京都在住で、俳諸の指導者だった松永貞徳の門下で七俳仙の一人に数えられたのが大和郡山在住の池田十郎右衛門正式(まさのり)でした。寛永16年(1639)4月に挿州姫路城主本多内記政勝が大和・河内19万石の領主として、郡山城に国替えのとき、正式も郡山に来住し、250石を賜っていました。主君政勝と主従の間柄に関わらず俳諧では交流があったそうです。政勝に俳諧のセンスがあったからでしょうね。

正式は、布留田造(ふるのたづくり)・平群実柿(へぐりのさねがき)の戯名を用いて、数多くの狂歌を詠んでいます。
いにしへの奈良の都はすいぴして匂ひを残す八重桜かな  はたごやに宿かりて寝し一夜妻したたか銭をおきぞ別るる
秘蔵して植えし庭木も公儀より御用(五葉)の松というてほめらる      正式が郡山在住の年月や、その残年、墓所など一切が不明です。

本多政勝に仕えた却行250石の武士で、著名な俳人。通称を十郎右衛門。初め松永貞徳門の安原貞室につき、のち貞徳の直弟子となった。俳藷と狂歌をよくした。政勝に仕えた時期はよく分かっていないが寛永7年(1630)ごうといわれている。郡山俳藷の起こりは本多政勝時代の武士たちによるといってもよいであろう。正保3年(1646)正式は句集r古保里山』を刊行したが、これは正式の句を巻頭に入集するという約束を破った撰者松江重頼に池田正式像対して批判するのが目的であつた。当時の貞門内部の対立が深刻に影響して、正式も立場上、苦慮したようである。編著には他にr狂歌百首歌合』がある。