大和郡山市で著名な人物を紹介するコーナーです。太字の名前は詳細を別ページへリンクしています。あいうえお順に紹介しています。 故郷大和郡山歴史事典(大和郡山市発行)と郡山百話(大和郡山ライオンズクラブ発行大鎌淳正氏著1500円)から引用させて戴きました。
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名   前 読み方 生  涯  履   歴
青木益義 あおき
ますよし
1835-1884 柳澤藩士、明治3年12月の藩職制では正権少参事5人の中の1人。緯新後、旧士族の間で問題となった「士族授産」に努力し、第六十八国立銀行(現南都銀行)の創立にも参画し、のち頭取となった。明治17年10月没。永慶寺境内の記念碑は同19年10月に建てられ、撰文は岡村鼎三による。
青木木兎 あおき
もくと
1778-1859 江戸時代の陶芸家。名を宗牛といい、代々柳澤藩の典医の家に生まれる。寛政12年(1800)のころ、自作の楽焼を藩主柳澤保光に献上したところ、「汝の作は轟(そ)にして昼間見る能わず、よって木兎焼と称すべし」との言葉を賜り、以後木兎と称したと伝えられている。安政6年没、西岡町常光寺に葬られる。
天野善七 あまの
ぜんしち
1849-1898 新紺屋町の呉服商「たび善」を経営。明治26年、郡山紡績株式会杜の創立委員になり、のち同杜の取締役となる。初代前川杜長の後を継いで2代目杜長となり、工場を拡張し、製造品目の多様化に成功した。明治31年没。
荒木又右衛門 あらき
またえもん
生没年不詳 伊賀の荒木村の生まれと言われている剣客。郡山城主松平忠明に250石で剣術指南役として仕えて、西矢田筋に住んでいた。寛永11年姉婿に当たる渡辺数馬に仇討ちの加勢を頼まれ、伊賀上野の鍵屋の辻で、河合又五郎を討ち果たして本懐を遂げさせた話は有名である。又右衛門は柳生新蔭流を倶馬守宗矩に学んだ。当時36歳であった。仇討ち成就の後は郡山に帰らず、鳥取藩の池田侯に仕えたが間もなく病気で死去したという。鳥取の玄忠寺に葬られる。
飯島三郎太夫 いいじま
   さぶろうだゆう
生没年不詳 柳澤吉里に仕えた目付。100石を賜り、小川北ノ町に住み、砲術荻野流遠町の指南番であった。大筒(おおづつ・大砲)で1町(109.09m)以上の射距離を打つのを「町打」(ちょううち)と呼び、距離によって「近町」(ちかまち)「遠町」(とおまち)と呼び、「遠町」を打つのには流派の許状を必要とした
生田傳八郎 いくた
でんぱちろう
生没年不詳 城主本田忠直に仕える。同僚藩士を些細なことから殺害し仇討ちを返り討ちにした話がある。
池田正式 いけだ
まさのり
生没年不詳 本多政勝に仕えた知行250石の武士で、著名な俳人。通称を十郎右衛門。初め松永貞徳門の安原貞室につき、のち貞徳の直弟子となった。俳藷と狂歌をよくした。政勝に仕えた時期はよく分かっていないが寛永7年(1630)ごうといわれている。
桑山法印良慶 いちあんほういん
    よしのぶ
生没年不詳 豊臣秀長が郡山城に入った時の3家老の筆頭である。5万石を与えられ、城内に屋敷を与えられている。その場所を今も一庵丸又は法印郭と呼んでいる(参照・一庵丸)秀吉の信頼が厚く、秀長の跡目を継いだ秀保は「万事は一曇法印次第」との布令を出し、郡山城のいっさいの支配を委ねている。郡山豊臣氏の断絶後も慶長3年の大名帳に「桑山法印1万6千石」の名が見える。なお、「横浜」の姓も用いた。
一柳六郎兵衛 いちやなぎ
ろくべえ
生没年不詳 柳澤藩士、江戸詰、寄合、450石。安政3年(1856)3月に徳川幕府が江戸築地鉄砲州に設けた武術稽古場「講武所」の槍術教授をしていた。『芸王姓氏録』(清水正熾著)には、当時の高名な槍術家や、各藩の槍術師範が列記されているが、そのなかに「大和郡山鏡智流一柳六郎兵衛150石が挙げられている。
伊藤猪太夫 いとう
いだゆう
