おもしろさの秘密(2)
まねする動物 人間
「まなぶ」とは「まねる」こと
チンパンジーの母親が人間のように子供を胸に抱いたり、背中にのせたりして育てるのを見ると、子育ては「本能」であるようにみえる。だれにも教わらなくても、動物は生まれつきどうやって子供を育てるかを知っているかのようにみえる。
ところが、親がいなくて人間に育てられたチンパンジーは、大人になって子供を生んでも子育ての仕方を知らないという。赤ん坊を抱くことも、乳をやることも知らないという。抱いたり乳をやったりして育てるのは母親の見よう見まね、つまり「学習」されたものだったのである。
鳥が成鳥になり、巣から飛び立って自分で餌をとることをおぼえるのも生まれつきの本能ではなくて、親といっしょに飛び回りながら、親のやり方を見て「学習」するのだという。
かなりの数の動物が、親のやることを見て「学習」しなければ、生んだ子供を育てる方法も知らないし、自分で餌をとることもおぼえない。その「学習」がなかったら、その種の動物は絶滅してしまうにちがいない。これは大変なことだと思う。
その「学習」とはほとんど「まね」と同義語である。「学ぶ」とは「まねる」である。「まね」する習性が種の保存にとっていかに重要なものであるかが分かる。
子馬が生まれて間もなくひとりで立ち上がったり、海亀の子がかえると、海の方に向かってはって行くのは、これは先天的なもの、彼らの体の中に生まれつきある習性か本能であるにちがいない。
生き物の行動のどこからどこまでが生まれつきで、どこからが学んだものなのかは容易に分からないが、われわれ素人が思っているよりははるかに「学習」される部分が大きいことはまちがいないようだ。
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「まなぶ」ときいう語は「まねる」(まねぶ)からきている。中国語でも「学」という語はもともと「真似る」という意味で、現在でもその意味で使われることがある。たとえば「学鶏叫」というと「鶏の鳴き声を真似る」という意味である。つまり「学習」の基本は「まね」なのである。少なくとも古代の人はそう考えたのである。日本では江戸時代まで、学問というのはまず論語や孟子などの素読と丸暗記からはじめた。そのように先人の教えるところをまねすることが学問の基礎になっていた。
その学習法がかならずしもいいとは言えないが、学習の基礎の基礎には模倣が大きな役割を果たしている。その典型的なものは言語の習得であって、子供がその国の言葉をおぼえるにも、学校で外国語を覚えるにも、親や先生の口真似、物真似を軽視しては進歩はない。現代でも、過去の人類の蓄積した知識をそっくり受け継いだ上に新しい創造や発展が成り立つ。人類の文明全体を支える上で、模倣の要素がどんなに重要な役割を果たしているか、考えれば考えるほどその大きさにおどろかされる。
にもかかわらず、「まね」という言葉は多くの場合あまりよくないニュアンスを伴って使われる。たとえば「猿真似」というのは、自分自身の独自性がなく、創造性もなく、意味も分からずにただ人のまねばかりしている意味で用いられる。日本人は猿真似は上手だが、創造性がないとよく言われる。しかし、新しい文明をきづくには、まず先進国が成しとげたことをまねし、取り入れて、しかる後それを進歩発展させるのが順序である。明治以来約百年日本人は西洋の真似ばかりしていたと言われてもちっとも恥ずかしいことではない。
前に書いたように世阿弥の能の秘伝の中で「まね」が観客をよろこばせる芸のうちでもっとも重要な要素のひとつになっているが、世阿弥がこの「まね」に「学」という漢字をあてているのも、学ぶとはまねることであるからである。
アリストテレスは『詩学』の中でつぎのように言っている。
一般になぜ人は詩を作るようになったのかについて、二つの原因があるように思われ、そのどちらも自然の本能であると思われる。すなわち、その一つはまねすること、これは子供のときから人間にそなわる自然の傾向であって、人間がほかの動物よりすぐれている点でもある。つまり、人間はあらゆる動物の中で、まねする能力を最もよくもっていて、最初にものを学ぶのもこのまねによってである。もう一つは人はまねされた結果をよろこぶということであるが、これも人間にそなわる自然の本能である。
人間に模倣本能のようなものがあり、それが人の心をゆり動かす原因になっていることを世阿弥も見抜いていた。何百年前、動物物行動学も心理学も知らない一介の芸人が、経験と直観だけで、人間という動物の本性を見抜いていた。しかも、それが千何百年へだたり、距離的にも地球の反対側に近いところに住んでいた偉大な哲学者とほとんど同じ意見を持っていた。さすが人をおもしろがらせる天才と感服している。
あると思ったものがなかったり、ないと思ったものがあったりの遊びを解さない人はすぐれた文学者や芸術家は大作家にはなれない。
すべての物に姿形があり、姿形のない物はないが、姿形だけあって物がないということはある。それをギリシャのプラトンという人は「形相」と呼んだとか。
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