『遊びと文化』山川学而
第一回 おもしろさの秘密(その2)
2 かくれんぼと生成と流転の美学
見えていた顔が見えなくなったり現れたりすることは子供にとってはとてもふしぎな現象である。それをもう少し発展させると、存在するものの出現と消失という現象は人間の興味を引き起こすもっとも基本的な要素である。しかも、それはすべての人類に共通であり、動物にさえ同じことが言えると思う。
いろいろの遊びや文学や演劇などもよく観察すれば、この出現・消失現象に対する興味、すなわち「イナイイナイバア」遊びがいたるところに手を変え品を変えて使われていることが分かる。
たとえば「かくれんぼ」で、隠れている子供を鬼になった子がさがすというのは、潜在意識的に「出現・消失」遊びをやっていると考えることができる。鬼にはかくれたものを見つけだす、言い換えると、無かったものがこつ然と目の前に見えてくるという興味がある。隠れる方には、身を隠す、鬼の目から自分の存在を消すというおもしろさがある。
両手のにぎりこぶしをさしだして「どっち」と言って、コインのはいっている方をあてさせ、「こっち」と言うとそのこぶしをひらいて見せる遊びもある。
ある時五つくらいの子供が柿の種せんべいを私にくれた。私が受け取って口に入れてカリカリ食べるのを見てその子がニコッとわらって、またくれた。受け取って口に入れると、私の口元をじっと見つめ、食べ終わるとまたくれた。子供は柿の種がなくなるまで、何回でも同じことを繰り返した。柿の種が私の口に入って消えるのがおもしろくて仕方がなかったのだ。私はそういう経験を何度もしている。
ちょっと宗教的な言い方をすると、私の考えでは「存在」とは単に今われわれの前に出現したものにすぎず、いずれ消滅するものである。一度消失してもまた再現し、また消失してまた再現するということをくりかえしている間は、それはまだ「存在」していることになる。消失したまま、二度と再現しないものは「なくなったもの」である。出現したものでもなく消滅することもないものがあるとすれば、それは「神」だけである。神以外には「絶対的な存在」といえるものは何もない。人間自身も今この世に現れて、いつかまた無に帰する存在なのだ。
それが人間と人間を取り巻く世界のすべての現象の本質である。宗教的な言葉に言い換えると、諸行無常ということである。さらに言い方を変えれば、それが世界の現象のもっとも基本的な側面なのである。だからこそ、遊びでも文学でも、その他の芸術のジャンルでも、手を変え形を変えて、この「出現」と「消失」遊びの要素が入ってくるし、それがないものはおもしろくない。
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分かりやすい例をあげると、日本画で画面に雲形のような空白を残して、その間にさまざまの人間模様を描き出しているものがある。一つの画面の中に見えるところと見えないところを意識的に作っている。一種のかくれんぼである。
私はピカソの陶器が大変すきなのだが、ピカソの陶器の花びんや皿や水さしなどを見る時の自分の気持ちの中にいつも「オヤッ」というおどろきがまじっているように思う。それはただの陶器の道具でしかないはずのものの表面に人間の顔や女性の体などが不意に「現れる」という感じである。そこにあるはずのないものが出現することに対する「オヤッ」である。その「オヤッ」というおどろきがピカソの陶器をいきいきさせているように思う。そこで私は考えた。陶器に限らず、絵をかく人は、ただ物の形を画面に再現するだけでなく、そこに物が出現したかのように、あるいは出現しかかっているかのように描くのが本当の画家の心ではないかと。あまり、当てにならない考えだが、ふと、そんなことを思うことがあるのは確かである。
文学でいうと、人の世は現れては消える「うたかた(泡)」のようだという無常観をうたったもの。無常観とは存在するものがやがては消える運命にあるという点を強調する思想である。一見暗い、厭世的な思想のように見えるが、見方を変えれば、その中にも無意識のうちにイナイイナイバア遊びの要素が含まれている。この世は「うたかた(泡)のように、現れたり消えたりする」という方丈記の思想も同じように解釈できる。ギリシャ哲学などにもある、万物は生成流転するという思想も同様である。
私は運動や現象の変化なども、「出現」と「消失」という用語に還元して説明できると思っている。たとえば物の移動、位置の変化について考えると、移動とは、その物がもとあった場所になくなり、異なる場所に出現するという現象が持続的に行われることである。したがって、生成流転というのは、存在したものが消えたり、もとの場所になくなったりして、それが違った場所に現れたりする現象が持続的に起こることである。
わたしに言わせれば、人の世のことはすべてイナイイナイバア遊びなのである。なぜなら人間はすべて生まれて死ぬ存在だからである。「諸行無常」とうたう平家物語も、むずかしく考えれば深遠な仏教思想を説いているとも言えるが、遊びという観点から見ればイナイイナイバア遊びをやっている。だから人の心を引きつける力があり、また長く人々に愛読されつづけることができるのである。逆に言えば、イナイイナイバア遊び的な要素のない文学はおもしろくない。
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