『遊びと文化』山川学而(第二回)

おもしろさの秘密(2)

遊びと文化表紙へ


4 模倣は文化のはじまり
猿まねバンザイ


模倣とは、人がやったことを別の人が動作や表情などで写すこと、再現することであるが、それを学者的にいうと「模倣とは人から人への観念の転写である」となる。その「まね」「模倣」が人間や多くの動物にとっていかに大きな役割をはたしているかは、どんなに大げさに言ってもいいすぎることはない。
 前にものべたように、猿は子供の時母親の子育てを見て、自分が大人になった時それをまねることによって次の世代の子を育てることができる。まね、模倣が種の保存にとって欠くことのできないものになっている。
 人間の文化にも、模倣はいろいろの役割を演じている。人はしばしば発明や発見やその他の創造をほめたたえ、模倣を軽べつするが、実際には人間の文化も文明も大部分は先祖からうけついだ模倣のかたまりであり、人類の存在さえ模倣によって維持されていると言っても決して言い過ぎではない。
 ルネサンス時代の人々は、長い間眠っていたギリシャの文明を模倣して、新しい時代の夜明けをもたらしたことはよく知られている。ダビンチやミケランジェロやラファエロなど、新しい時代を切り開いた先駆者であるが、もともとは先輩の絵からヒントをえたり、ギリシャ美術を学んだりしながら自分たちの美の世界を築いていった。彼ら絵画や彫刻は独創的であると同時にギリシャのそれにいかによく似ているか、一目で分かる。
 科学や技術の世界でも、模倣が役割を演じている。だれかの発明や発見を商品化するのは一種の模倣である。新しい機械を作るにも、いろんな特許が絡んでくる。特許は発明だが、それをお金で買って新しい機械に組み込むのは模倣である。
 コンピューターのような機械はたくさんの発明や発見や工夫のかたまりであるが、そのすべてを一人の人がつくり出したなどと思っている人はいないだろう。たくさんの人の発明や発見を組み合わせて一つの商品にする。一人の人が考え出したものはその中のほんの小さな一部でしかない。大部分模倣のかたまりである。人間の文化はおたがいに模倣しあうことによって、沢山の人の創意工夫が協力しあうことによって成り立つものである。
topへ    ◇
 ところでこの「模倣する習性」というのはどこからきたかという議論がある。それが生まれつき人間や動物にそなわったものであるのか、それとも生まれたあとで学習したのかという疑問である。
 模倣すること自体、ほかの人からの模倣だという学者もいる。だが、そうだとすると、その模倣することを模倣された相手の人もまた、ほかのだれかから模倣することを模倣したことになるだろう。その相手の人もまただれかから模倣したことになり、そうやって辿っていったら最後の最後には、だれからも模倣しないで、自分自身で「模倣すること」をおぼえた天才がいることになるのではないだろうか。
 これはあまりにむずかしい問題なので、専門家にまかせるとして、私は、人間やある種の生き物には、生まれつき模倣する習性がそなわっているような気がしている。生まれつきあるというのは、生物学者の言葉をかりると「遺伝子による情報伝達」である。たいした証拠はないが、そんな気がする。

 遺伝であれ、後天的であれ、模倣する習性が人類や動物の生存や進歩に大きく貢献していることはまちがいない。だからこそ、遊びの中でも模倣は大きな要素になっているということができる。
 一般に、私は、何らかの機能とか、何らかの習性が遊びの本になっているという考え方をしている。機能や習性はあまり「遊ばせて」おくと退化する。それを遊びとして使うことによって退化を防止することができる。遊びには退化防止の機能があるから。
 topへ