1719-1804 柳澤保光に仕えた儒者。俳諮、和歌などをよくし、錦夫とも号した。家老森信門の墓誌銘はこの人の撰文。文化元年没
岩田杢之助 いわた
もくのすけ
生没年不詳 柳澤保申に仕えた無辺流槍術指南番。郷左衛を名乗り、120石を賜り松之間詰四番組となっていた。小川町に鎗術稽古場を開いて門弟に稽古をつけていた。嘉永7年6月の大地震に、この稽古場と座敷が潰れている。
岩田六左衛門 いわた
ろくざえもん
生没年不詳 無辺流直鎗(すぐやり)の達人で柳澤藩士。自ら鑓鬼入道と称した。元禄7年甲府にいた時は300石、享保9年郡山移封後は寄り合いとなり小川町に住む。享保19年『夢物語』を書き、槍術の真髄を書き残している。子孫も代々無辺流直槍の使い手として柳澤藩に仕えた。本町宗延寺に葬られる。
上田宜水 うえだ
ぎすい
1629-1703 本多忠平に仕えた侍医、250石。泰庵と号し、俳諧、狂歌をよくした。松江重頼門で「大和順礼』に作品を残している。元禄16年没
宇佐見九左衛門 うさみ
きゅうざえもん
生没年不詳 柳澤里恭(柳里恭)の別名・里恭が25、6歳の頃、不行が重なったとの理由で「里」の一字を取り上げられ柳澤保誠の家督相続権を停止された事があったその短い一時期に名のった姓名。
宇野源四郎 うの
げんしろう
1823-1885 材木町で酒造業を営む。和歌、俳諧、茶をたしなんだ風流人。茶室「蓬月庵」は現在三木邸(朝日町)に移されている。茶人として蓬月庵、瑞雪亭などと号し花嘯の俳号で梅花を詠んだものが特に多い。明治18年2月没、矢田町通り実相寺に葬られる。
宇野源蔵 うの
げんぞう
生没年不詳 旧藩時代の豪商、材木町で酒造業を営んでいた。安永8年(1779)4月、渋谷吉助、森村平助らとともに銀札世話人となり、藩札を発行した。
梅原霊厳 うめはら
れいがん
 ? -1919 矢田町通り円融寺の24世住職として融通念仏宗本山大阪平野の大念仏寺から32歳の時入山した。法隆寺等で経学を学んだが明治44年再び本山へ管長として赴任、大正9年没。
興正菩薩 叡尊 えいそん 1201-1290 思円、西大寺中興の祖で、西大寺大茶盛の創始者。建仁元年(1201)添上郡箕田(現白土町)に生まれる。11歳で家を離れて醍醐の叡賢に師事、17歳で剃髪して、のち東大寺に入る。また海竜王寺にも住み、西大寺に移ってから同寺を復興。文永4年(1267)般若寺を修復、飢老数万人を救ったという。弘安2年(1279)後深草、亀山両上皇に戒を授け、後宇多天皇もまた菩薩戒を受け、叡尊に師弟の礼を執ったという。正応3年(1290)西大寺で病没。正安2年(1300)後伏見天皇は叡尊の徳を讃えて興正菩薩の名を贈った。白土町にある「興正菩薩生誕地」の碑は昭和14年3月、薬師寺管長橋本凝胤の建立。
栄隆 えいりゅう 生没年不詳 春岳院の僧。宝暦8年(1758)荒れ果てていた豊臣秀長の墓所、大納言塚を当初の姿に復興する計画を立てて修理を始めたが、病気のため、完成を見ずに没した。
正親町公通 おうぎまち
きんみち
1643-1726 大納言正親町実豊の子で、後に従一位に至った京都の公家。歴史を山崎闇斉に、神道を吉川惟足に学んだ。後、自ら正親町神道を開き、その道の大家となった。公通は、その妹町子(柳澤吉保側室)を通じて和歌の叡覧添削を霊元上皇に取り次ぐ地位にあった関係から、柳澤吉保とは特に親しかった。狂歌、和歌、俳諧、絵画をよくし、風水軒白玉翁と号して、当時の上方(かみがた)狂歌師の中で、非凡の才能の持ち主として知られていた。別号請々翁、俳号は一止と称した。晩年の狂歌集に『雅筵酔狂集』がある。享保11年没。吉保、吉里宛の公通書簡は数多く柳澤文庫に保存されている。
正親町町子 おうぎまち
まちこ
 ? -1724 柳澤吉保の側室で、正親町実豊の子。吉保と京都朝廷との有力な媒介者となった正親町公通の妹。越後黒川・三日市の藩祖となった柳澤経隆、時睦兄弟の生母。才媛で著書に『松蔭日記』がある。享保9年没、江戸月桂寺に葬られる。
