遊びと文化・山川学而
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《論語》シリーズ
孔子は人生の楽しみ方の発見者
1
私は親からもらった「学而」という名前のゆえに『論語』と孔子の影に一生つきまとわれる運命になった。それは親の期待をこめた名前だったかもしれないが、私にとっては押しつけであり、重荷であり、苦痛の種でありつづけた。しかし、何十年も生きたあとで、ようやく私は孔子を誤解していたことに気がついた。
私だけでなく、日本中の人が孔子の思想を正しく理解していない。歴史上の多くの学者や思想家たちが、その時代時代の価値観や、政治的必要などから、自分たちに都合のいい解釈をしてきた結果、孔子のイメージは実像から遠くはなれたものになってしまったのだということに気がついた。
それに気がついたきっかけは、論語の中に「楽しむ」という言葉がしばしば使われていることに気がつき、その理由が分かってきたことである。
戦前と戦中に教育を受けた私は、論語は勤勉実直と忠君愛国の教えだと思っていた。私自身もその通り、死に物狂いで勉強したことがあるが、つらい割に効果はあがらなかった。また戦後は多くの人が、論語をビジネスマンのバイブルのような読み方をしているのを見て、やはりあれは重っ苦しい教えで、あまり「かっこいい」ものではないと思い込んでいた。
今読み直してみると、論語は実に人間的な教えである。「ガリ勉のすすめ」のようなものでもなければ、自分を殺して国のために命を捧げようというのでもなければ、会社と運命共同体のように、一生を会社のために捧げようというような思想でもない。もっと自分を大事にしている。むしろどうしたら人生を楽しく生きられるかを説いていると言ってもいい。ただし、楽しみにもいろいろの種類があることは事実で、酒やふしだらな暮らしの楽しみもあれば、家族団欒という、庶民のささやかな楽しみもあれば、一つの仕事に一生を捧げることにも楽しみはある。そういう中で孔子は純粋な楽しみを追及していた。
孔子の思想には、人間は一時的に楽しいことをしていても、「悪いことをしていたら楽しくなれない」とか「欲望のままに行動しては、いつかその報いを受け、楽しみが苦しみに変わることもある」というような意味も含まれていて、我々凡人が簡単にまねできるとは限らない。それでも、孔子が「楽しむ」ことに価値をおいていたこことは、このあと説明するのを読んでもらえば分かるはずである。
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2
たとえば論語の冒頭の一句「まなびて時にこれを習う。またよろこばしからずや。」というのは、人によっていろいろの解釈をしているが、もっと単純素朴に読めば、学ぶということは楽しいなあ、ということである。それだけのことを偉大な孔子ともあろう人が、わざわざ言うことはないと思う人がいるかもしれない。しかし、二、五〇〇年前には、それは一つの発見だったのである。日本で言えばまだ縄文時代、人々は生き方とか、人生とかいうことを取り立てて考えたり、議論したりすることも知らなかった時代である。そういう中で、学ぶということは実に楽しいことなんだ、ということを発見し、人々に説いたのは、まさに孔子の偉大な業績だったのである。
日本の学校では、点数ばかりを気にする詰め込み主義の教育が行き過ぎて、子供から何かを学ぶことの楽しさを奪ってしまっている。子供はみな、健康に育っていれば、物事を学び、知ることが楽しいはずである。そして子供は記憶力もいい。私の考えでは「子供はみな天才である」。
「朋あり遠方より来る。また楽しからずや」というのも、「学ぶ」ことを好むもの同士が知識や意見の交換をするコミューニケーションの楽しみをのべたものである。私自身も、趣味や職業を共有する友人とあって話をすると、それまで気がつかなったことに気がついて、その発見に楽しい思いをすることが今でもしばしばある。そういうことが楽しいのだ、ということも、いにしえの人にとっては発見だった。孔子はそれをひとに伝えたかった。『論語』の冒頭にこの言葉がおかれた理由はそこにあると思う。
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3
弟子の一人が孔子に「貧乏でも人にへつらうことなく、金持ちになってもおごることのない人をどう思いますか」とたずねると、孔子はこう答えた。
「それはいい。しかし、貧しくても道を楽しみ、金持ちになっても礼を好むものにはおよばない」
多くの人の説明では、この部分は、孔子はそれほど道や礼というものに価値をおいていた、孔子ほど道を極めた人にとっては、道や礼という凡人には重苦しいものでも、「好ましい」ものになるということになる。それもあながち間違っているとは言わないが、より素直に読むなら、「道を行うことは実に楽しいことである」「礼とは強制するものではなく、好ましいものである」、もし道を行ったり、礼に従ったりする人が「つらい」とか「堅苦しい」と思うとすると、その人はまだ本物ではない。本当に道や礼の価値を理解すれば、それらは楽しいはずである、という意味である。
道とは不必要に自分を苦しめるためのものではなく、(たとえ苦しくても)楽しむものだと言っている。だから、
「朝(あした)に道を聞き、夕べに死すとも可なり。」とつながる。
