| 大和郡山市で著名な人物を紹介するコーナーです。太字の名前は詳細を別ページへリンクしています。あいうえお順に紹介しています。 故郷大和郡山歴史事典(大和郡山市発行)と郡山百話(大和郡山ライオンズクラブ発行大鎌淳正氏著1500円)から引用させて戴きました。 |
| Home あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 |
| 名 前 | 読み方 | 生 涯 | 概 略 の 履 歴 |
| 橋本雄平 | はしもと ゆうへい |
1801-1879 | 柳澤藩士、代官町に住んだ。名は真幸、梅谿と号した。文政元年(1818)家督を継ぎ、近江の柳澤藩領で代官や勘定奉行を勤めた。廃藩後、講武所に出仕、のち学頭に進む。藤川冬斉によって作られた『啓明館記』は、雄平の手で書かれている。明治12年10月没。 |
| 羽田長門守 | はだ ながとのかみ |
生没年不詳 | 豊臣秀長に仕えた3家老の1人。4万石(或いは4万8,000石とも)を与えられ、小泉館に住んだといわれる。今日残る薙刀(なぎなた)池を始め一連の外堀は長門守の造ったものといわれている。 |
| 花村花太夫 | はなむら はなだゆう |
− | 忍者。配下に20人の忍者がいたとされる。今の呉竹町あたりに忍者屋敷があった。 |
| 馬場命英 | ばば のぶひで |
1850-1917 | 陸軍少将正二位功三級。柳澤藩士宇野命詮の子として生まれ、のち馬場命宣の養子となった。日露戦争では、旅順攻撃に当り、決死の覚悟と戦没将士の霊を弔うため、常に袈裟(けさ)を身にまとっていたため、「袈裟将軍」の名でその勇名を知られた。文武の素養も深かったという。大正6年2月京都深草で没、永慶寺に葬られる。 |
| 林宗甫 | はやし そうほ |
1623-1695 | 延宝、元禄のころ郡山の植槻町あたりに住んでいた町人学者、蟻燭(ろうそく)屋甚兵衛ともいう。俳諸などもよくし、俳人としても有名であった。天和元年(1681)に『大和名所記』20巻を刊行した。内題を『和州旧蹟幽考』といい、大和国内の名所、古跡を郡別に記し、出典を示し、万葉集の歌などを採録して、大和で最初の詳細な地誌として画期的なものであった。山崎闇斎門下の逸材で、生まれは京都。 |
| 早野一学 | はやの いちがく |
生没年不詳 | 本多政勝の家臣、1,500石。西岡町の常光寺(日蓮宗)は、この一学夫妻が寛永年間(1624-44)に創基したと伝えられている。 |
| 原田宇古 | はらだ のきふる |
生没年不詳 | 始め松下氏、九郎左衛門綱中、養子となり原田氏を名のる。本多政勝に仕え俳諸に長じた。宇古は俳号、芭蕉門。「がんがう寺の塔もゆがみておぽろ月」の句を残している。また同時代郡山に住んだ含粘(がんてん)姓氏不明は『芭蕉七部集』の1つとして著名な阿羅野』他数種の撰集に作品を残している。 |
| 伴一安 | ばん いちあん |
?-1621 | 弓術日置流の道雪派の祖。元和の初め、松平忠明に仕えていたが、同7年病死した。九州豊後藩に仕えていた二男喜三郎を門人たちが迎えて郡山藩に仕えさせた。喜三郎は伴喜左衛門一安と名のり、道雪派を守った。この本系が郡山に残り、緯新当時は近藤高晴が伴流弓術師範として、柳澤藩士に伝えている。 |
| 稗田阿礼 | ひえだの あれ |
648−? | 天武天皇に仕えた舎人(とねり)で、猿女君(さるめのきみ)の一族。天鈿女命(あめのうずめのみこと)の子孫といわれ、大化4年(648)に生まれる。記憶力が特にすぐれ、天武天皇3年(675)に、『帝皇日継』や『先代旧辞』を暗誦させられた。元明天皇の和銅4年(711)に、朝廷は阿礼の記憶していることを太安万侶(おおのやすまろ)に書かせ後世に残した。これが『古事記』三巻である。稗田町売太神杜に祀られる。 |
| 平岡宇右衛門 | ひらおか ううえもん |
− | 平岡家は柳澤吉保以来の重臣の家。吉里当時の平岡宇右衛門将監は2,000石の添城代。以後代々ほとんど家老職などを勤め、柳澤姓を与えられている。平岡家では宇右衛門を襲名し、明治2年2月の藩制改革で政治局執政になった人もいる。 |