大久保石見守長安 おおくぼ
ながやす
?−1608 奈良代官、慶長5年(1600)から同12年ごろまで郡山城在番を務めた。長安は江戸初期の金山奉行として有名である。鉱山開発の才能を徳川家康に認められ3万石を賜わり、佐渡金山その他各地にその足跡を残している。郡山在番中に大和国中の寺杜領を務めた。霊山寺、長岳寺等にもこの時朱印状を与え、洞泉寺の地子3石も除地として免除している。慶長13年4月病没。
大沢清臣 おおさわ
きよおみ
1832-1892 郡山郷士大沢正護の4男、都跡(みやあと)村七条の出身、漢学を藩士橋本雄平に、歌学を伴林光平に学んだ。安政4年(1857)京都に出て壬生家.(みぶけ)の雑掌となり、国史を研究し、師の谷森善臣に従って勅命により文久元年(1861)山陵調査に従事した。明治初年、竜田および広瀬神杜の神官、同14年ごろ文部省属官、同19年諸陵属専務となって『皇朝紀事』などの考証著述を残した。明治25年没、東京青山墓地に葬られる。
太田又右衛門 おおた
またえもん
生没年不詳 江戸時代柳2丁目に住んだ富商。太田家は早くから郡山域下に住み、元和元年(1615)城主になった水野勝成以来苗字帯刀を許されていた。又右衛門は、郡山柳澤家より、年始には「鑓之間詰」を、また鉄門昼間の通行の自由を許されていた。享保15年(1730)郡山藩が銀札を発行した時、掛屋(かけや)の1人として参加している。
大村玄周 おおむら
げんしゅう
1818-1905 山口県出身。矢田思愍寺に住む。廃仏毀釈により還俗、矢田坐久志玉比古神杜の神官となる。華道に通じ、容真流の二世となり一水と号した。明治38年没、
大村長府 おおむら
ちょうふ
1869-1925 大村玄周の子、画家。幼名を徳松。九条で生まれ、矢田に移る。19歳の時、画家を志Lて上京、浅井忠の明治美術会に入る。直観画と呼ばれる画風を提唱、英仏の画展にも入選する。東京聖徳記念絵画館の製作メソバーに選ばれたが、完成を見ずに大正14年没した。
大山将監 おおやま
しょうげん
生没年不詳 柳澤藩士、年寄席で1,010石。文久3年(1863)の天誅組事変には総勢2,000人(一説には800人)を率いて総大将として出陣している。
岡村達 おかむら
とおる
1826-1919 藤川冬斉の次男で、柳生藩岡村氏の養子となる。通称を鼎三、名は達、森田節斉に学ぶ。晩年、閑翁と号し、生駒山滝寺の友月亭に隠棲(いんせい)し、後進の教育に当たる。大正8年12月没。
岡村正辰 おかむら
まさとき
生没年不詳 寛文年間(1661-77)郡山に住んでいた俳人。池田正式の門人といわれ『大和順礼集』の編著がある。上・中・下3冊3巻、中型の撰集で寛文10年の刊。また同12年には『続大和巡礼集」を刊行したが、収録した作者の中に郡山の人が多く、本著はなかなか好評だったようである。
岡本軍太 おかもと
ぐんた
生没年不詳 剣術当流の指南番。柳澤保申に仕え、55石を給されていた。養子久馬とともに大蔵流狂言を楽しみ、廃藩後は、春日若宮の祭礼の能に出演したり、地方神杜の祭礼で狂言を演じ、柳澤家中を中心に温存された最後の狂言師であった。
岡本幸雄 おかもと
ゆきお
1947- (^0^)市のホームページが出来る前から個人でホームページを開き大和郡山市を紹介しているお人好し。趣味が嵩じて今では意地になって借金してまで作っているらしい。(^^;変な親父である。
小川下野 おがわ
しもつけ
生没年不詳 豊臣秀長の郡山城主時代の3家老の1人。3万5000石。城北堀の側に屋敷があり、今でも小川町の名が残っている。
荻生金谷 おぎゅう
きんこく
1702-1776 荻生徂徠の兄の子で、徂徠の娘婿となった人。柳澤吉里の郡山移封に従い儒臣として郡山に住む。五左衛門坂に設けられた藩校総稽古所の督学となった。著書も多い。安永5年(1776)9月没。墓は九条光伝寺にあったが、近年荻生家の子孫により東京に移された。金谷の子鳳鳴(3代目)、維則(4代目、桜水)はともに儒臣として柳澤藩に仕えた。