「関雎(かんしょ)楽しみて淫せず。」
これは「限度を越えて楽しみを貪れば、本当の楽しみはえられない」という意味で、何事によらず、真の楽しみを得るための心得を述べたものである。
「回はえらい。一杯の飯と、一椀の飲物で、せまい路地暮らし。ふつうの人なら耐えられないのに、回はそんな中でも楽しみを忘れない」
「粗末な食べ物を食べ、水を飲み、ひじを枕にして寝る生活の中にも楽しみはある」ともいう。
貧乏の暮らしにも楽しみがあるというのも一つの「発見」だった。それ以前のだれもが気がつかなかったか、気がついても言葉で表した人がいなかったから、発見だったのである。
孔子の弟子が人に「孔子とはどんな人か」と聞かれ、うまく答えられなかったと聞いて、孔子は「こう答えればよかった」と言った。
「その人となりは、怒れば食を忘れ、楽しんでは憂いを忘れ、年をとることをも忘れている」。(孔子は楽天家だった)
「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」。
「(学問について)これを知るものはこれを好むものにしかず、これを好む者はこれを楽しむ者にしかず」。
何を楽しむかは人それぞれ違っても、よりよい楽しみを追及することが大事なのだ。
「不仁者は恵まれない境遇に長くいることはできないが、楽な、楽しい境遇にも長くとどまれない」。
これも同じ。
「(たくさんのいい弟子に囲まれて)孔子は楽しかった」(「子楽しむ」)という文句もある。
彼は人生の楽しみ方を教える。「人生は楽しくなくてはダメだ」と言っているのである。
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4
彼はまた物質的豊かさを否定しているわけでもない。
曽子という弟子が「春の終わり頃、六、七人の少年のお供を従え、郊外に出かけ、沂水のほとりでひと風呂浴び、雨乞いの台の上で涼み、いい気持ちになり、歌を歌いながら帰る。そういう境遇になってみたい。さぞ楽しいでしょう。」と言ったのに対して、孔子は「私は曽子の意見にまったく賛成だ」と言っている。
貧乏でなければ本当の幸福はえられないという「清貧」思想はまだ孔子にはなかったようだ。
孔子が決して石部金吉のような偏屈な人間でなかったことを物語るエピソードも記されている。
ある人が孔子の弟子にこんなことを聞いた「孔子という方はものも言わず、笑わず、贈り物をされても受け取らないというのは本当か」。
すると弟子は「それは間違いです。あの方は言うべき時に言われるので、言われたことをだれもいやと思わないのです。本当に楽しい時に笑われるので、笑ったことをだれもいやがらないのです」。
また、いい楽しみと悪い楽しみと、それぞれ三つずつあるとも言っている。
いい楽しみは「礼儀と音楽を正しくすることの楽しみ、人のいいところを言う楽しみ、賢い友だちが多いという楽しみ」。悪い方は「わがまま勝手をする楽しみ、怠惰の楽しみ、酒飲みの楽しみ」である。
酒飲みは悪い楽しみだというのはやや我々の感覚と異なるが、当時においてはそれほど偏屈な考えではなかったのだろう。
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5
孔子が音楽を非常に大事にしたいたことも、論語の中でしばしば音楽に言及していることから容易に分かる。それに対して人はまた「孔子のいう音楽は高尚な芸術であって、遊びとは違うだろう」と反論するかもしれない。
それに対してはこう答えよう。「孔子にとって芸術的な音楽と遊びの音楽というような区別はなかった、孔子はもっと純粋に音を楽しむことを考えていただけである。」
孔子が「道に志し、徳により、仁により、芸に遊ぶ」。と言っているのを素直に読めばそれが分かると思う。
また彼が「遊び」の価値を認識していた証拠もある。
「暇で何もしないでいるよりは、博奕(碁やすごろくなどのゲームのこと)をやっている方がいい」とも言っている。決してゆとりもなくはたらいたり、勉強したりしているのがいいとは言っていない。こういうところも、孔子が謹厳実直、勤倹貯蓄の教えであるかのように説く論語学者はほとんど無視している。
こういう孔子の思想が近代日本の学校教育に取り込まれ、非人間的な封建思想や、遊びや無駄を完全に排除し、血へどを吐きながらでも勉強しろというガリ勉主義の戒律ででもあるかのように教えられたのは日本にとって不幸なことだった。それは日本の為政者やそれに追随する学者による歪曲だった。そのようなゆがみが今なお残っている。今はその残り滓を洗い落とす時である。誤解されないように断っておくが、私は近頃の政治家が口にするように、勉強を減らして「ゆとり」の時間を増やそうなどと短絡的なことを言う積りはない。一番の問題は、日本人が、学ぶことの楽しさや、正しい生き方の楽しさを忘れてしまったことなのである。
人生は楽しくなければダメなのだ。楽しくなかったら、その人の生き方はどこか間違っている、と孔子は言っている。人間性を無視したイデオロギーは必ず滅びる。遊びは人間性が自由に活動することだから、遊びに価値を認めない思想も長続きしないということも、孔子は教えている。「おごる者久しからず」という言葉があるが、古来、人間性を無視した思想も長続きしなかった。 end
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