2 おもしろさの秘密
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その2 能の演技と「模倣」
「狸の腹鼓」という狂言を見てたいへん感心したことがある。夫を猟師に殺された雌の狸が尼に化け、里におりてきて、同じ猟師に見破られ殺されそうになる。すると狸は「私は今腹に子をみごもっているので、子もいっしょに殺すのはふびんだから、何とか命だけは助けて下さい」とたのむ。猟師は「助けてやるが、そのかわりに腹鼓を打ってみせてくれ」という。そこでたぬきが腹鼓を打ちながら踊ってみせると、猟師は「おもしろや、おもしろや」「それよ、それよ」「おもしろや、おもしろや」と言って大喜びする。
私が感心したのはその演出である。縫いぐるみに狸の面をつけた役者が腹をうつまねをするのだが、音は出さない。私の予想では、狸の手の動きに合わせてバックで鼓をポン、ポンと打ちならすと思っていた。「腹鼓」というくらいだから、本物の鼓を使えば感じが出るだろうと思っていた。
だが、鼓は使わない。鼓は背景の歌い手の膝元におかれたまま、ひっそりと、冷たく静まりかえっているのが見えた。鼓以外の鳴物も「ポンポン」という音をだすのには一切使われない。鼓の音は完全に観客の想像力にゆだねられている。観客は頭の中で狸の腹を打つ音はこうであろうと想像することで十分その芝居を楽しむことができる。
あの狂言の作者はなぜ鼓を使わなかったのだろう。鼓を使えばもっとリアルになるのではないか、いわゆる真に迫った演技ができるのではないかと思う人がいるかもしれないが、私はあれはあれでいいのだと思った。
狸の腹鼓というのは全く人間の想像力の生み出したものであり、だれも聞いたことがない。人はそれぞれ、その音がどんな音か思い浮かべる。そして、それぞれ少しずつ違った音を思い浮かべるだろう。もし本当の鼓をたたいたら、リアルにはなるが、人がそれぞれ想像していた音と少しずつ、あるいは大幅に違った音を聞かせることになるだろう。本当の鼓を打ち鳴らすことが観客自身が想像する楽しみをうばうことになるかもしれない。
絵にたとえれば、すべてを描きつくしてしまわないで、描き残しの部分があるということである。
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能の母体になった猿楽はもともと歌と舞を主体にしたショウであって、演劇的要素は少なかった。歌や舞の合間にやった「物まね」が観客にうけたので、それを発展させていくうちに演劇になったものと思われる。
ヨーロッパの演劇の歴史も同じようなコースをたどった。ギリシャ劇はもともは「コーラス」だった。歌の合間に一人の役者を登場させ、歌の内容を説明する一人芝居をやらせ、それがうけたので、次には役者を二人にし、三人にした。その最初の一人芝居はほとんど「物まね」的なものであったにちがいない。ギリシャ悲劇では一人が複数の役をこなすことはあっても、役者の数は三人に限られていた。その点も能と似ている。
能や狂言の演技をよく見れば、それが物まねから発展したものだということが分かる。一つ一つの動作が物まね感覚でなされている。しかし、その場合、どこまでまねるかが問題になる。本物そっくりにまねをし、徹底してリアルな描写をしてしまうのか、ある程度以上は観客の想像力にまかせるのかである。演劇は、作者、役者、観客の三者の協力による創造である。能の作者はそれを実によく心得ていた。
まねとは人間が狸の振りをしたり、別の人間のように見せかけたりすることであって、そこにおかしみやおもしろみが生ずるのである。それは物や人のイメージを映すことであって、そのものに「なりきる」ことではない。そのものになりきってしまったら、もう芝居ではなくなる。「うつす」ことと「なりきる」こととは違うのである。
人類が生んだ彫刻の最大の傑作の一つと言われるミケランジェロのダビデの像には一つの秘密があるという。あの彫刻の頭のてっぺんにはわざと彫り残したところがあるというのである。その理由は、ミケランジェロはその石がもとあった岩山とのつながりのあかし、つまりへその緒のような部分を残しておきたかったのだという。
芝居の演技にもそういうことがある。芝居はどんなに本物のように見せかけても、どこかにそれが虚構の演技であるというあかしを残すのが本当の巧みなのである。その点舞台に文字どおり命をかけ、一座の生き残りをかけてきた能役者、狂言役者はさすがだと感心した。と同時に、「まね」「模倣」がいかに人間の文化の中で重要な働きをしているかを改めて考させられた。
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