| 平島圭堂 | ひらしま けいどう |
生没年不詳 | 柳澤藩士。藤川冬斉の高弟、藩校敬明館、造士館で助教を勤めた。 |
| 平泉鬼貫 | ひらいずみ おにつら |
1661-1738 | 武士、鐵医でもある。鬼貫(おにつら)は俳号。松平忠平に仕え、藩財政の実務担当などをする。 |
| 福井謙一 | ふくい けんいち |
1918-1998 | 市内井戸野町で生まれたノーベル化学賞受賞者。 |
| 藤川冬斉 | ふじかわ とうさい |
1795-1869 | 柳澤保興、保申の二代藩主に仕えた学者。名を友作、号を冬斉、皐鶴(こうかく)、また百花堂とも称した。天保12年(1841)父の隠退により家督を継ぐ、120石。性格は豪放で、武芸特に槍術に長じた。学問は、初め荻生徂徠の系統の譲園(けんえん)派を主としたが後、頼山陽にも学ぶ。大塩平八郎と親交があったといわれているが、五条の森田節斉は「本州にこの人ありと言われ、また一目を置く人物なのに、その抱負識見を郡山藩政に生かすことができないのは残念」と冬斉をたたえている。晩年は藩校の総督になり、『論語通解』など著書多数を残し慶応4年(1868)隠退、明治2年2月没。西岡町の常光寺に葬られる。 |
| 藤田常栄 | ふじた じょうえい |
生没年不詳 | 宝暦のころ(1751-64)豆腐町に住んでいた表具師。狩野派の画をよくし。薬園八幡神杜及び光慶寺の襖(ふすま)に、極彩色の牡丹に唐獅子を描いている。 |
| 藤林宗源 | ふじぽやし そうげん |
1607-1695 | 茶人。片桐藩士、名は助之丞、宗源と号した。慶長12年(1607)和泉に生まれ、片桐貞隆のときに足軽格で仕え、2代貞昌に破格の抜擢を受け500石の家老となる。ほとんど江戸住まいで、水戸藩主を始め多くの大名たちと交遊が多く、家門は大いに栄えた。隠居後、宗源と称し、京都に住み、その後、和泉肥後村に移った。宗源は石州の片腕として活躍し、石州流発展の大きい力となったことは見逃せない。石州流の人たちが聖典視している『和泉草』は、この宗源の著であるといわれている。 |
| 藤本由已 | ふじもと ゆこ |
1645-1726 | 狂歌師。松庵、のち理庵と号した。京都出身。宝永4年(1707)ごろ柳澤吉里に医師として仕え、200石を与えられていた。狂歌の他詩文にもすぐれ『搭沢紀行』『春駒狂歌集』等の著書がある。後者には服都南郭の序があり、大田南畝はその作品に高い評価を与えている。享保9年(1724)藩の移封に際し郡山に移ったが、既に79歳の高齢で1年数カ月の後に没し、雲幻寺に葬られた。 |
| 細井知名 | ほそい ともな |
1655-1697 | 通称甚兵衛、号を芝山という。郡山城主松平信之の儒臣。知名は、大和に来てから皇陵の荒廃を見て歎いていた。貞享2年(1685)信之の古河移封に従って郡山を去ったが、その後弟知慎(広沢)が柳澤吉保に仕えたので皇陵修理のことを進言し、実現させた。これが世にいう元禄の皇陵修理である。知名自身はその成果を見ず、元禄10年没。 |
| 本多忠国 | ほんだ ただくに |
1665-1704 | 名は平八郎、中務大輔、徳川家康の孫松平頼元の次男。延宝元年(1673)8歳で本多政長の嗣子となり、その遺領の内12万石を賜わり、同7年3万石の加増を受け、15万石で奥州福島に転封。のち姫路に移され宝永元年没。 |
| 本多忠常 | ほんだ ただつね |
1660-1709 | 本多忠平の弟、能登守。元禄8年(1695)兄の遺領を継いで12万石の郡山城主となる。元禄12年の郡山大火、江戸屋敷の焼失、宝永5年(1708)京都御所災上の手伝いなどにより藩の財政は非常に苦しく、家臣の封禄を半減したければならないほどであった。宝永6年4月没。外川町発志院に葬られる。嗣子忠直の建立した墓「歌ケ崎御廟」は市指定文化財となっている。 |
| 本多忠烈 | ほんだ ただつら |