荻生徂徠 おぎゅう
そらい
1666-1728 江戸時代中期の学者、名は茂卿、通称惣右衛門、徂徠と号した。父は五代将軍綱吉の侍医であったが、延宝7年(1679)罪を得て上総に移った。江戸に帰参を許されるまでの約12年間、徂徠はこの土地で貧窮の中で勉強し、後年大学者となる基礎をつくった。元禄9年(1696)柳澤吉保に仕え、初め15人扶持、綱吉にもしばしぱ講義をするようになり、ついに500石の家禄を得るまでになった。服都南郭、安藤東野ら高名の学者がその門人となり、塾の名「謙園」(けんえん)が徂徠及びその一派の通り名となった。『学則』、『弁名』、『弁道』などは代表的著書で、吉保の命令で同僚田中省吾とともに甲斐国を視察した時の紀行文も柳澤文庫に所蔵されている。徂徠の子孫は柳澤氏の郡山移封後も、代々明治維新に至るまで儒臣として仕えた。
奥田木白 おくだ
もくはく
1800-1871 陶工。法隆寺で生まれる。幼名は亀松。通称佐兵衛、のち武兵衛と改めた。堺町で荒物屋を営んだが家業を廃して陶工となった。以後「柏屋」の「柏」を二分してr木白」と称した。木々斉、五行庵などの別号がある。清水の陶器を模しているうち独得の味を出して評判となったといわれている。得意としたのは「仁清写し」「里恭写し」などで、また「奈良絵風」のものや、一刀彫の味を陶器に写すことに努めた。書き留めたものに『口伝控帳』『浮世の夢』などがある。天保11年の秋から、五条山中の窯(なかのかま)へ本焼を依頼している。それまでは楽焼のみを自宅で焼いていたようである。明治4年2月殺、円融寺に葬られる。
奥村邦基 おくむら
くにもと
生没年不詳 幕末時代の柳澤藩儒者、書をよくし鶴皐又は忍州と号した。文久3年(1863)8月の天誅組事変の際、郡山藩は邦基の筆による征旗を押し立てて出動したが、他藩の兵士たちもその見事な筆跡をほめたたえたと伝えられている。
小国切春次 おだぎり
はるつぐ
生没年不詳 宮内少輔。中世に郡山の城が砦(とりで)とか館(やかた)といわれていたころにこの人の名前が現れている。そのころは「只今ノ御本丸カキ上堀」とか「御居城ニノ丸御家中衆、百姓入リ交リ也」の状態であった。小田切氏を1万7,000石と伝え、また筒井配下の16人衆の1人とする地元の旧記がある。しかし当時の史書とレて最も有名な興福寺関係のものには現われていない。
鬼貫 おにつら 1661-1738 元禄時代の俳人、本名は上島与惣平、号は宗遜(むねちか)。摂津伊丹の人。晩年平泉姓に改める。元禄4年(1691)6月31歳で郡山城主本多忠平に仕える。藩での役目は長年不明であったが、近年『自伝』の発見により初め30人扶持「大坂役目」と判明。大坂留守居の支配下で資金の調達など藩財政の実務を担当した。鬼貫は医術にもすぐれ、九州三池藩にも勤めていたが個性が強く、郡山でも年長の同役の松波勘十郎と藩財政改革の方策、性格共に合わず、藩主の慰留にもかかわらず元禄8年2月退職。この時の退職の理由は母の病気であったが藩主は回復したら必ず戻れと、2ケ年に見合う給与200石を特別に支給している。こうしたことは本多藩はもとより他藩でも始めてのことであったといわれている。郡山の後、福井大野藩に京都留守居役として仕えた。元文3年没。
下石平右衛門 おろし
へいうえもん
生没年不詳 松平忠明に仕えた武術者。はじめ山田瀬兵衛といい、茶を嗜(たしな:)み、槍術に秀でていた。寛永15年(1638)、宝蔵院2代目禅栄房胤舜から鎌宝蔵院流の印可を受げたのを機に、名を下石平右衛門三正と改め、下万派の一派を立てた。忠明が翌16年姫路に移封されたとき、ともに移ったが、慶安元年(1648)隠居して、道水堂道場を開き、道二庵隠竜居土と称して槍術と茶道を教授した。
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