『遊びと文化』山川学而(第二回)

おもしろさの秘密(その2)

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5 虚と実のイメージ遊び


 猫に鏡を見せると、猫は鏡に映った自分の姿を自分以外の猫と思ってひっかいたり、牙をむいて「フーッ」とうなったり、鏡のうしろに手をまわしたりする。鏡のうしろをのぞきこんで、何もないので不思議そうな顔をする。鏡の中の像はイメージだけがあって実体がない。つまり「虚像」なのだが、猫にはそれが分からない。
 人間は自分の姿が鏡に映っていても、自分はその鏡の中にはいないことを知っている。像があっても、実体がないことは人間にとっては不思議でも何でもない。しかし、猫にはそんな理屈は分からないから、実体がそこにあると思ってチョッカイを出す。分かっている人間は猫のやることを見て笑い、「おもしろい」という。

 物まねのじょうずな人が小鳥の鳴き声や汽笛や飛行機の飛ぶ音などをまねてみせると、人は感心する。もしそれが「物まね」であることを知らなければ、本物だと思って聞くので特別感心もしない。
 人はそれが本物でないことを知っていて、心の中にある本物のイメージと比べてみて、似ていることを確認する。似てはいるが本物ではなく「物まね」であることを意識した時はじめて「うまい」「そっくりだ」と言う。 その時その声や音を聞いた人の心の中には実際の鳥や機関車などのイメージだけが浮かんでいるが、しかし、そこにはそういうものはない。言わば、そのイメージは鏡の中の猫と同じ「虚像」なのである。
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 物にはすべて姿形があり、姿形を持たない物はないが、もとの物からはなれて姿形だけあるということはあり、それを写真や絵や鏡の中に写し取ることができる。この事実からすべてがはじまる。そして、そのように実体からはなれて一人歩きする姿形をイメージという。
 アンデルセン童話の「裸の王様」は、見えない服が実際にあるものと思って着たつもりになる。家来たちも王様が立派な服を着ているものと思っているので、それが見えている振りをする。実際に見えているのは裸の王様なのだが、それが見えていない振りをする。自分が見ている裸の王様は幻で、本当は立派な服を着た王様がいるものと思い込もうとつめている。しかし、子供は単純だから、見えないものを見えると言ったり、見えているものを見えないと言ったりしないから「王様は裸だ」と言ってしまう。
 大人たちが王様が着ていると思っている服、さぞかしきれいだろうと想像していた服は実はイメージだけであって実体はなかった。目に見えている王様の裸は幻にすぎないと思い、目の錯覚と思っていたが、実はそれが実像だった。
 そこにあると思っていたものが実はなかった。幻と思っていたものは実は本物だった。そこでみんながどっと笑った。
 この話のおもしろさは、イメージの「虚」と「実」の遊びである。
    
 文学や絵画の「描写」も前にのべたミメーシス、「模倣」ということも、すべてこのように物から独立し、分離したイメージが存在しうるという事実、そして、イメージが時に実体を伴った実像であったり、時には実体のない虚像であったりするというところから生まれる遊びであるということができる。
 あると思ったものがなかったり、ないと思ったものがあったりの遊びを解さない人はすぐれた文学者や芸術家は大作家にはなれない。
 すべての物に姿形があり、姿形のない物はないが、姿形だけあって物がないということはある。それをギリシャのプラトンという人は「形相」と呼んだとか。
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 このように虚と実の遊びがなぜおもしろいか−この点を追及していくと、前に述べたイナイイナイバア遊びに通じるところがある。
 虚実の遊びでは、あると見えるものが実はなかったり、ないものが在るように見えたりする。イナイイナイバア遊びは、あったものが消え、消えたと思うとまた現れるということの繰り返しである。それがなぜ興味を引くかということは、前に述べたように、人間がこの世に生まれてきて外界と相対するときにまず出会う体験、言い換えると最初の外界認知体験通じているからである。
 サルやチンパンジーであっても、意識というものがある生物はすべて、生まれ落ちるとすぐからこの体験に出会う。なぜなら、昼間見えていた世界そのものが夜には闇の中に消えてしまい、朝になるとまた現れるということが繰り返される。それが生物にとって、また生まれたばかりの赤ん坊にとっての、ほとんど最初のと言っていい外界体験だからである。