歴史事典から
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豊臣秀吉の弟。天文9年尾張で生まれた。始め小一郎長秀、後に秀長と名を改めた。兄に従って各地の合戦におもむきしぱしば戦功を立てた。 |
天正9年(1581)姫路城を守り、翌10年丹波を治め、やがて但馬出石に入った。同13年9月筒井定次の伊賀移封の後、郡山城に入り大和・和泉・紀伊3国の大守となった。その知行高は100万石(あるいは80万石)と伝えられ、9月3日に兄秀吉と共に5,O00人の将士を従え、南都両門跡を始め多くの出迎えを受け威風堂々と郡山城に入城している。以後郡山城は政治的、軍事的に大いに意義をもつようになる。
10月に参議、翌14年11月には中納言、15年8月には大納言辛に叙せられている。世に「大和大納言」と呼ぱれる所以である。 |
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郡山入城後の秀長は100万石にふさわしい規模の城郭と、城下町の建設に多忙をきわめる。まず、城郭のための石集めに当っては生駒、春日などの山石はもとより、奈良の古社寺からも多く集めた。 |
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奈良の町民達にも家並み五郎太郎石(大石と大石の間につめ込む小石)を20荷ずつ供出させているが、そのため方々で石の取り合いから騒ぎが起きてる。
城止の石垣に伽藍石の多いのも古社寺から持ってきたからで、奈良市破石(わりいし)の頭塔に残る13基の石仏(重要文化財)と全く同じ型の五尊石仏の1基(市指定文化財)が櫓の隅石に使われているのもこうした理由からであろう。また天守台の東北隅には平城京羅城門の礎石も運び込まれている。
筒井順慶の時代(1549-84)にある程度筒井の商家が郡山に移され、毎月六斎市も立って塩、木綿、魚など郡山で商われていた。秀長は強力な商業保護政策をとり、奈良におげる商売はすべて禁止し、商売希望の者はすべて郡山で行うよう厳しい命令を出している。今に残る奈良町・堺町・今井町は当時の先進商業都市から移住して来た人たちの町である。酒造権については郡山の他、奈良にのみ認めているが、こうした政策は郡山城下に限られたものではなく、豊臣政権が畿内直轄地域でとった根本的た政策でもあった。「箱本十三町」の始まりはこのころのことであった。
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秀長はその性格が温厚で秀吉の部下の多くの将士達の間に立って、よく兄を補佐したといわれている。晩年秀長は病気がちとなり、天正18年(1590)10月には秀吉も見舞に訪れ、奈良の社寺に病気平癒の祈願をしている。翌19年1月22日城中で死去。
秀長の葬儀は同月29日大徳寺古渓和尚の引導で行われ「野も山も崩れんぱかり」の人が集まったと古書は伝えている。墓地は上箕山大納言塚。法号は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」。毎年4月22日には「大納言講奉讃会」の主催で管理寺春岳院と墓前で法要が営まれている。(参照・大納言塚、春岳院)
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