| 建仁元年(1201年)に白土町に6人兄弟の次男として農家に生まれる。心優しき叡尊(えいそん)は兄弟の面倒見も良かったが、7歳の時、母と死別。翌年京都にもらわれるがここでも新しい母親と死別して、同じ京都の上醍醐寺に預けられ、14歳にて老僧 栄実の元に移り住み本格的に仏教の学問に励むが白土の親、兄弟が気にかかり17歳まで白土町に戻っている。 17歳で剃髪(出家)して23歳で兄を亡くし、高野山奥の院にこもり修業を続けるが父の要望で34歳まで東大寺で大仏や幾多の仏像を拝み修業に励む。 35歳に西大寺に住み、荒廃した西大寺の復興に取り組む。叡尊は慈悲の心を説く稀に見る高僧であった為、大衆の信望厚く寄付を申し出るもの多くて復興をなしとげられたのである。 弟子の忍性(にんしょう)とともに貧因に苦しむ民衆の為に施設などを設立し文殊菩薩を拝み、民衆に仏の心を伝えた。 叡尊の顕彰で語られるのが、二度にわたる「元寇」(元軍が日本に攻めいった戦い) 普段は仏に仕える叡尊に鎌倉幕府の執権北条時宗の依頼で神に元軍の日本襲撃を止めさせようと祈祷して、結果的に2度とも大風がおこって元は大打撃を受け、大衆は叡尊を誉めたたえたが、叡尊は自分の修業が足りず多くの兵士を死に至らしめた事を悲しみ懺悔の法会を行った。 この考えは「殺生禁断」からきていて尊い命を粗末にしない教えで、漁師に荒地を耕し、お茶を作らせたのが京都宇治の茶のはじまりと伝えられている。 |