようで、信者を含め周囲の人たちの古木への信頼の厚かったことを物語っている。同16年から翌年5月までの約1年問は天満教会から伊勢方面に派遣されて伝導している。共著書に『沢山保羅伝』(明治43刊)がある。 |
| 小杉栄吉郎 | こすぎ えいきちろう |
生没年不詳 | 柳澤保興・保申に仕えた剣術の達人。50石を賜り、維新当時の藩校撃剣寮長。武衛流の砲術にも修練を積み、藩の師範餌取左六郎から安政2年(1855)に早打、同4年には百目玉の免許を貰っている。文久3年(1863)の天訣組追討出兵に参加している。 |
| 小堀遠州 | こぼり えんしゅう |
1579-1647 | 江戸時代の茶人、造園・建築家。天正7年小堀新介を父として近江小堀郷(現、長浜市)に生まれる。初め作介、また政一(正一とも)。同18年10月豊臣秀吉に従って郡山城を訪れた千利休の指導を受け、秀吉の茶の湯給仕に出る。古田織部にその才能を認められたこと、父新介が秀長の重臣という恵まれた環境も手伝って、少年時代から一流の茶会に出入りした。寛永18年(1641)1月には伏見屋敷の茶会に片桐石州らを招き、正保2年(1645)8月には本多政勝が遠州を郡山城に招いている。慶長9年(1604)父の遺領1万2,000石余を継ぎ、同11年後陽成院御所の作事奉行を務めている。また元和9年(1623)12月に伏見町奉行となっているが、その前後には本来の職務の他に将軍上洛の際の宿所の整備、また、御所御殿の新改築、造庭など京、大坂、江戸を東奔西走している。その作風は「遠州好み」という名を残すほど特異なものであった。正保4年2月伏見奉行屋敷で没。大徳寺孤蓬庵に葬られる。 |
| 小堀正次 | こぼり まさつぐ |
1539-1604 | 新介、小堀遠州の父。近江小堀郷(現、長浜市)の人。豊臣秀長の郡山城主時代には秀吉から付けられた8老中のひとりとして宇智郡等で3,000石を与えられていた。民政に手腕を振い、城内に屋敷を賜っている。関ケ原役後、備中松山城(高梁城)に1万石を与えられ、慶長9年江戸参府の途中、藤沢宿で病死。鎌倉光明寺に葬られる |
| 小松春鄰 | こまつ はるちか |
1838-1914 | 柳澤藩士の家に生まれる。本名直之進。若くして砲術を学び、天誅組事変にはオラソダ式大砲方組頭として従軍、後天保山砲台警備に派遣される。明治元年砲兵少尉。廃藩後は金魚、鯉の養殖、販売を専業とし、同31年東京から琉金を移入、35年郡山養魚組合を設立。翌年米国セソトルイス博覧会に郡山金魚の出品を計画し.た。また第5回勧業博覧会では審査員嘱託となるなど郡山金魚の功労者の1人である。大正3年3月没。矢田常称寺に葬られる |
| 米屋平右衛門 | こめや へいうえもん |
生没年不詳 | 本姓殿村、大坂平野町2丁目で両替商を営み、大坂では名の知れた金融業者であった。宝暦(1751-64)以来しぱしぱ幕府の御用金を命じられている。安永8年(1779)郡山藩は町内の豪商森村平助ら4人に銀札引請を命じた時、郡山の商人のみでの財力に不安があったので平右衛門に銀札請持を依頼、4人は銀札世話人ということで引き請けている。当時平右衛門は郡山藩に7,500両を貸し付げていたのでこうした米屋の財力を背景にして、藩札は安定して通用していたのである。 |
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