『遊びと文化』山川学而

第一回 おもしろさの秘密(その1)

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1 イナイイナイバアの心理
「隠す」「隠れる」ということの意味


 今から三十年ほど前のことだった。いわゆるキューバ危機のあと、米ソのデタントがはじまり、日本でもソ連との経済交流を盛んにしようというので、経済界の代表がつぎつぎとモスクワを訪問した頃のこと、新聞を読んでいて「オヤッ」と思ったことがあった。
 河合良成という人が語ったことの中で、フルシチョフ首相の家を訪問した時フルシチョフが孫とイナイイナイバアをやっていた、というのである。良成氏はそれを見て、ふだんは気むずかしそうに見えるフルシチョフも、孫といっしょにいる時は人間味のある好々爺だということが分かったとあった。
 私がオヤッと思ったのは、それまでイナイイナイバアのような遊びは日本にしかないものと漠然と思っていたら、ソ連にもあるということが分かったからであった。私はすぐに辞書を開いて、英語にも同じようなのがあるかどうか調べてみた。
 英語にも「ピーカブー」(peekaboo)というのがあった。「ピーク」は「のぞく」の意で、「ブー」は日本語の「バア」にあたる。さらに調べてみると、イナイイナイバアという遊びは世界のほとんどすべての国、すべての民族にあるらしいことが分かった。
 これは当時の私にとっては一大発見だった。そして、私の遊び研究の原点はこのイナイイナイバアの発見だった。
 この遊びは子供が生まれて間もなく、ようやく母親の顔が見分けられるようになるとすぐの頃からはじまる。いわば人間が一番はじめに経験する遊びだということができるだろう。それがきわめて自然発生的に、人間のいるところならどこにでもあるらしい。だとすれば、それは人間の中にひそむ何か本質的なもの、人間すべてに共通する何かがあるにちがいない。そこに何か遊びの本質にかかわる秘密がかくされているにちがいないと思ったのである。
    
 「イナイイナイ」と言いながら、両手で顔をかくし、「バア」と言いながらさっと手をのけると、かくれていた顔が現れ、子供がきゃっきゃっきゃっと笑う。もう少し大きくなった子は自分がそれをやって大人を笑わせようとしたり、手を使うのでなく、何かのかげに隠れたり、突然顔を出したりして同じような効果をねらう、高級な(?)イナイイナイバア遊びをやることもある。(実際にはそれほどうまく成功することは少ないのだが)それだけのことにどうして子供は笑うのか。そんなことがどうしておもしろいのか。
 その問いに答えようとすれば、「存在」とか「無」とか「現象」などという、かなりむずかしい心理学や哲学の問題にまで深入りする可能性さえもっている。ここではそんな学問的なことは遠慮するとして、常識的に分かる程度にこの問題を考えてみよう。
 母親の顔が隠れて見えなくなっても、母親は依然しとてそこにいると大人は考えるが、生まれたばかりの赤ん坊にとっては、目に見えないものは存在しないのである。見えるものだけが「存在」するものであって、見えないものは単に「なくなった」「消失してしまった」のである。そして、一瞬の哀しみや失望や不安が赤ん坊の心に芽生えはじめる。そこにまた突然母親の顔が現れると、そのおどろきと喜びとで赤ん坊は笑う。
 見えなくなった顔がまた見えた時、赤ん坊の心に起きたことは何であったのかという問題もある。消えたものが再現したのをよろこぶということは、前に見た顔の記憶が残っていて、再現した時に「あの顔だ」ということが分かったということを意味する。つまり赤ん坊は心の中に残っている前に見た顔と、再現された顔との同一性を認めたことになる。見たものと心の中にあるものとが同一であることを認めること、すなわち「認知」ということをやっている。
 いなくなった母親がまた現れ、それが自分の求めている、そして心に残っているものだと認知するという経験の繰り返しているうちに、そのものは見えなくてもなくなってしまったのではなく、どこかに存在しているのだという「認識」が生じる。大人になるにしたがって、その認識が確固としたものになり、長い間母親の顔を見なくても母親の存在を疑うことなく、安心していられるようになる。
 赤ん坊は、物体の存在についての認知と認識の初歩的な経験をしているのである。それは人間が生きていく上でもっとも基本的な精神機能のひとつである。
 大人になると、目の前に見えていなくても存在していると思っているものが増えてくる。というより大人の世界観はほとんど目の前に見えていないものによって成り立っている。われわれは身の回りにあるものしか肉眼で直接見ることはできないが、隣の家があることも、地球の裏側にどんな国があるかということも知っている。新幹線に乗って行けば東京があることも、月の世界にある物質のことなどなどを知っている。そのような認識のはじまりは赤ん坊の時母親の顔が「見えたり見えなくなったり」という、イナイイナイバア体験にある。
  
 人間は目の前に見えていないものの存在を信じているが、その根拠は繰り返された経験である。母親の顔にたとえてみれば、一度消えてもまた現れるという現象を繰り返し経験したということにすぎない。つまり、消失したものが繰り返し「再現」するという経験が「存在」認識の根拠なのである。したがって、存在とは「再現性」の別名にすぎないということもできる。そして、その認識が人間の世界認識の基礎になっている。人間が生まれて最初の遊びがイナイイナイバアであるというのはそのようなことに根拠がある。
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