1710-1723 | 名は喜十郎、正徳7年(1716)郡山城中で生まれる。本多忠村の弟。忠村に後嗣が無く、享保7年(1722)9月郡山城主忠村が死んだので7歳の忠烈が兄の遺領の内5万石を賜わって郡山城主となった。この時領地変更が問題にされたが、8代将軍徳川吉宗の配慮でそのままとなった。翌8年11月没。江戸湯島の麟祥院に葬られる。第2次本多家は、ここで断絶する。 |
| 本多忠直 | ほんだ ただなお |
1669-1717 | 宝永6年(1709)6月、父本多忠常の遺領を継ぎ、11万石で郡山城主となる。在城8年で享保2年5月没、九条山にて火葬、甲斐国身延久遠寺に葬られる。 |
| 本多忠英 | ほんだ ただひで |
1647−? | 本多政勝の5男、正保4年郡山城中に生まれる。初め政貞、寛文2年(1662)政長の弟政信の養子となり、延宝7年(1679)6月領地を播磨宍栗郡山崎に移されて1万石を与えられた。明治緯新まで続いた山崎本多藩の祖となった。 |
| 本多忠平 | ほんだ ただひら |
1631-1695 | 名は唐之助、下野守、父は本多忠義。貞享2年(1685)9月松平信之の後をうけて宇都宮から入部、12万石をもって郡山城主となる。侍屋敷を広島町に建て増し、火見櫓を建て、町家の瓦葺きを奨励して防火に努めた。有名な俳人鬼貫は家臣の1人。夫人は池田光政の長女。元禄8年10月没。 |
| 本多忠村 | ほんだ ただむら |
1709-1722 | 名は唐之助、享保2年(1717)6月、父本多忠直の遺領11万石を継ぎ郡山城主となる。忠村が幼少のため、幕府は京都守護の要地である郡山から他国に移すことを議論したが、8代将軍徳川吉宗の特別の計らいでそのままになったといわれている。同7年9月没。江戸湯島の麟祥院に葬られる。 |
| 本多政勝 | ほんだ まさかつ |
1618-1671 | 徳川四天王の随一といわれた本多平八郎忠勝の孫で、本多忠朝の次男、徳川秀忠に仕えた。寛永16年(1639)姫路の城主から松平忠明と交替して郡山城主となる。禄高15万石に次男勝行の部屋住料4万石を加えて19万石。郡山では江戸時代を通じて最高の禄高であり、「和州郡山」の名が全国的に知られた時代であった。政勝自身は「鬼内記」とか「大内記」といわれたほどの豪勇の士で、藩政も活カに溢(あふ)れていたといわれている。当時は藩士池田正式をはじめ、俳諧をたしなむ者が多く、俳書のほか和算書等の刊行も行われている。正保2年(1645)政勝は小堀遠州を茶会に招いている。政勝入城の5月5日、「内町十三町」からそれぞれ5本の「のぽり」を出して祝っている。これが「郡山旛旗揃(のぽりぞろえ)」の始めと伝えられている。寛文11年10月江戸で亡くなるが、遺言により遺骸を郡山に送るため同月3日、江戸を出発、途中箱根の関で、手形のない遺骸は通さないと阻まれたが、小田原城主稲葉美濃守の計らいで通行を認められ、17日ようやく郡山に着き、良玄寺で火葬に付し、埋葬された。その跡目相続について、本多家は大名として複雑な相続関係にあっ たので、家中は二分して争った。世にいう「九六騒動」である。 |
| 本多政利 | ほんだ まさとし |
1640-1707 | 出雲守、政勝の子、寛文11年(1671)12月、父の遺領15万石のうち6万石を与えられ郡山城内に住む。延宝7年(1679)播磨に転じ明石城主となる。天和2年(1682)2月、明石から陸奥岩瀬郡で1万石を与えられたが、さらにその所領も没収され、元禄15年(1702)三河岡崎に幽閉された。宝永4年没。 |
| 本多政長 | ほんだ まさなが |
1632-1679 | 本多政朝の子、名は勘右衛門、中務大輔。寛永10年(1633)姫賂に生まれる。同16年政勝の嗣子となり、寛文11年(1671)その死により遺領のうち9万石と部屋住料3万石、あわせて12万石の郡山城主となる。延宝7年(1679)4月郡山で没。 |
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